感情調律師と灰色の世界

感情調律師と灰色の世界

0 5261 文字 読了目安: 約11分
文字サイズ:

第一章 灰色のファインダー

水瀬湊は、世界の音を遮断するためにファインダーを覗く癖があった。亡き祖父の形見である蛇腹カメラ。その古びたレンズを通して見る世界は、現実から一枚フィルターを挟んだように静かで、美しかった。現実の喧騒や、心のざわめきが、そこでは遠い世界の出来事になる。それが湊にとっての唯一の安息だった。

その日、湊は霧に包まれた原生林の奥深くへと分け入っていた。湿った土の匂い、苔むした幹を伝う水滴の微かな音。全てが幻想的な被写体だった。霧の切れ間から、陽光に照らされた一際古い巨木が姿を現す。まるで世界の始まりからそこに立っているかのような、荘厳な佇まい。湊は吸い寄せられるようにカメラを構え、息を詰めてピントを合わせた。カシャン、と乾いたシャッター音が森に響く。

その瞬間、だった。

ファインダー越しの景色が、水面に落ちた絵の具のようにぐにゃりと歪んだ。視界が急速に白んでいき、立っているはずの地面の感触が消える。浮遊感とも落下感ともつかない奇妙な感覚に襲われ、湊は思わず目を固く閉じた。

次に目を開けた時、彼は見知らぬ場所に立っていた。

霧深い森ではなかった。どこまでも続く、平坦な灰色の平原。空は均一な鉛色で、太陽も雲も見当たらない。風はなく、音もなかった。自分の呼吸音だけがやけに大きく耳につく。空気はひんやりと肌を撫でるが、匂いというものが一切感じられなかった。色彩も、音も、匂いも、世界のあらゆる情報が極端に削ぎ落とされたような、静寂の世界。

「……どこだ、ここ」

掠れた声が、虚空に吸い込まれて消えた。パニックに陥りそうな心を、首から下げたカメラの重みがなんとか繋ぎ止めていた。状況を把握しようと周囲を見渡すと、地平線の先に小さな集落のようなものが見えた。藁葺き屋根に似た、簡素な建物がいくつか寄り集まっている。

他に選択肢はなく、湊はそこへ向かって歩き出した。灰色の土を踏みしめる自分の足音だけが、この世界の唯一のBGMだった。

集落に近づくと、何人かの人影が見えた。彼らもまた、この世界と同じように色彩に乏しかった。麻のような生成り色の衣服をまとい、表情というものがほとんどない。彼らは湊の姿を認めると、驚くでもなく、ただ静かにこちらを見つめている。その視線に敵意はないが、好奇心もない。まるで、道を転がる石でも見るような、無感動な瞳だった。

一人の少女が、湊の前に歩み出た。年は湊と同じくらいだろうか。色素の薄い髪が、色のない世界で微かに揺れている。

「あなたは、どこから来たのですか」

少女の声は、水面を滑るように平坦で、抑揚がなかった。

「森で、写真を撮っていたら……気づいたらここに」

湊の言葉に、少女は小さく首を傾げた。

「シャシン? モリ?」

言葉は通じるが、概念が共有できていないようだった。少女はリシアと名乗った。彼女に促されるまま、湊は集落の長の元へ案内された。長もまた、感情の読めない瞳で湊の話を聞き、静かに頷くだけだった。

「ここは『静寂界』。あなたのいた世界とは違う場所でしょう」

長は淡々と告げた。

「元の世界に帰る方法は、我々には分かりません。しばらくは、ここで過ごすがいい」

あまりにもあっさりとした受け入れだった。彼らは湊という異分子の存在を、まるで季節の移ろいのように、ただの現象として受け止めているようだった。湊は、この感情のない世界で、途方もない孤独の始まりを予感していた。

第二章 嘆きの雨

静寂界での日々は、凪いだ海のように穏やかで、そして退屈だった。人々は黙々と働き、必要最低限の言葉を交わし、食事をし、眠る。笑い声も、怒声も、すすり泣く声も聞こえない。喜びも怒りも悲しみも、まるで存在しないかのように、全てが平坦な時間の流れの中にあった。

湊は、リシアに世界のことを教わりながら、集落での暮らしに順応しようと努めた。彼女は他の住人と同じく感情の起伏を見せなかったが、湊に対しては僅かながらの興味を抱いているようだった。湊が持っていたカメラを指さし、「それで世界を切り取ると、どうなるのですか」と尋ねてくることもあった。

湊はファインダー越しに、この灰色の世界を覗いた。だが、シャッターを切る気にはなれなかった。感情を揺さぶるものが、ここには何もなかったからだ。彼の写真は、彼の心の動きそのものだった。心が動かない世界で、彼は何も写し撮ることができなかった。

元の世界に帰る手がかりはなく、日は無感動に過ぎていく。そんなある夜、湊は一人、割り当てられた小屋の隅で膝を抱えていた。ふと、亡き祖父の顔が脳裏に浮かんだ。優しかった笑顔、カメラの使い方を教えてくれた武骨な指先、独特の煙草の匂い。もう二度と会うことのできない祖父への思慕と、この静寂な世界にたった一人取り残された絶望が、心のダムを決壊させた。

熱いものが頬を伝う。それは、涙だった。湊はこの世界に来て初めて、心の底から泣いた。嗚咽が漏れ、肩が震える。抑えようのない深い悲しみが、全身を支配した。

その時、小屋の屋根を何かが叩く音がした。ぽつ、ぽつ、と。

音は次第に数を増し、やがて途切れることのない旋律を奏で始める。湊が顔を上げ、戸の隙間から外を覗くと、信じられない光景が広がっていた。

空から、無数の水の筋が降り注いでいた。雨だ。

リシアの話では、この世界に雨が降ることはないという。乾いた大地は、地下から湧き出る水によってのみ潤されてきた。人々は生まれて初めて見る天からの滴に、静かな驚きと共に外へ出ていた。リシアも空を見上げ、その白い頬に雨粒を受けている。彼女の瞳に、初めて感情らしき色の光が宿ったように見えた。

だが、その光はすぐに恐怖へと変わった。

雨に濡れた植物が、みるみるうちに黒く変色し、萎れていく。木造の家々の壁が、じわりと黒い染みを作り、腐食し始めた。それは恵みの雨ではなかった。触れるもの全てを蝕む、呪いの雨だった。

人々は慌てて家の中に逃げ込む。湊は呆然と立ち尽くしていた。直感的に理解してしまったのだ。この雨は、自分が原因だと。自分の涙、自分の悲しみが、この世界に災厄を呼び込んだのだと。

雨は降り続けた。湊の悲しみが尽きない限り、止む気配はなかった。人々は彼を遠巻きに見るようになり、その無感動だった瞳に、初めて明確な「拒絶」の色が浮かんでいた。彼は「嘆きの雨を呼ぶ者」として、再び孤独の淵へと突き落とされた。彼は必死に悲しみを忘れようとし、涙を堪えようとした。しかし、感情を無理に押し殺そうとすればするほど、心の奥底で悲しみは澱のように溜まり、雨は一層激しくなるだけだった。

第三章 封じられた心

嘆きの雨が降り始めて数日、集落は静かな絶望に包まれていた。作物は枯れ、家は傷み、人々はただ雨が止むのを待つしかなかった。湊は自室に閉じこもり、誰とも顔を合わせずに過ごしていた。自分の存在そのものが、この穏やかな世界を破壊しているという罪悪感が、鉛のように心にのしかかる。

そんな湊の元を、リシアだけは毎日訪れた。彼女は濡れた衣服のまま、戸口に食事を置き、静かに声をかける。

「ミナト。あなたの言う『カナシミ』とは、何ですか」

その問いは、まるで未知の生物の生態を探るかのように、純粋で、無機質だった。

「辛くて、苦しいだけのものだ。ない方がいいに決まってる」

湊は吐き捨てるように言った。

「でも、あなたはそれをとても大切そうに、心の中にしまっているように見えます」

リシアの言葉に、湊ははっとした。彼女には、湊が悲しみを押し殺そうとしながらも、その根源にある祖父との思い出を手放せずにいることを見抜かれていたのだ。

湊は、ぽつりぽつりと語り始めた。祖父との思い出、彼を失った時の痛み、そして、その痛みが、彼がいかに祖父を愛していたかの証明であること。悲しみは、大切なものを失った者にだけ与えられる、愛の残滓なのだと。

リシアは静かに湊の話を聞いていた。彼女の無表情な顔の奥で、何かがゆっくりと動き始めているのを湊は感じた。やがて彼女は、この世界の驚くべき真実を語り始めた。

「この静寂界は、かつて感情に満ち溢れた世界でした」

彼女の言葉は、静かだが重みがあった。

「人々は愛し、喜び、しかし、それ以上に憎み、妬み、争いました。激しい感情は強大な力を生み、世界そのものを滅ぼしかけたのです。私たちの祖先は、これ以上の争いを避けるため、ある決断をしました」

リシアは、集落の先にある、ひときわ高くそびえる岩山を指さした。

「あの山の中枢にある『調律の石』に、世界中の人々から感情を抜き取り、封印したのです。喜びも、怒りも、そして悲しみも。全てを。そうして、この永遠の平穏を手に入れました」

湊は息を呑んだ。この世界の静寂は、自然なものではなく、人工的に作られたものだったのだ。

「あなたの強い『カナシミ』は、その封印を内側から揺るがしています。嘆きの雨は、封印が乱れ、世界の理が歪み始めている証拠なのです」

リシアの一族は、代々その封印を守る「守人」であり、感情を抱かないよう特別な教育を受けてきたのだという。

「私は、感情が世界を滅ぼす毒だと教わってきました。でも」

リシアは、湊の目をまっすぐに見つめた。

「あなたの話を聞いて、分かりません。あなたのカナシミは、この世界を滅ぼす毒なのですか。それとも、私たちが忘れてしまった心を取り戻すための、薬なのですか」

彼女の瞳が、初めて潤んでいるように見えた。

第四章 世界が色づく時

湊の心は激しく揺れていた。自分の感情を消し去れば、この世界は元の平穏を取り戻すだろう。だが、それは悲しみの源である祖父との大切な記憶までをも消し去ることと同じだった。感情のない平穏と、痛みを伴う心。どちらが本当の「生」なのだろうか。

「リシア、調律の石の所へ連れて行ってくれ」

湊の決意を秘めた目に、リシアは静かに頷いた。

二人は降りしきる嘆きの雨の中を、岩山へと向かった。たどり着いた洞窟の奥、そこには巨大な黒水晶のような石が鎮座していた。石は鈍い光を放ち、周囲の空気を震わせている。これが、この世界の全ての感情を吸い込み、封じ込めている調律の石。

湊は石の前に立ち、首から下げた蛇腹カメラを構えた。悲しみを消すのではない。悲しみを、否定しない。彼はそう決めた。このカメラは、祖父との絆そのものだ。このカメラで写真を撮る行為は、彼の喜びであり、孤独であり、そして悲しみと向き合うための儀式だった。

「俺は、忘れたくないんだ。じいちゃんのこと。悲しいのも、辛いのも、全部俺がじいちゃんを大好きだった証拠だから」

湊はファインダーを覗いた。レンズの先には、心配そうにこちらを見つめるリシアの姿があった。彼女の瞳には、これまで見たことのない光が揺らめいていた。それは、湊の悲しみに共鳴し、彼女の中に芽生えた、新しい感情の光だった。

湊は、全ての想いを込めて、シャッターを切った。

カシャン、という音と同時に、調律の石が甲高い音を立てて激しく輝き始めた。世界が砕けるかのような衝撃が走り、湊は思わず目を閉じる。もう駄目か、と思った瞬間、全てが嘘のように静かになった。

恐る恐る目を開けると、信じられない光景が広がっていた。洞窟の天井に亀裂が走り、そこから柔らかな光がいくつも差し込んでいた。それは、太陽の光だった。

外へ出ると、嘆きの雨は止んでいた。鉛色だった空は、抜けるような青色に変わり、白い雲がゆっくりと流れている。腐食性の雨は、大地を潤す穏やかな恵みの雨へと姿を変えていた。風が吹き、花の甘い香りを運んでくる。鳥のさえずりが聞こえる。世界が、色と音と匂いを取り戻していた。

振り返ると、リシアが頬に涙を伝わせて、空を見上げていた。

「これが……カナシミ……。でも、なんだか、温かい」

彼女は、生まれて初めて見せる、はにかんだような笑顔を湊に向けた。

人々が、恐る恐る家から出てくる。彼らの顔には、驚き、戸惑い、そして微かな喜びといった、様々な感情の色が浮かんでいた。封印は解かれたのだ。人々はこれから、感情と共に生きる痛みと、そして歓びを、再び学んでいくのだろう。

湊が元の世界に帰れるのかは、分からない。だが、彼の心にもはや孤独はなかった。彼は、ただ世界を切り取る傍観者ではない。感情を取り戻したこの世界で、リシアや人々と共に生きていく。彼は新しい世界の最初の風景を、ファインダーに収めた。そこには、泣きながら微笑むリシアの姿と、どこまでも広がる青い空が、鮮やかに写っていた。感情を持つことの痛みと歓び。それは、彼がこの世界に与え、そしてこの世界から与えられた、かけがえのない贈り物だった。

この物語の「別の結末」を創作する

あなたのアイデアをAIに与えて、この物語の続きや、もしもの展開を創作してみましょう。

0 / 200
本日、あと3

TOPへ戻る