第一章 色なき糸と忘却の職人
リオンは「記憶編み師」だった。人々が失いかけた思い出、薄れゆく大切な記憶を、特殊な糸で編み上げ、形あるタペストリーとして蘇らせる。それが彼の生業であり、彼が存在を許された唯一の理由だった。霧深い谷間の小さな工房で、彼は今日も機(はた)に向かう。カタン、カタンと、心地よい木の音が、彼の孤独な時間にリズムを刻んでいた。
彼の編むタペストリーは、ただの絵ではない。触れれば、亡き祖母の温もりを感じ、耳を澄ませば、幼い頃に聞いた子守唄が微かに聞こえてくる。彼の指先から生み出される奇跡を求め、人々は谷を越えてやってきた。リオンは彼らの心に深く潜り、忘却の淵から記憶の断片を拾い上げ、色とりどりの糸で織り込んでいく。しかし、彼自身の記憶は、まるで漂白された布のように、驚くほどに色褪せていた。両親の顔も、故郷の風景も、すべてが曖昧な霞の向こう側にある。その虚しさを埋めるように、彼は他人の記憶を編み続けた。
ある雨の午後、工房の扉が軋みながら開いた。そこに立っていたのは、深いフードを目深にかぶった老婆だった。老婆は杖にすがりながら、ゆっくりとリオンの前に進み出た。皺の刻まれた唇から、乾いた葉が擦れるような声が漏れる。
「記憶編み師、リオン殿ですな」
「いかにも。どのような記憶を?」
リオンが問いかけると、老婆は首を横に振った。
「編んでほしい記憶はありませぬ。あなたにしか手に入らぬという、特別な素材を求めて参りました」
「素材、ですか」
「『色なき糸』。あらゆる記憶の源でありながら、何の色も持たぬという伝説の糸。それを、一束」
リオンの眉が微かに動いた。色なき糸。それは、師から受け継いだ古い書物にのみ記された、幻の素材だった。すべての色の記憶を失った、完全な「忘却」からのみ紡がれると言われるその糸は、どんなに熟練した記憶編み師でも、生涯お目にかかることすらない。
「そのようなものは、ただの御伽噺です。私の使う糸はすべて、感情の色を宿しております。喜びの金、悲しみの青、怒りの赤……色を持たぬ糸など、存在しません」
「いいえ、存在します」老婆は断言した。「そして、それを見つけられるのは、あなただけ」
フードの奥から覗く瞳が、射るようにリオンを捉えた。その眼差しには、単なる依頼主のそれではない、不思議な切実さが宿っていた。
「なぜ、私だと?」
「あなたは……最も深く、大切なものを忘れているお方だから」
その言葉は、リオンの心の空洞に冷たい風となって吹き込んだ。自覚のない喪失を、初めて他人に指摘された衝撃。彼は息を呑み、老婆を見つめ返した。これまで感じていた漠然とした虚無感に、初めて輪郭が与えられた気がした。
老婆は一枚の古びた地図をテーブルに置いた。「糸は、世界の果て、『嘆きの晶洞』に眠っているはず。どうか、これを見つけ出してはいただけませぬか」
その夜、リオンは眠れなかった。老婆の言葉が、静かな工房にいつまでも響いていた。「あなたは、最も深く、大切なものを忘れている」。自分はいったい、何を忘れたのだろうか。その答えが、幻の色なき糸と共にあるというのなら、行かねばならない。これは誰かのための仕事ではない。自分自身の失われた物語を取り戻すための、初めての旅だった。
第二章 虚ろな追憶の旅路
リオンの旅は、孤独だった。地図が示す「嘆きの晶洞」は、人が踏み入ることのない険しい山脈の奥深くに位置していた。彼は道中、いくつかの村に立ち寄り、一夜の宿と食料を求めた。記憶編み師としての彼の評判は、こんな辺境の地にも届いていた。人々は彼に敬意を払い、同時に、どこか恐れているようにも見えた。
ある村で、彼は老婆に頼まれ、病で亡くなった夫との最後の日の記憶を編むことになった。リオンは老婆の手を取り、その精神の奥深くへと意識を沈めていく。夕陽に染まる部屋、夫の穏やかな寝息、感謝の言葉。彼はその情景を、金と茜色の糸で丁寧に織り上げた。タペストリーが完成した時、老婆は涙を流して喜んだ。
「ああ、主人の優しい顔が……この温もりが蘇ってくるようです」
しかし、仕事を終えたリオンの心には、いつもと違う奇妙な疲労感と、さらに深い虚しさが広がっていた。まるで、自分の内側にある何かが、またひとつ削り取られたような感覚。彼は自分の手のひらを見つめた。この力を使うたび、自分は何かを失っているのではないか。老婆の言葉が脳裏をよぎる。
旅を続けるうちに、彼は不思議な光景を何度も目にするようになった。風に揺れる名も知らぬ白い花を見ては、理由もなく胸が締め付けられ、夜空に浮かぶ双子の月を見ては、誰かに語りかけたような、言葉にならない郷愁に襲われる。それらは誰の記憶でもない、リオン自身の心の奥底から湧き上がる、持ち主不明の感情だった。
彼は、自分の力が「魔法」の一種であり、その行使には代償が伴うことを知っていた。師はかつて、「心して使え。力は、お前自身を喰らうこともある」とだけ告げた。リオンはずっと、その代償は精神的な疲労だと思い込んでいた。だが、もし、代償が「自分自身の記憶」だとしたら? 他人の記憶を編むために、自分の記憶の断片を燃料として燃やしているのだとしたら?
その恐ろしい仮説は、旅の厳しさとともに、彼の心を苛んだ。自分が何者であるかの証を、日々の糧のために少しずつ売り渡してきたのかもしれない。ならば、今この胸にある巨大な空洞こそが、その代償の果てなのだろうか。
山道は険しくなり、空気は肌を刺すように冷たくなっていった。食料も尽きかけ、疲労が限界に達した頃、彼の眼前に巨大な洞窟が口を開けているのが見えた。地図が示す「嘆きの晶洞」に違いなかった。洞窟の内側からは、まるで星々の囁きのような、微かで清らかな音が響いてくる。リオンは覚悟を決め、その昏い闇の中へと足を踏み入れた。
第三章 晶洞の真実
洞窟の内部は、想像を絶する光景だった。壁一面に、無数の水晶が自ら光を放ち、まるで地下の星空のように煌めいていた。足元には清らかな水が流れ、水晶の光を乱反射させている。そして、あの清らかな音は、水晶同士が風で微かに触れ合い、共鳴することで生まれているらしかった。リオンは息を呑み、その神秘的な美しさに立ち尽くす。
彼はゆっくりと洞窟の奥へと進んだ。壁の水晶に手を触れると、温かいような、冷たいような、不思議な感触と共に、断片的な映像が脳裏に流れ込んできた。赤子の笑い声。戦士の最後の雄叫び。恋人たちの誓いの言葉。リオンは悟った。この水晶の一つ一つが、誰かが失った「記憶」そのものなのだと。ここは、魔法使いたちが代償として支払った記憶が流れ着く、世界の忘却の終着点だった。
洞窟の最深部、ひときゆ大きな水晶が、ひときわ優しい光を放っていた。リオンは引き寄せられるように、その水晶に近づく。そして、それに触れた瞬間、激しい奔流となって、失われた記憶が彼の中に流れ込んできた。
――白い花が咲き乱れる丘。隣で笑う、自分より少し年上の少女。彼女の名前は、エリア。幼馴染で、彼の初めての恋人だった。二人は双子の月を見上げながら、将来を語り合った。
――村を襲う、巨大な魔獣。人々を守るため、リオンは禁じられていた大魔法を使った。記憶を編むのではなく、記憶そのものを力に変え、現実を改変するほどの強大な魔法。
――しかし、魔法は暴走した。力の代償として、リオン自身の存在が消えかかっていく。それを見たエリアが、彼を庇うように抱きしめた。「あなたの記憶、私が預かるわ。だから、生きて」。彼女は自らの「時間」と「未来」を代償に、リオンの暴走を止め、彼の失われゆく記憶をこの晶洞に封印したのだ。
すべてを思い出したリオンは、その場に崩れ落ちた。嗚咽が止まらない。自分は、エリアの犠牲の上に生きていた。彼女との大切な記憶をすべて忘れ、空っぽのまま、他人の記憶だけを慰めに生きてきたのだ。
「……思い出したのですな、リオン」
背後から、懐かしい声がした。振り返ると、そこに立っていたのは、あの依頼主の老婆だった。彼女がフードを取ると、現れたのは皺だらけの顔でありながらも、瞳の奥には紛れもなく、リオンが愛した少女エリアの面影が宿っていた。
「エリア……どうして、そんな姿に」
「私の時間をあなたにあげたから。でも、それで良かった。あなたが生きているのなら」エリアは穏やかに微笑んだ。「でも、あなたが記憶を失ったまま、虚ろに生きているのを見るのは辛かった。だから、老婆に身をやつして、あなたをここまで導いたのです。この晶洞でなら、あなたの記憶を取り戻せるから」
彼女は、足元に落ちていた水晶の欠片を拾い上げた。それは、光を反射せず、ただ透明に存在する。
「これが『色なき糸』の原石。完全な忘却の結晶です。これを紡げば、どんな記憶でも繋ぎ合わせることができる。あなたの失われた記憶も」
真実が、残酷なまでにリオンの胸に突き刺さった。彼が探し求めていたものは、彼自身が失った心の欠片だったのだ。
第四章 選択と夜明け
リオンは、エリアの皺の刻まれた手を取り、自分の頬に寄せた。温かい。紛れもなく、彼が焦がれた温もりだった。
「僕のせいで……君は……」
「謝らないで」エリアは静かに首を振った。「私は、あなたに笑っていてほしかっただけ。記憶がなくても、あなたがあなたらしく生きてくれれば、それで」
リオンは目の前にある、自分の記憶が封じられた巨大な水晶を見つめた。エリアが言うには、この水晶を砕き、その力を吸収すれば、失われた記憶はすべて戻ってくるという。しかし、それと引き換えに、彼は「記憶編み師」としての力を完全に失う。記憶を代償とする魔法は、記憶を取り戻した者には二度と使えないのだ。
選択を迫られていた。
愛する人との温かい過去を取り戻し、ただの男として生きるか。
それとも、過去を忘れたまま、他人の記憶を救い続ける奇跡の職人として生きるか。
以前の彼なら、迷わず力を選んだだろう。自分の存在価値は、その力にしかないと信じていたからだ。しかし、旅を通して、そして真実を知った今、彼の心は揺れていた。
彼は、旅の途中で出会った人々を思い出した。夫を偲ぶ老婆、戦いで友を失った若者。彼らのために記憶を編んだ時、確かに喜びがあった。誰かの心を救うことは、彼の空虚感を僅かながら埋めてくれた。だが、それは本当の充足だったのだろうか。自分の心を置き去りにして、他人の心だけを繕う行為は、偽善ではなかったか。
リオンは立ち上がり、エリアに向き直った。
「僕は、思い出すよ。君との時間を、僕が守りたかったものを、すべて」
「……いいのですか? あなたの、その素晴らしい力は消えてしまいます」
「力がなくても、僕は僕だ」リオンは、はっきりと告げた。「空っぽの心で誰かの記憶を編むより、愛しい記憶で満たされた心で、拙くても自分の物語を紡いでいきたい。君と一緒に」
その言葉に、エリアの瞳から一筋の涙がこぼれ落ちた。それは、長い長い待ち時間が、ようやく報われた瞬間の涙だった。
リオンは水晶に手を伸ばし、祈るように触れた。水晶は眩い光を放ち、砕け散る。無数の光の粒子が、リオンの身体に吸い込まれていった。温かい思い出、幸せな時間、そしてエリアへの愛が、彼の魂を満たしていく。同時に、指先から魔法の力が霧のように消えていくのを感じた。
すべてが終わった時、リオンはただの人になっていた。しかし、彼の心は、かつてないほどに満たされていた。彼は、年老いたエリアを優しく抱きしめた。
「ただいま、エリア」
「……おかえりなさい、リオン」
二人が手を取り合って晶洞を出ると、夜が明け、世界の果てに優しい光が差し込んでいた。リオンの旅は終わった。いや、本当の人生が、今ここから始まるのだ。
谷間の工房に戻ったリオンは、もう記憶を編むことはなかった。彼は、普通の羊毛を紡ぎ、機に向かう。そこで彼が織るのは、魔法のタペストリーではない。エリアのための暖かいショールや、村の子供たちのための素朴な絨毯だ。
彼の指はもう奇跡を起こさない。だが、その指が紡ぐ糸には、失われた記憶を取り戻し、愛する人と共に生きることを選んだ男の、確かな温もりが宿っていた。そして、彼の傍らには、穏やかに微笑むエリアがいつもいる。魔法がなくても、人は物語を紡いでいける。二人の静かな日々そのものが、世界で最も美しく、感動的なタペストリーなのだから。