第一章 静寂の兆し
私の村は、音で満たされていた。風が銀葉樹の葉を揺らす音、谷川のせせらぎ、そして何よりも、人々が紡ぐ「歌」の音。この谷間に暮らす私たちは「歌い手」の一族と呼ばれ、その声は万物に癒やしと活力を与える力を持つと信じられてきた。
しかし、その歌声が届かぬ脅威が、谷を蝕んでいた。「灰色の霧」。それは生きた伝説であり、生きた災厄だった。霧に触れた草木は色を失って石と化し、鳥は鳴き声を忘れて枝から落ちた。霧は音という音を喰らい、絶対的な静寂と停止を振りまきながら、ゆっくりと村に迫っていた。
村の歌い手たちは、霧の侵攻を食い止めるため、日夜交代で「鎮めの歌」を歌い続けていた。幾重にも重なる神聖な和音は、かろうじて霧の境界線を押し留めていたが、その力は年々弱まっているように思えた。
そんな中で、私、リラは一族の落ちこぼれだった。歌い手の一族に生まれながら、致命的なほどに音痴なのだ。私の歌は、和音を乱し、旋律を歪める。人々が私に寄せる憐れみと失望の視線が、針のように心を刺した。だから私は、歌うことから逃げ、いつも谷の隅で息を潜めるようにして生きていた。
その日も、私は長老たちの歌声が届かない、霧の境界線近くまで来ていた。灰色に染まった大地は、まるで世界の終焉を思わせる。ふと、霧に飲み込まれかけている一輪の月光花が目に入った。銀色に輝くはずの花弁は、根元から石化し始めていた。
助けたい。でも、私には癒やしの歌を歌えない。無力感に胸が締め付けられたその時、突風が吹き、私のフードが脱げた。驚いた私は、思わず息を呑んだ。声を出すのではなく、吸い込んだ息を肺に閉じ込め、体の内側から外側まで、全ての音を殺すように――。
その瞬間、信じられないことが起きた。
私の周りの空間から、ふっと音が消えた。風の音も、遠くの歌声も、自分の心臓の鼓動さえも聞こえない、真空のような静寂。そして、目の前の月光花にまとわりついていた灰色の霧が、まるで光に怯える闇のように、わずかに後ずさったのだ。
ほんの一瞬の出来事だった。私が息を吐き出すと、世界に音は戻り、霧も元の場所へとじりじりと滲み寄ってきた。しかし、私は見てしまった。歌とは真逆の、「完全な沈黙」が、この災厄に対して微かながらも力を持つことを。それは、一族の教えの全てを覆す、禁忌の発見だった。
第二章 禁忌の旋律
その日を境に、私の世界は一変した。私は誰にも告げず、密かに「沈黙」の力を探求し始めた。それは歌うこととは全く異なる、内なる静寂を極める技術だった。呼吸を止め、思考を止め、魂の振動さえも鎮める。その果てに訪れる絶対的な無音状態が、私の周囲に小さな聖域を作り出し、灰色の霧を退けるのだ。
初めは、霧に蝕まれた草花を救うことしかできなかった。しかし、修練を重ねるうち、石になりかけた小鳥を元に戻したり、濁った小川の流れを清めたりと、出来ることが増えていった。歌では誰の役にも立てなかった私が、初めて世界と関わり、何かを守れるという事実に、胸は震えるほどの喜びに満たされた。
だが、その力には代償があった。沈黙の魔法を使った後、私の世界はしばらくの間、現実の音を失うのだ。初めは耳鳴りのような軽いものだったが、次第に人々の声が遠くなり、鳥のさえずりが聞こえなくなり、しまいには半日近くも音が全くない世界に閉じ込められるようになった。
それは、ただ音が聞こえないのとは違った。私の内側から、言葉が、思考が、感情の響きがごっそりと奪われるような、空虚な感覚だった。私は、自分の魂が少しずつ削り取られていくような、底知れぬ恐怖を感じ始めていた。
村一番の歌い手である祖母は、私の変化に鋭く気づいていた。ある夜、祖母は私の部屋を訪れ、静かに言った。「リラ。お前から、大切な音が消え始めている。お前が何をしているのかは知らない。けれど、音を消すことは、命を消すことと同じだよ」
祖母の瞳には、深い悲しみと、私が知らない何かへの怖れが宿っていた。「世界は音でできている。星々の運行も、命の芽吹きも、全ては始まりの歌から生まれたのだから。その調和を乱す力は、必ず大きな災いを招く」
「でも、この力は霧を退けられる!」私は思わず声を荒らげた。「歌ではもう、村を守りきれないかもしれない!」
「それでもだめだ」祖母は、決して譲らないという強い意志で首を横に振った。「その力は、お前自身を、そしていつかは世界そのものを、灰色に変えてしまうだろう」
祖母の言葉は、私の心に重くのしかかった。しかし、日に日に勢いを増す霧を見ていると、立ち止まることはできなかった。この力でしか、守れないものがある。たとえ、私が私でなくなるとしても。その決意は、私を破滅へと誘う、禁忌の旋律のように甘美だった。
第三章 灰色の告白
季節が移ろい、谷を吹き抜ける風が骨身に染みる頃、恐れていた事態が現実となった。灰色の霧が、これまでとは比較にならないほどの勢いで、村全体を飲み込もうと押し寄せてきたのだ。長老たちの鎮めの歌も、巨大な沈黙の津波の前では、か細いさざ波のように掻き消されていく。
家々は灰色に染まり、村人たちの顔にも絶望の色が浮かんでいた。もう、逡巡している時間はない。
私は、村の中央広場へと駆けだした。祖母が、そして村人たちが見ている前で、私は全てを終わらせる覚悟を決めた。私の持つ、ありったけの沈黙の力を解放すれば、この村を覆う霧を全て消し去れるかもしれない。その代償に、私の内なる世界が永遠に音を失うとしても、構わなかった。
私が大きく息を吸い込み、究極の沈黙を発動させようとした、その時。
「待って、リラ!」
祖母の悲痛な叫びが、私の動きを止めた。彼女は震える足で私のもとへ歩み寄り、私の両肩を掴んだ。その瞳は涙に濡れていた。
「お前が使ってはならない…。その力は、私が、私が生み出してしまった呪いなのだから」
広場が、驚きと混乱でざわめいた。祖母は何を言っているのか。
祖母は、堰を切ったように語り始めた。それは、誰にも話したことのない、彼女の過去の物語だった。
ずっと昔、祖母には心から愛する人がいた。しかし、彼は不治の病に冒され、日に日に衰弱していった。彼の苦しむ声、呻き、絶望のため息。偉大な歌い手であった祖母は、あらゆる癒やしの歌を歌ったが、彼の命を繋ぎ止めることはできなかった。
「私は、耐えられなかった」祖母の声は、遠い記憶を辿るように掠れていた。「彼の苦しむ『音』を、この世界から消し去ってしまいたかった。だから、私は禁忌に手を出した。音を創造する歌い手の力を逆転させ、特定の音を世界から抹消する、沈黙の魔法を使ったのだ」
彼女が発動した魔法は、絶望の音を消し去ることに成功した。愛する人は、安らかな表情で息を引き取ったという。しかし、その代償はあまりにも大きかった。
「世界から一つの音を消すということは、その音と繋がっていた全ての存在から、魂の響きを奪うことだった。私が消した『絶望の音』は、それに共鳴していたあらゆる生命から、生きる力の一部を奪い去った。その、魂の響きを失った存在の残滓こそが…この『灰色の霧』の正体なのだよ」
衝撃の事実に、私は言葉を失った。この霧は、祖母の愛と絶望が生み出した悲劇の産物だったのだ。そして、私が希望だと信じていた力は、霧を生み出したのと同じ、世界から音を、命を奪う破滅の力に他ならなかった。
足元から世界が崩れていくような感覚に襲われた。私がこれまで救ってきたと思っていた命は、ただ、別の形の沈黙に塗り替えていただけだったのだろうか。絶望が、私の心を灰色に染め上げていった。
第四章 声なき世界の歌
絶望の淵で、私の視界は灰色に染まっていた。祖母の嗚咽も、村人たちの不安げな声も、何もかもが遠い。私が信じた力は、破壊の連鎖を加速させるだけのものだった。
しかし、その灰色の世界の中で、私は一つの光景を見た。私の手を固く握りしめる祖母の皺だらけの手。その向こうで、怯えながらも私を見つめる幼い子供たちの瞳。彼らの存在そのものが、声にならない音となって、私の魂に直接響いてきた。
――違う。
霧を「消す」から、いけないのだ。祖母は絶望の音を消そうとして、世界を歪めてしまった。私もまた、霧という存在を消そうとして、同じ過ちを犯そうとしていた。
本当にすべきことは、消すことじゃない。取り戻すことだ。この霧に、失われた音を、魂の響きを、還してあげることだ。
私には、癒やしの歌は歌えない。けれど、私にしかできないことがある。この沈黙の力を逆転させ、私の内なる音を、世界に与えること。
「おばあ様」私は祖母を見つめた。「ありがとう、話してくれて。でも、私はおばあ様とは違う道を行く」
私はゆっくりと目を閉じた。もう、外の音を遮断する必要はなかった。意識を、自分の内側の、最も深い場所へと沈めていく。そこには、私がこれまでに聞いてきた、数え切れないほどの音の記憶が眠っていた。
初めて母が歌ってくれた子守唄。友達と笑い合った声。風にそよぐ銀葉樹の葉音。夏祭りの賑わい。そして、この村で生きてきた日々の、何気ないけれど愛おしい全ての響き。
それは、私の魂を形作る「心の歌」だった。
私は、声を失うことも、耳が聞こえなくなることも、覚悟した。私の存在そのものを旋律として、私の魂を楽器として、声にならない歌を、世界に解き放った。
それは爆発的な力の解放ではなかった。一滴の水が水面に落ちて波紋を広げるように、私の内なる音が、静かに世界へと染み出していく。私の「心の歌」は、灰色の霧に触れ、失われた響きを呼び覚ましていく。絶望の残滓に、愛の記憶を、希望の旋律を、そっと重ねていく。
世界が、変わっていく。灰色だった霧が、まるで夜明けの空のように、淡い光を帯び始めた。石と化していた草花が、ゆっくりと本来の色を取り戻していく。硬直していた村人たちの体から力が抜け、安堵のため息が漏れる。
霧が完全に晴れた時、谷には、これまで聞いたこともないほど澄み切った、柔らかな光が満ちていた。
そして、私の世界からは、完全に音が消えた。
人々の歓声も、祖母の泣き声も、もう私には聞こえない。自分の声も、どうやったら出せるのか、もう思い出せない。完全な沈黙が、私の新しい日常となった。
けれど、不思議と悲しくはなかった。音を失った私の目には、世界の全く違う姿が映っていたからだ。祖母の涙のひとしずくに込められた長年の悔恨が、子供たちの笑顔に宿る未来への輝きが、風に揺れる花びらの、懸命な生命の躍動が、まるで美しい音楽のように、私の心に直接流れ込んでくる。
私は声を失い、音を失った。しかし、その代わりに、世界の本当の「歌」を聴く力を手に入れたのだ。音痴だった私が、誰よりも深く、この世界の魂の響きと繋がることができた。
私は空を見上げた。そこには、ただ静かで、どこまでも優しい世界が広がっていた。