言葉の墓守と歌の精霊

言葉の墓守と歌の精霊

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第一章 沈黙の響石

リアンの世界は、音に乏しかった。人々は唇を固く結び、視線と身振り、あるいは石板にチョークを走らせる乾いた音で意思を交わす。この世界では、言葉は命そのものだった。一語発するごとに、己の寿命という砂時計から、確かな重さを持つ砂が一粒、また一粒とこぼれ落ちていくのだ。饒舌は緩やかな自殺であり、沈黙こそが長寿と賢明さの証とされた。

リアンは、そんな世界で「響石(きょうせき)職人」として生きていた。言葉を惜しむ者たちのために、思いを込めた音を特殊な鉱石に封じ込め、贈り物や伝達の手段とする仕事だ。彼の工房は、街の片隅で静寂を吸い込んでいた。石を削るノミの硬い音、磨き砂のささやかな摩擦音、そしてリアン自身の規則正しい呼吸の音だけが、彼の世界のすべてだった。彼は誰よりも言葉を憎み、そして恐れていた。幼い頃、愛を囁きすぎた両親が、まるで蝋燭の火が消えるように寄り添いながら「饒舌病」で逝ってしまった光景が、彼の瞼の裏に焼き付いている。以来、彼は必要最低限の言葉すら唇に乗せることをやめた。

その日、工房の扉が軋む音に、リアンは石を打つ手を止めた。そこに立っていたのは、麻の簡素な服をまとった一人の少女だった。年は十を少し超えた頃だろうか。陽光を吸い込んだような亜麻色の髪と、深い森の湖を思わせる澄んだ瞳が印象的だった。彼女は声を発さず、ただ深々と頭を下げると、懐から一枚の羊皮紙を取り出してリアンに差し出した。

『失われた「歌」を、作っていただけませんか』

インクの染みさえも切実な響きを持つ、その一文を読んだ瞬間、リアンの心臓が冷たい石のように硬くなった。歌。それは、無数の言葉を旋律に乗せて浪費する、この世界で最も愚かで、最も贅沢な禁忌。伝説によれば、古の時代には存在したというが、今ではその存在自体が忌むべきおとぎ話として語られるだけだ。

リアンは首を激しく横に振った。石板を掴み、乱暴な字で書き殴る。

『不可能だ。帰れ』

しかし、少女は動かなかった。彼女はただ、縋るような瞳でリアンを見つめ続ける。その瞳には、言葉以上の重さがあった。リアンが背を向けても、その視線は彼の背中を静かに、だが確かに射抜いていた。彼は苛立ち紛れに道具を棚に叩きつけたが、少女の気配は消えない。まるで、工房の静寂そのものに根を張ってしまったかのようだった。その粘り強さは、リアンが長年かけて築き上げてきた沈黙の壁に、初めて微かなひびを入れた。

第二章 紡がれる旋律

少女はエマと名乗った。もちろん、それも筆談によってだ。彼女は生まれつき声帯に異常があり、言葉の重さとは関係なく、声を出すことができなかった。リアンは結局、彼女の静かな粘り強さに根負けし、不可能だと知りながらも依頼を引き受けてしまった。エマは、弟が原因不明の「心の病」に冒されており、亡き母が唯一口ずさんでいたという伝説の歌だけが、彼を救う唯一の希望なのだと、小さな文字で綴った。

リアンは街の中央図書館の地下深く、埃とカビの匂いが支配する書庫に籠もるようになった。禁書に指定された古文書の山を、蝋燭の灯りを頼りに読み解いていく。そこには、断片的ながらも「歌」に関する記述が残されていた。『言葉は魂の息吹』『旋律は世界を揺らす』――そんな、今の世界の価値観とは相容れない、熱に浮かされたような言葉たちが並んでいた。

工房に戻ると、リアンは古文書から見つけ出した音階と思しき記号を、様々な種類の響石に刻みつけては試した。月長石は悲しげな高音を、黒曜石は地の底から響くような低音を奏でた。彼は来る日も来る日も、言葉にならない音の断片を紡ぎ続けた。その傍らには、いつもエマがいた。彼女はリアンの手元を静かに見つめ、彼が作った音の欠片を聴いては、小さく頷いたり、首を振ったりした。

言葉を交わさない二人の間には、不思議な共感が生まれていった。エマが差し出す木の実の酸味。リアンが淹れた薬草茶の湯気の温かさ。夕暮れの光が工房に差し込み、舞い上がる石の粉を金色に染め上げる光景。それらすべてが、雄弁な会話よりも深く、二人の心を通わせた。リアンは、言葉を憎むことで閉ざしていた自分の心に、柔らかな光が差し込むのを感じていた。誰かと共に何かを創り出すという行為が、こんなにも満ち足りたものであることを、彼は初めて知った。

幾月も経った頃、ついに一つの旋律が形になった。それは、夜明け前の静けさと、嵐の後の澄んだ空気を同時に感じさせるような、不思議な調べだった。あとは、最後の核となる「言葉」を刻み込むだけだった。古文書の最後に記されていた、たった一つの単語。リアンは、それが歌の魂であり、同時に最も多くの寿命を削るであろう危険な言葉だと直感していた。

第三章 偽りの鎮魂歌

最後の言葉を刻むノミを持つリアンの手は、微かに震えていた。エマが隣で固唾を飲んで見守っている。彼女の期待が、重圧となって彼の肩にのしかかった。彼は意を決し、最も硬く、そして最も純粋な響きを持つ水晶の響石に、その一語を刻み込んだ。

――『光』。

その瞬間、工房を凄まじい輝きが満たした。響石はリアンの手から飛び上がり、空間に浮かぶと、耳をつんざくような、しかしどこか神々しい音を発した。リアンの意識は、光と音の奔流に飲み込まれていく。

彼は見ていた。遥かな、遥かな古代の光景を。そこは、言葉と歌に満ち溢れた世界だった。人々は笑い、語り、歌い、その魂の響きで奇跡さえも起こしていた。言葉は命を削る呪いなどではなく、世界を豊かにする祝福そのものだった。しかし、その力を恐れた一人の古代王がいた。彼は人々の絆と力を分断するために、世界そのものに大いなる呪いをかけたのだ。「言葉に、命の重さを与えよ」と。呪いは成就し、世界から歌は消え、人々は沈黙の牢獄に閉じ込められた。

そして、リアンはエマの真の姿を見た。彼女は人間ではなかった。呪いによって形を失い、かろうじて存在を保っていた「歌の精霊」。彼女が語った病気の弟など、どこにも存在しなかった。彼女の目的は、この世界に歌を取り戻し、言葉にかけられた呪いを解くこと。そして、その儀式の最後の仕上げには、純粋な魂を持つ人間の、すべての「命」を触媒として捧げる必要があったのだ。

光が収まり、リアンは床に膝をついた。目の前には、涙を滂沱と流すエマが立っていた。彼女の身体は透き通り始め、その輪郭が揺らいでいる。

「ごめんなさい……あなたを、騙していた」

初めて聞く、エマの声だった。それは鈴を転がすような、しかし深い悲しみを湛えた声だった。

「でも、これしか方法がなかった。このままでは、世界は静寂の中でゆっくりと死んでいくだけだから。あなたは、誰よりも言葉を憎みながら、誰よりも純粋に音を愛していた。だから、あなたしかいなかったの」

裏切り。その事実は、リアンの心を鋭く抉った。だが、それ以上に、幻視で見た光景――言葉が祝福であった世界の記憶が、彼の価値観を根底から揺さぶっていた。両親の死は、言葉のせいではなかった。彼らは呪われた世界で、ただ愛を表現しただけだったのだ。彼が憎むべきは言葉ではなく、言葉から力を奪ったこの世界の歪みそのものではないのか。

第四章 世界で最初の言葉

リアンはゆっくりと立ち上がった。怒りも、絶望もなかった。彼の心を満たしていたのは、不思議なほどの静けさと、そして一つの決意だった。彼は、自分が築き上げてきた沈黙の人生が、この瞬間のためにあったのだとさえ感じていた。言葉を惜しみ、蓄えてきた長い寿命。それは、この呪われた世界を解放するために捧げられるべきものだったのかもしれない。

彼はエマに向かって、おだやかに微笑んだ。それは、彼が生まれて初めて見せた、心からの笑みだった。そして、宙に浮かぶ光り輝く響石へと、震える足で歩み寄った。

「リアン、だめ……!」エマが悲痛な声を上げる。

しかし、リアンの決意は変わらなかった。彼は響石にそっと手を触れる。彼の身体から、温かい光が奔流となって石に吸い込まれていくのが分かった。視界が白んでいき、手足の感覚が消えていく。両親の顔が脳裏をよぎった。彼らが最期に交わした愛の言葉が、呪いではなく祝福であったことを、今なら理解できる。

薄れゆく意識の中で、リアンはすべての力を振り絞り、何十年も閉ざしてきた唇を開いた。彼の喉から、掠れた、しかし確かな響きを持つ音が生まれた。それは、彼がこの世界に放つ、最初で最後の言葉だった。

「君に、出会えて、よかった」

その言葉が引き金となった。響石は眩い光を天に放ち、分厚い雲を突き破った。光は世界中に降り注ぎ、人々を縛り付けていた沈黙の呪いを、春の雪を溶かすように解いていった。街のあちこちで、人々が恐る恐る、そして驚きと共に、自分の声で言葉を紡ぎ始める。忘れていた言葉の温かさに、涙を流す者もいた。

リアンの身体は、光の粒子となってゆっくりと崩れていく。その光景を、エマは涙に濡れた瞳で見つめていた。そして、彼女は歌い始めた。それは、世界が生まれた時に響いたという「最初の歌」。リアンの魂への鎮魂歌であり、新しい世界の産声でもあった。彼女の歌声は、蘇った人々の言葉と混じり合い、大気となって世界を満たしていった。

世界は言葉と歌を取り戻した。そのために、一人の寡黙な職人が自らの命を捧げたという事実は、ほとんど誰にも知られることはない。だが、人々が言葉を交わすとき、その声の温もりの中に、歌を愛した精霊に最後の言葉を贈った男の魂が、確かに息づいている。空から時折きらめきながら舞い落ちる光の粒は、人々が言葉の本当の価値を決して忘れぬようにと見守る、彼の優しい眼差しなのかもしれなかった。

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