第一章 悲しみの絹糸
リヒトの店は、街の忘れられた一角、蔦の絡まる路地の奥にひっそりと佇んでいた。看板はない。ただ、窓辺に置かれた年代物の糸車が、ここが特別な場所であることを静かに物語っている。彼は「記憶仕立て屋」。人々の記憶から糸を紡ぎ、それを織り上げて衣服を作る職人だった。
彼の指先から生み出される服は、単なる布ではなかった。袖を通せば、持ち主の最も輝かしい瞬間が肌を撫で、襟元を正せば、懐かしい声が耳元を掠める。人々は失われた温もりを求めて、あるいは永遠に留めたい幸福を抱いて、彼の店の重い扉を叩くのだ。
リヒト自身は、他人の鮮やかな記憶に触れることに、静かな充足感を覚えていた。彼の過去は、まるで霧のかかった朝の湖面のようにおぼろげで、自身の最も大切な記憶でさえ、その輪郭を掴むことができなかった。だからこそ、他人の記憶の温かさが、彼の空虚な心を一時的に満たしてくれる唯一の灯火だった。
ある雨の午後、扉の鈴が、いつもより控えめな音を立てた。そこに立っていたのは、全身を黒い絹のドレスで覆い、顔には厚いヴェールを下ろした一人の貴婦人だった。その姿はまるで、この世の光を拒む影そのものだった。
「記憶を、仕立てていただきたいのです」
ヴェールの奥から聞こえてきた声は、澄んでいるのに、どこかひび割れたガラスのような脆さを孕んでいた。
「どのような記憶で、何を?」リヒトは静かに問いかけた。
「私の、最も幸福だった記憶で。……ウェディングドレスを」
ウェディングドレス。それは記憶仕立て屋にとって、最も神聖で、最も輝かしい仕事だ。リヒトの胸が微かに高鳴った。しかし、貴婦人の纏う空気は、あまりにも幸福という言葉からかけ離れていた。
「かしこまりました。それでは、あなたの記憶に触れさせていただきます」
リヒトは貴婦人を椅子に促し、その細い手を取った。彼の目を閉じ、意識を集中させると、指先から温かい光が立ち上り、貴婦人の記憶の源流へと潜り込んでいく。彼は、依頼主の心の中から、指定された記憶の原石を探り出し、それを一本の糸として丁寧に引き出すのだ。
彼は彼女の心の奥深くで、陽光に満ちた美しい庭園を見つけた。笑い声、優しい眼差し、交わされる愛の誓い。間違いなく、幸福の記憶だ。リヒトは慎重にその記憶の断片を捉え、ゆっくりと現実世界へと引き戻した。
しかし、彼の目の前の糸車に現れたのは、純白の輝きではなかった。それは、夜の湖面を思わせる、深く、静かで、どこまでも沈んでいくような、青みがかった銀色の絹糸だった。陽の光に透かせば、かろうじて虹色の輝きを放つものの、その本質は紛れもなく「悲しみ」の色をしていた。
「これは……」リヒトは絶句した。幸福の記憶から、これほど物悲しい色の糸が紡がれたことは一度もなかった。
ヴェールの奥で、貴婦人が小さく息を呑むのが分かった。「……構いません。それで、お願いしますわ」
その声は、諦念と、そして微かな祈りのような響きを持っていた。リヒトは戸惑いを隠せなかったが、依頼を断ることはできなかった。彼は、その悲しみを秘めた絹糸で、世界で最も幸福なはずのドレスを織り始めることになった。
第二章 織り込まれる追憶
機織り機の音が、リヒトの仕事場に静かに響き渡る。カタ、トン。カタ、トン。一本一本、青銀色の糸が織り込まれていくたび、ドレスの裾は月光を浴びた波のように広がっていった。しかし、その作業は彼にとって奇妙な体験だった。
糸に触れる指先から、貴婦人の記憶が断片的な映像となって流れ込んでくるのだ。陽だまりの中、一人の青年と手を取り合って笑う彼女。彼の無骨な指が、不器用に彼女の髪に花を挿す。夜空の下、凍える肩を寄せ合い、同じ流れ星に願いをかける二人。それは紛れもなく愛と喜びに満ちた光景だった。リヒトは、その温かい記憶の奔流に身を委ねながら、同時に胸を締め付けられるような感覚に襲われた。
なぜ、これほどまでに幸福な記憶が、悲しみの色を纏うのか。謎は深まるばかりだった。
ドレスの製作が進むにつれて、リヒトの内面にも変化が訪れ始めた。他人の鮮やかな記憶は、これまで彼の空虚さを埋める慰めであったはずが、今や鋭い棘のように彼自身の空っぽの過去を突きつけてくる。青年と笑い合う貴婦人の記憶を見るたび、自分にも誰かと分かち合った温かい時間があったのではないか、という漠然とした、しかし抗いがたい渇望が胸を焼いた。
「俺は、何を忘れているんだ……?」
ある夜、リヒトは作業の手を止め、窓の外に浮かぶ月を見上げた。記憶がないのではない。何か、あまりにも大きすぎるものを、自分の意志で心の奥底に封じ込めているような、そんな奇妙な確信があった。その「何か」に触れようとすると、決まって激しい頭痛と、心臓を氷の指で鷲掴みにされるような恐怖が彼を襲うのだった。
彼はドレスに視線を戻した。青銀色の絹地は、月明かりを吸い込んで淡く発光している。それはまるで、持ち主の流せなかった涙の結晶のようだった。美しい。しかし、あまりにも哀しい。
「あなたの本当の想いは、何なのですか」
リヒトは、そこにいない依頼主に向かって呟いた。このドレスを完成させることは、彼女の魂に触れることと同義だと感じていた。そして同時に、それは自分自身の失われた何かと向き合うことにも繋がっているのかもしれない。彼は再び機織り機に向き直った。その目には、これまでになかった強い意志の光が宿っていた。
第三章 忘却のヴェール
ドレスが九割方完成した、嵐の夜だった。外では風が哭き、雨が窓を叩いていた。リヒトは最後の仕上げとして、胸元に繊細な刺繍を施していた。針を運び、青銀色の糸を布に通した、その瞬間。
世界が、砕け散った。
彼の脳裏に、これまで経験したことのないほど鮮明で、暴力的な奔流となって記憶が流れ込んできた。それは、貴婦人の記憶ではなかった。紛れもなく、彼自身の、リヒトの記憶だった。
―――雨の夜。一台の馬車が、ぬかるんだ山道で崖へと滑り落ちていく。悲鳴。衝撃。砕ける木とガラスの音。そして、彼の腕の中で、温もりを失っていく愛しい人の感触。
「リヒト……あなただけでも、生きて……」
か細い声。血に濡れた彼女の唇が、最期の言葉を紡ぐ。彼女の顔は、あのヴェールの貴婦人とは似ても似つかない。だが、その瞳。その声。その魂の響きは、間違いなく同じものだった。
彼女の名は、エリア。リヒトのかけがえのない、恋人だった。
嵐の夜、彼らは事故に遭った。彼女はリヒトを庇い、その命を散らした。リヒトは奇跡的に助かったが、あまりの衝撃と罪悪感に耐えきれず、彼女に関する全ての記憶を、自分自身で心の最も深い場所に封印してしまったのだ。記憶仕立て屋でありながら、自身の最も大切な記憶を自ら葬り去っていた。
愕然とするリヒトの目の前で、完成間近のドレスがひとりでに輝きを放ち始めた。そして、その光の中から、ヴェールを外した貴婦人の姿が、半透明の輪郭となって立ち上がった。
エリアだった。彼が忘れてしまっていた、愛しい恋人の姿がそこにあった。
「……思い出して、くれたのね」
彼女の微笑みは、ひどく儚げで、そして安堵に満ちていた。
「なぜ……なぜ、こんなことを……」リヒトの声は震えていた。
「あなたを、解放したかったから」エリアは静かに言った。「あなたは、私を失った罪悪感に囚われて、自分自身の心を殺してしまった。他人の記憶に縋って、自分の空虚さから目を背けていた。でも、それはあなたのせいじゃない」
彼女が差し出した「最も幸福だった記憶」。それは、リヒトと共に過ごした日々の記憶だった。それが「悲しみ」の色をしていたのは、彼がそれを忘れてしまったことへの、彼女の深い悲しみが染み込んでいたからだ。彼女はこのドレスを織らせることで、彼に自分たちの記憶を追体験させ、忘却という名の牢獄から救い出そうとしたのだ。
「忘れないで、リヒト。私たちは、確かに愛し合っていた。その記憶は、あなたを縛る鎖じゃない。これからあなたが一人で生きていくための、翼になるはずよ」
リヒトの頬を、熱い涙が止めどなく伝った。それは、何年もの間、彼の心の中で凍りついていた悲しみと後悔が、ようやく溶け出した証だった。
第四章 夜明けのステッチ
リヒトは、震える手で針を握りしめた。エリアの霊が、すぐ傍で優しく見守っている。彼は、涙で滲む視界の中、ドレスの胸元に最後の一針を縫い付けた。それは、失われた愛への追悼であり、彼女への感謝であり、そして、過去を受け入れて未来へ進むための、決意のステッチだった。
チクリ、と針が布を貫く。その瞬間、嵐は嘘のように止み、東の空が白み始めた。窓から差し込んだ最初の朝日が、ウェディングドレスを照らし出す。
すると、青銀色のドレスは、まるで夜明けそのものを映したかのように、金色と薔薇色の光を放ち始めた。悲しみの色は消え、そこには幸福と、愛と、そして切ない追憶が織りなす、言葉にできないほど美しい輝きだけが満ちていた。
「ありがとう、リヒト」
エリアの体が、光の粒子となってゆっくりと透き通っていく。彼女の微笑みは、リヒトが記憶の中で何度も見た、最も愛した表情だった。
「僕の方だ。ありがとう、エリア。君を忘れない。絶対に」
リヒトは、消えゆく彼女に向かって、心の底から叫んだ。
光が完全に消え去った後、仕事場には静寂が戻ってきた。リヒトは一人、そこに立ち尽くしていた。しかし、彼の心はもう空っぽではなかった。エリアとの記憶が、悲しみと共に、しかし確かな温もりを持って、彼の内側を隅々まで満たしていた。失われたのではなく、取り戻したのだ。
窓の外では、新しい一日が始まろうとしていた。
店の中央には、マネキンに着せられたウェディングドレスだけが、朝日に照らされて静かに佇んでいる。それは、幸福と悲しみが織り交ざった、この世界で最も美しく、そして切ない物語を宿したドレスだった。
リヒトはドレスにそっと触れた。布地からは、エリアの温もりと、二人が過ごしたかけがえのない日々の香りがした。彼はこれから先も、記憶仕立て屋として生きていくだろう。人々の記憶を紡ぎ、衣服を作る。しかし、もう他人の記憶に己を紛らわせる必要はない。彼には、守るべき自分自身の記憶があるのだから。
そのドレスは、誰に着られることもなく、永遠にリヒトの店に飾られ続けることになる。訪れる客は皆、そのドレスの前に立ち止まり、理由もわからず胸を打たれるのだった。