第一章 聴罪師と重すぎる少女
エリオットの仕事場は、街の裏路地のさらに奥、忘れ去られたような石造りの建物の地下にあった。窓はなく、一日中ランプの微かな光が、壁に染み付いた無数の後悔の影を揺らしている。彼は「聴罪師(ちょうざいし)」と呼ばれていた。この世界では、嘘は単なる言葉ではなかった。それは物理的な重さを持ち、人の魂と肉体にまとわりつくのだ。些細な偽りは小石のように、そして悪意に満ちた欺瞞は鉛の塊のように。人々は、その重さに耐えきれなくなると、エリオットの元へやって来る。彼は、他人の嘘の重さを感じ、一時的に引き受けることができる、稀有な才能の持ち主だった。
その日、古びた木の扉が軋み、一人の少女が入ってきた。歳は十五か十六ほど。陽の光を浴びて育った花のような快活さを無理に装っているが、その足取りは絶望的に重かった。一歩踏み出すごとに、床板が悲鳴を上げ、彼女の肩が目に見えない力で押し下げられているのが分かった。エリオットがこれまで引き受けてきたどんな嘘つきよりも、桁違いに重い。
「聴罪師様、と伺いました」少女は息を切らしながら言った。リラ、と名乗った彼女の額には、玉のような汗が滲んでいる。
「いかにも。どんな嘘だ? 夫を騙したか、商売でごまかしたか。重さによって料金は変わるが」
エリオットは努めて事務的に応じた。感傷は、この仕事の邪魔になるだけだ。彼は生まれつき体が弱く、他人の嘘を引き受けすぎれば、自分が動けなくなることを知っていた。
リラは首を横に振った。その動きさえも、まるで水中で藻が揺れるように緩慢だった。
「私の嘘は……たぶん、誰にも引き受けられない」
「ほう。大層な自信だな」
エリオットは興味をそそられ、能力を集中させた。普段は依頼人の体に触れて重さを量るが、彼女の場合は触れるまでもない。部屋に入ってきた瞬間から、空気が歪み、空間そのものが彼女の重さに呻いている。エリオットが手を伸ばし、彼女の嘘の輪郭に精神を触れさせようとした、その瞬間――。
ズン、と内側から殴られたような衝撃が走った。それは底のない海溝を覗き込むような、無限の質量。星々を砕いて粉にしたものを、たった一人で背負っているかのような、途方もない重圧だった。エリオTットは思わず椅子から転げ落ち、喘いだ。呼吸ができない。全身の骨が軋み、意識が遠のく。
「……無理だ」エリオットは咳き込みながら、かろうじて言葉を絞り出した。「帰ってくれ。君の嘘は、私を殺す」
彼は初めて、依頼を拒絶した。リラの瞳に浮かんだ深い絶望の色を見ないようにしながら、彼は震える手で扉を指さした。リラは何も言わず、重い、重い足取りで部屋を出ていった。後に残されたのは、彼女が残した圧倒的な重さの残滓と、エリオット自身の心に生まれた、小さな石のような後悔だった。
第二章 嘘の天秤
リラは、翌日も、その次の日もやって来た。彼女は何も頼まず、ただ部屋の隅の椅子に座り、エリオットが他の依頼人の嘘を引き受けるのを静かに眺めているだけだった。客たちは、重荷から解放されて軽やかな足取りで帰っていく。そのたびに、エリオットの肩は少しずつ沈み、息が重くなる。彼は週に一度、聖なる泉で自らの身に溜まった重さを「浄化」するが、それまでは慎重に引き受ける嘘の量を選ばなければならなかった。
リラの存在は、エリオットの日常を静かに侵食していった。彼女は時折、他愛もない話をした。好きな花の色、故郷の村の祭り、幼い頃に読んだ絵本のこと。その声は鈴のように軽やかで、彼女が背負う重さとはあまりにも不釣り合いだった。エリオットは、彼女の嘘が何なのか、なぜそれほどの重さを一人で背負っているのか、気になって仕方がなかった。
「なぜ、そこまでして嘘をつき続ける?」ある日、エリオTットは耐えきれずに尋ねた。「その重さを手放せば、君はもっと自由に生きられるはずだ」
リラは悲しそうに微笑んだ。「手放せないんです。これは、私が守らなければならない嘘だから」
「嘘を守るだと? 馬鹿なことを言うな。嘘は人を苦しめるだけだ」
「……本当に、そうでしょうか?」
その問いは、エリオットの心の奥底に眠っていた記憶の扉を叩いた。彼がなぜこの仕事をしているのか。それは、かつて彼自身が、愛する人を守るために、一つの大きな嘘をついたからだ。病に伏す妹の命を救うため、「妹はもう治らない」と告げた医者の言葉を「必ず治る奇跡が起きる」という嘘で上書きした。その嘘は、信じられないほどの重さとなって彼を苛んだが、妹は最後まで希望を失わずに微笑んで逝った。彼の嘘は、妹の心を救ったのだ。その重さを引きずって生きてきた彼だからこそ、他人の嘘の重さが分かる。そして、それを軽くする術を身につけた。
エリオットは、リラを救いたいと強く思うようになっていた。それは同情や憐憫ではなかった。彼女の瞳の奥にある、諦めと覚悟が入り混じった光に、彼は惹きつけられていたのだ。彼は街の最も古い図書館に通い、禁書庫の埃をかぶった書物を読み漁った。「嘘」と「重さ」に関する古文書、世界の成り立ちに関する神話。何か、この異常な事態を解き明かす鍵があるはずだった。
第三章 忘れられた真実の重さ
数週間が過ぎた頃、エリオットはついに一つの記述を発見した。それは、ほとんど朽ちかけた羊皮紙に記された、異端として封じられた神話の一節だった。
『――世界はかつて、大いなる奇跡(まこと)によって満たされていた。空には玻璃の城が浮かび、人々は言葉を交わさずとも心を通わせ、病も争いもなかった。しかし、人の心に生まれた些細な疑念が、やがて大いなる奇跡そのものを「ありえない嘘」だと断じるに至った。人々が奇跡を嘘だと信じた瞬間、その存在は重さを持ち、世界を内側から崩壊させようとした。世界は、自らが否定した真実の重さに耐えきれず、軋み、砕け散ろうとしていた――』
エリオットは息を呑んだ。まさか。彼は急いで仕事場に戻った。リラはいつものように、そこに座っていた。彼女の顔色は以前よりもさらに悪く、呼吸は浅く、その存在自体が今にも重さに潰されて消えてしまいそうだった。
「リラ、君の嘘は……君一人のものじゃないな?」
エリオットの声は震えていた。リラは驚いたように顔を上げ、やがて静かに頷いた。
「……気づいて、しまいましたか」
彼女が語り始めた物語は、エリオットの想像を絶するものだった。
リラの一族は、人々が「嘘」だと捨て去った、世界の「大いなる奇跡(まこと)」そのものを、代々受け継いできたのだという。彼らは「柱」と呼ばれ、忘れられた真実が持つ途方もない重さを、その身に引き受けることで、世界の崩壊を防いできた。人々が当たり前のように享受しているこの平穏な日常は、柱である一族の誰かが、世界の真実を「これは私の嘘なのだ」と断じ、その重さに耐え続けることで、かろうじて成り立っていたのだ。
「先代の柱は、私の母でした。でも、母はもう限界で……私が役目を引き継いだのです。でも、私には、もう……」
リラの目から、一筋の涙がこぼれ落ちた。その一滴が、まるで溶けた鉛のように床に染みを作った。彼女が潰れる時、それは世界が終わる時。彼女がエリオットに助けを求めたのは、聴罪師に嘘を消してもらいたかったからではない。誰かに、この世界の真実を知ってほしかったのだ。誰にも知られず、忘れられた真実と共に、世界と心中する前に。
エリオットは愕然とした。彼の価値観が、足元から崩れ落ちていく。嘘を軽くし、人々を解放することが彼の正義だった。だが、今、目の前にあるのは、世界を支えるために「守らなければならない嘘」だった。リラを救うためにこの嘘を取り除けば、世界が滅ぶ。世界を守るためには、リラがこのまま重さに潰されるのを見ているしかない。なんという残酷な天秤だろうか。
第四章 二人の柱
絶望的な沈黙が、部屋を支配した。ランプの光が弱々しく揺れ、壁の影が嘲笑うように蠢いている。エリオットは、自分の無力さに打ちひしがれていた。彼の能力は、嘘の重さを「引き受ける」ことだけ。消し去ることはできない。引き受けた重さは、やがて浄化の泉で洗い流すしかない。だが、リラの背負う世界の真実の重さは、どんな泉でも浄化できるものではないだろう。引き受ければ、彼もまた、永遠にその重さに囚われることになる。
彼はリラの顔を見た。諦めの中に、ほんのわずかな希望の光を探している、その瞳を。彼はかつての自分を思い出していた。妹のために嘘をつき、その重さに潰されそうになっていた自分を。もしあの時、誰かが「その重さを半分持とう」と言ってくれたなら。どれほど救われただろうか。
そうだ。消すことだけが救いじゃない。
「リラ」エリオットは静かに立ち上がった。その足取りには、もう迷いはなかった。「君は一人じゃない」
彼はリラの前に跪き、彼女の冷たい両手を取った。
「君の嘘を、消すことはできない。だが、共に背負うことはできる。私に、その重さの半分を預けてくれないか」
リラの目が、信じられないというように大きく見開かれた。
「だめです! あなたまで……! これは、私の一族の……」
「もう君だけの一族の役目じゃない。君が私に話した瞬間から、それは私たちの物語になったんだ」
エリオットは目を閉じ、全神経を集中させた。彼はリラの手を通して、彼女が背負う「忘れられた真実」の核心へと触れていく。
――玻璃の城。心で語り合う人々。黄金の果実。争いのない世界。
それは、あまりにも温かく、美しく、そして途方もなく重い真実だった。
彼の全身を、万力で締め上げられるような激痛が襲う。骨が砕け、内臓が圧迫される感覚。意識がブラックアウトしそうになるのを、彼は必死で堪えた。これは罰ではない。これは、世界を守るための、誇りある重さなのだ。
どれほどの時間が経っただろうか。エリオットが目を開けると、世界は変わっていなかった。しかし、彼はもう立ち上がることができなかった。彼の体には、世界の真実の半分が、ずっしりと食い込んでいた。隣を見ると、リラも同じように床に座り込んでいた。だが、彼女の表情は、初めて見るほど穏やかだった。その肩から、目に見えない巨大な山脈の半分が、取り除かれたのが分かった。
「……軽い」リラは囁き、涙を流した。「こんなに、世界が軽いなんて」
「ああ」エリオットも微笑んだ。「二人で持てば、どんな重さだって耐えられる」
彼らはもう、この地下室から出ることはできないだろう。立つことも、歩くこともままならない。しかし、二人は孤独ではなかった。寄り添い、互いの体温を感じながら、静かにそこに在り続けた。
街の人々は何も知らない。聴罪師が姿を消したことを不思議に思う者もいたが、やがてその存在も日常の中に埋もれていった。人々は相変わらず小さな嘘をつき、その重さに悩み、それでも世界は平和に続いていく。
その平和が、街の片隅の地下室で、動けずに寄り添う二人の男女によって支えられていることを、誰も知らない。彼らは、世界から忘れられた真実を、そして互いの存在を、二人だけの世界で守り続ける。それは、永遠に続く静かな愛の物語であり、世界が成り立つための、最も重く、そして最も美しい秘密なのだった。