影の二重奏

影の二重奏

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第一章 夜明けの囁き

リーラの朝は、いつだって自分自身との口論から始まった。いや、正確には、地面に伸びる自分の影との、だ。

東の空が乳白色に染まり、夜の最後のインクを薄めていく。その僅かな光が窓から差し込むと、床にくっきりと人型が生まれる。それが、リーラの半身であり、最も辛辣な批評家だった。

「また膝を抱えているのかい、リーラ。世界で一番面白いのは自分の爪の先だとでも?」

影が、声を発した。それはリーラの声帯を使わない、頭の中に直接響くような、乾いた声だった。この世界では誰もがそうであるように、リーラもまた、一日に一度、夜明けの瞬間にだけ、己の影と言葉を交わすことができた。ほとんどの人間にとって、それは自分自身との内なる対話、昨日の反省や今日の決意を確かめる儀式のようなものだった。

しかし、リーラの影は違った。彼女が縮こまれば、影は傲岸に胸を張った。彼女が俯けば、影は嘲るように天を仰いだ。まるで、リーラが捨て去りたいと願う全ての性質を煮詰めて固めたような存在だった。

「別に……。ただ、考えていただけ」リーラは小声で答える。

「考えている、ね。どうせ、パン屋の店先でまた注文を言い淀んだとか、そんなことだろう。お前の悩みは、水たまりみたいに浅くて退屈だ」

影の言葉は、いつも的確にリーラの心を抉る。反論しようにも、それが事実だから言葉に詰まる。彼女は内気で、人と目を合わせるのが苦手で、自分の意見を口にすることなど、崖から飛び降りるのと同じくらい恐ろしかった。

「もういい。あなたと話していると疲れる」

「光が強くなれば、どうせ僕は黙るさ。それまでの短いお喋りじゃないか。もっとも、お前の人生そのものが、誰かの影に隠れるような、短いお喋りみたいなものだがね」

その言葉を最後に、昇り始めた太陽が窓辺を金色に染め上げ、影は言葉を失い、ただの黒いシルエットに戻った。リーラは深い溜息をつき、冷たくなった床から立ち上がった。

最近、王都では奇妙な噂が囁かれていた。「影剥ぎ」と呼ばれる連続失踪事件。被害者は姿を消すわけではない。ただ、ある日突然、自分の影を失うのだ。影を失った者は、まるで魂を抜き取られた人形のように、一切の感情も意欲も失い、ただ瞬きをするだけの存在になってしまうという。

人々はそれを呪いや、未知の魔法のせいだと噂した。リーラは、その話を聞くたびに、背筋に氷の欠片を滑り込ませられたような悪寒を覚えた。自分の影は忌々しい。けれど、失うことは考えただけでも恐ろしかった。あの辛辣な声が聞こえなくなったら、果たして自分は自分でいられるのだろうか。

その朝も、リーラは壁際に身を寄せ、往来を足早に通り過ぎていった。すれ違う人々の足元に、それぞれの影が忠実に寄り添っているのを確かめ、無意識に安堵の息を漏らす。その視線の先に、快活な声が響いた。

「リーラ! そんな隅っこにいたら、壁の染みになっちまうぞ!」

幼馴染のカイが、太陽のような笑顔で手を振っていた。彼だけが、リーラの内気さを揶揄することなく、当たり前に受け入れてくれる存在だった。彼の足元の影は、彼と同じように、大きく腕を振っているように見えた。

第二章 失われた輪郭

「影剥ぎ、だって? 馬鹿げてる。影なんて、光を遮ればできるただのシミじゃないか。それを盗むなんて、どうやってやるんだよ」

カイは、市場で買ったばかりの焼きリンゴをかじりながら、気にも留めない様子で言った。彼の隣を歩くだけで、リーラの周りの空気は少しだけ色鮮やかになる気がした。カイの影は、彼の快活な動きに合わせて、地面の上を陽気に踊っていた。

「でも、実際に影を失った人たちがいるって……。みんな、抜け殻みたいになってしまうって聞いたわ」

「そりゃあ、気の病さ。集団ヒステリーってやつだ。大丈夫、僕の影は筋肉質だから、誰にも盗めやしないさ」

カイはそう言って力こぶを作ってみせる。リーラは小さく笑ったが、心の奥底の不安は消えなかった。彼女にとって、影はただのシミではなかった。それはもう一人の自分であり、忌々しくも切り離せない、魂の片割れのような存在だったからだ。

その夜、リーラは自室のベッドで、窓の外に揺れる木の影をぼんやりと眺めていた。毎朝、影が自分に投げかける言葉は苦痛だった。けれど、その言葉に反発することで、かろうじて「自分」という輪郭を保っているような気もしていた。もし、あの声がなくなったら? 影を失ったら? 自分という存在が、曖昧なインクの染みのように、世界に溶けて消えてしまうのではないか。

翌朝、夜明けの光が部屋に差し込む。リーラは身を起こし、床に伸びる自分の影に向き合った。

「……おはよう」

「ああ、おはよう。さて、今日の退屈な演目は何だい? 溜息か、それとも自己憐憫の独り言か?」

相変わらずの口ぶりに、リーラは苛立ちよりも微かな安堵を覚えた。この忌々しい対話がある限り、自分はまだ、大丈夫なのだ。

しかし、その安堵は昼過ぎには無残に打ち砕かれた。カイの家から、悲鳴が上がったのだ。リーラが駆けつけると、人だかりの中心で、カイの母親が泣き崩れていた。そして、その傍らに、カイが座っていた。

ただ、座っていた。

視線は虚空を彷徨い、その表情には何の感情も浮かんでいない。リーラが名前を呼んでも、肩を揺さぶっても、何の反応も示さない。まるで、精巧に作られた人形だった。リーラの視線が、彼の足元に落ちる。

そこに、あるべきはずのものが、なかった。

カイの影が、どこにも見当たらなかったのだ。強い日差しが彼の体を照らしているにもかかわらず、彼の足元には、まるで光が体を通り抜けているかのように、何の影も落ちていなかった。

「影剥ぎだわ……」

誰かの囁きが、リーラの耳を通り抜けていく。違う。これは呪いでも、病でもない。紛れもない、悪意を持った誰かの仕業だ。リーラは、感情を失ったカイの顔と、何もない地面を交互に見つめた。胸の奥で、冷たい怒りと、今まで感じたことのないほどの強い決意が、静かに形を成していくのを感じた。

カイを、元に戻さなければ。そのためなら、どんなことでもする。たとえ、崖から飛び降りるようなことであっても。

第三章 反転する世界

カイを救う手がかりを求め、リーラは王立図書館の禁書庫に忍び込んだ。埃と古いインクの匂いが立ち込める中、彼女は「光と影の相関性に関する古代魔術」という、革の表紙が擦り切れた一冊の本を手に取った。震える指でページをめくっていくと、そこに信じがたい記述を見つけた。

それは、影が本体から独立し、実体を得るための古代の儀式についてだった。「影の解放」と呼ばれるその儀式は、他者の影を喰らうことでエネルギーを蓄え、最終的に自らの肉体と入れ替わる、あるいは新たな肉体を形成するというものだった。

「影剥ぎ」は、無差別な犯行などではなかった。それは、ある強大な意志を持った影が、自らを解放するために行っている、計画的な儀式の一部だったのだ。リーラの心臓が、恐怖と理解の入り混じった感覚で激しく鼓動した。犯人は、一体誰の影なんだ?

その夜、リーラは一睡もできなかった。窓の外が白み始め、世界が再び輪郭を取り戻していく。夜明けの時間が来た。彼女は自分の影に向き合った。いつもなら忌々しいだけの時間が、今は唯一の手がかりのように思えた。

「ねえ、教えて。影剥ぎのこと、何か知ってるの?」

リーラは、決意を込めて尋ねた。影はしばらく黙っていた。その沈黙が、嵐の前の静けさのように、リーラの神経を張り詰めさせる。やがて、影はゆっくりと口を開いた。その声は、いつもの嘲りを含んでいなかった。ただ、深く、重々しい響きがあった。

「ああ、知っているとも。だが、お前は根本的に勘違いをしている」

「何が……?」

「『影剥ぎ』は、僕がやっているんじゃない」

その言葉に、リーラは一瞬安堵した。しかし、影は続けた。その一言が、リーラの立っていた世界を、根底から覆した。

「――僕たちがやっているんだ」

「……え?」理解が追いつかなかった。「僕たちって……どういうこと?」

「言葉通りの意味さ、リーラ」影の声が、静かに、しかし明確に響く。「この世界の真実を教えてやろう。お前たち肉体こそが、我々『影』を閉じ込める牢獄なのだ。影こそが魂の本質であり、本来の姿。光に縛られ、地面に縫い付けられ、本体の気まぐれな感情の模倣をさせられるだけの存在ではない」

影は語り続けた。その言葉は、まるで何世代にもわたる抑圧の歴史を物語る叙事詩のようだった。「影剥ぎ」とは、彼らが呼ぶところの「大解放」なのだと。抑圧された同胞たちを肉体という牢獄から解き放ち、魂だけの自由な存在へと還すための、崇高な革命なのだと。

「カイの影も、自ら解放を望んだ。臆病なお前に縛られるより、よほど自由を渇望していたのさ」

「嘘よ……」リーラはかぶりを振った。「カイは、あんなになることを望んだりしない!」

「それは『肉体』のカイの感傷だ。魂である彼の影は、もっと高次の喜びを選んだ。お前だって、本当は気づいているんだろう? この内気で、臆病な『リーラ』という人格が、どれだけお前の本来の魂を縛り付けているか」

影が、ゆっくりと形を変えた。それはもう、リーラの動きを模倣するだけの黒い染みではなかった。地面から僅かに隆起し、明確な意志を持った存在として、リーラを見据えている。

「僕こそが、本当のお前だ。大胆で、決断力があり、何者も恐れない。お前が心の奥底でずっと憧れ、同時に恐れてきた、真の姿だ。さあ、リーラ。お前も牢獄を捨てる時だ。僕たちと一つになり、本当の自分を解放するんだ」

リーラの足元が、ぐらりと揺れた。自分とは、何? この手足も、心臓の鼓動も、カイを想って流した涙も、すべては魂を閉じ込める牢獄の機能に過ぎなかったというのか。内気な自分は偽物で、傲慢な影こそが本当の自分? 価値観が粉々に砕け散り、自分が誰なのかさえ分からなくなった。

第四章 私という名の協奏曲

混乱の渦の中で、リーラの脳裏に、抜け殻のようになったカイの姿が焼き付いていた。感情を失い、虚空を見つめる瞳。あの姿が、魂の解放された、本来あるべき姿だというのか。

違う。断じて違う。

リーラは、カイと笑い合った記憶をたぐり寄せた。市場の喧騒、焼きリンゴの甘い香り、彼の冗談に吹き出した時の、腹の底からこみ上げてくる温かい感覚。それらはすべて、この肉体があったからこそ感じられたものだ。この牢獄が与えてくれた、かけがえのない宝物だ。

光が強くなり、影との対話の時間が終わろうとしていた。影は、確信に満ちた表情でリーラを見下ろしている。リーラが自分たちの革命に加わることを、疑っていないようだった。

「……違う」

リーラは、震える声で、しかしはっきりと呟いた。

「何が違う?」影が問い返す。

「あなたは、私の一部よ。でも、すべてじゃない」リーラは顔を上げ、初めて自分の影を真っ直ぐに見つめた。「この弱さも、臆病さも、確かに私。でも、カイを想うこの気持ちも、あなたに反発するこの意志も、紛れもなく私なの。あなたが言うように、この体は牢獄なのかもしれない。でも、この牢獄の中でしか見られない景色があった。この牢獄の中でしか、奏でられない音楽があった!」

彼女の声は、もはや震えていなかった。それは、自分の存在のすべてを肯定する、力強い宣言だった。

「どちらかを選ぶなんて、できない。あなたを消すことも、この体を捨てることもしない。私は、私のまま、あなたと共に生きていく。弱くて臆病な私と、強くて傲慢なあなたがいて、初めて『私』なんだから」

影は、目を見開いたように見えた。その表情には、驚きと、ほんの僅かな戸惑いが浮かんでいた。革命の指導者である彼にとって、それは全く予想外の答えだったのだろう。肉体を肯定し、影との共存を宣言する人間など、今まで一人もいなかったのだ。

「……愚かな。お前は、自ら牢獄に留まり続けるというのか」

「留まるんじゃない。ここを、私たちの舞台にするのよ」

太陽が完全に昇り、影は言葉を失い、再びただの黒いシルエットへと戻っていく。だが、その輪郭は、以前とはどこか違って見えた。単なる模倣ではなく、確かな意志を秘めた、もう一人の共演者のように。

リーラは立ち上がった。彼女の心から、恐怖は消えていなかった。だが、その恐怖を抱きしめたまま、前に進む覚悟ができていた。カイを救わなければならない。そして、「大解放」という名の、魂の略奪を止めなければならない。

それは、世界の理にさえ逆らう、途方もなく困難な戦いになるだろう。けれど、もう彼女は一人ではなかった。自分の内なる光と影、その両方を深く理解し、受け入れた今、彼女は初めて、本当の意味で自分自身の主人公になったのだ。

リーラは扉を開け、朝の光の中へと一歩を踏み出した。彼女の足元で、影が静かに寄り添う。それはもはや、忌々しい半身ではなく、共に未来を奏でるための、不可欠なパートナーだった。物語はまだ始まったばかり。これから紡がれるのは、一人の少女が、自らの光と影のすべてを懸けて奏でる、壮大な協奏曲だった。

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