第一章 空白の器
気がつくと、琥珀色の光が満たす部屋の天井を眺めていた。木目の美しい、見覚えのない天井だ。ゆっくりと身体を起こすと、簡素なベッドの上であることが分かった。窓の外では、二つの月が淡い銀光を放ち、眼下には宝石を散りばめたような街の灯りが広がっている。ここは、どこだ。そして、私は、誰だ。
思考が霧の中を彷徨う。頭の中に響くのは、ただ一つの名前だけ。「水野 奏」。それが自分の名であるという確信だけが、唯一の錨だった。しかし、それ以外の、両親の顔も、友人の声も、好きだった食べ物の味も、すべてが抜け落ちた空っぽの器のようだった。
混乱する私の手に、ひんやりとした硬質な感触があった。見ると、掌には水晶のような、しかし不透明で乳白色に曇った小さな結晶が握られていた。それは微かに温かく、心の奥底で懐かしいような、それでいてひどく物悲しいような感情を呼び起こす。
「目が覚めたかね」
不意に、しわがれた声がした。部屋の隅の椅子に、いつからそこにいたのか、ローブをまとった老人が腰掛けていた。
「あなたは……? ここは?」
「ここは記憶取引所『忘却の金庫』の一室。わしはここの番人、エリオという。あんたは三日前、広場で倒れているところを保護された」
エリオと名乗る老人は、私の手の中の結晶に目をやった。
「その『メモリア』だけがあんたの唯一の所持品だった。どうやら、ほとんどの記憶を失っているらしいな」
メモリア。その言葉が、なぜかすんなりと頭に入ってきた。この世界、アムネシアでは、人の記憶が結晶化し、「メモリア」として価値を持つ。喜びの記憶は暖色に、悲しみの記憶は寒色に輝き、通貨として、あるいは嗜好品として売買されるのだという。エリオの話は、まるで昔読んだ物語のように、不思議な現実感をもって私の中に染み込んでいった。
「私の……記憶?」
私は手の中の結晶を見つめた。それは何の色も持たない、ただ白く濁った石ころのようだった。
「値のつかんガラクタだ。何の変哲もない、『古びた本を読んだ記憶』。それも、内容すら曖昧な、ただ頁をめくったという事実だけの記憶だ」
エリオは淡々と告げた。絶望が胸を抉る。私の過去と繋がりうる唯一のものが、ガラクタ。では、私は何者なのだ。この空っぽの身体で、どう生きていけばいいのか。
「記憶がないなら、稼げばいい。この街では、今日の昼食の味も、夕焼けの美しさも、ささやかなメモリアになる。それを売って日銭を稼ぎ、少しずつ自分の過去を買い戻していく者も少なくない」
エリオの言葉は慰めにはならなかった。他人の記憶で自分を飾り立て、自分の記憶を切り売りして生きる。そんなことが、果たして「生きている」と言えるのだろうか。私は、失われた自分自身を取り戻したかった。たとえそれが、どんなにつまらない人生の記憶であったとしても。
「私は、私の記憶を探します」
決意を口にすると、手の中の濁った結晶が、ほんの少しだけ温かくなった気がした。空っぽの器である私が、初めて自分の意志を持った瞬間だった。
第二章 忘却の市と賢者
アムネシアでの日々が始まった。エリオの口利きで、私は記憶取引所の清掃員として働くことになった。日々の労働で生まれる「床を磨き上げた達成感」や「昼食のパンの素朴な味わい」といった些細なメモリアを日当として受け取り、それを最低限の食費と情報料に充てた。
街の中心にある「忘却の市」は、混沌とした活気に満ちていた。そこでは、あらゆる記憶が商品として並べられている。恋人との甘いキスの記憶は、目映い薔薇色の輝きを放ち、高値で取引される。一方で、家族を失った絶望の記憶は、淀んだ藍色の光を宿し、誰もが見向きもしない。人々は幸せな記憶を買い求めて一時的な多幸感に浸り、自らの辛い記憶を安値で手放して過去から逃避する。
私はその光景に、言いようのない違和感を覚えていた。記憶とは、その人の人生そのものではないのか。辛い記憶も、苦しい記憶も、すべてがその人を形作る欠片であるはずだ。それを簡単に売り買いするこの世界の在り方が、どうしても理解できなかった。
そんな私の疑問を見透かしたように、エリオは静かに語った。
「人は弱い。忘れられるものなら忘れたいと願い、手に入る幸福なら偽物でも良いと手を伸ばす。だがな、奏。記憶の価値は、輝きの色や強さだけでは決まらん」
彼は自分のローブの懐から、一つのか細く光るメモリアを取り出した。それは、ひび割れた淡い水色の結晶だった。
「これは、わしが若い頃、妻と初めて喧嘩をした記憶だ。酷い言葉をぶつけ合い、互いに傷ついた。辛く、悲しい記憶だよ。だが、この記憶があったからこそ、わしらは互いの痛みを理解し、より深く愛し合えるようになった。このひび割れの一つ一つが、わしの人生の礎なのだ」
エリオは、生涯一度も自分の記憶を売ったことがないという。だから彼は、この街では変わり者の賢者として、一部の人間から敬遠され、また一部の人間から尊敬されていた。
彼の言葉は、私の心の深い場所に染み渡った。私も、自分の記憶を、たとえそれがどんなものであっても、この手で確かめたい。その思いは日に日に強くなっていった。
数ヶ月が経ったある日、私はついに、自分のものである可能性が高いメモリアの情報を掴んだ。それは「図書館の静寂の中で、陽光を浴びながら本を読む幸福な記憶」だという。私が唯一持っていた「古びた本を読んだ記憶」と酷似している。私は貯めてきた全てのメモリアを差し出し、震える手でそれを受け取った。黄金色に輝く、温かなメモリア。これが、私の失われた一部なのだ。
第三章 偽りの幸福
自室に戻り、私は深く息を吸い込んで、黄金色のメモリアを額に当てた。途端に、温かな光が意識を包み込む。
――陽光が埃をきらきらと舞わせる、静かな図書館。高い天井まで届く本棚。革の装丁の匂い。指先で感じる、ざらりとした紙の感触。満ち足りた、穏やかな時間がそこにはあった。ああ、これが私だったのだ。本を愛し、静寂を愛する、そんな人間だったのだ。涙が頬を伝う。失われた自分の一部を取り戻した喜びに、全身が震えた。
だが、その幸福感の頂点で、突如として世界が軋んだ。
キィン、と耳鳴りのような金属音が響き、穏やかな図書館の光景に亀裂が入る。そして、全く別の情景が、激しい頭痛と共に脳裏に流れ込んできた。
それは、巨大な機械だった。都市の地下深くに設置された、心臓のように脈動する巨大な水晶体。そして、忘却の市で売買された無数の「幸福な記憶」が光の奔流となってその水晶体に吸い込まれていく光景だった。水晶体は、その光をエネルギーに変換し、この世界アムネシアの空に浮かぶ二つの月を輝かせ、街の灯りを灯し、世界そのものを維持していた。
――この世界は、人々の幸福な記憶を燃料にして成り立っている。
衝撃の事実に、呼吸が止まる。忘却の市は、人々の自由な取引の場などではなかった。世界を維持するために、人々の幸福を効率的に収集するための、巧妙に設計されたシステムだったのだ。人々は、知らず知らずのうちに自らの最も輝かしい人生の瞬間を、世界の延命のために差し出していた。
混乱する私の脳裏に、さらなる映像が浮かび上がる。そこには、今の私と同じ顔をした、しかしもっと厳しく、知的な光を宿した女性がいた。彼女は白いローブをまとい、何人かの人間とこの世界の在り方について激しく議論している。
『人の尊厳は、記憶そのものにある!それを燃料にするなど、魂を削って生き永らえさせるのと同じだ!』
彼女はそう叫んでいた。そして、彼女はシステムの根幹に関わる重要な情報を記した本を手に、追放される。追放の直前、彼女は自らの最も重要な記憶――この世界の真実と、管理者であった自分自身の記憶――を一つのメモリアに封じ込め、それを誰にも価値が分からないように「古びた本を読んだ記憶」というガラクタに偽装したのだ。
それが、私が最初に手にしていた、あの白く濁った結晶の正体だった。
全てを思い出した。いや、理解した。私は水野奏であると同時に、この世界のシステムに異を唱え、追放された元管理者の一人だったのだ。私が買い戻した「図書館の記憶」は、私がこの世界で生きていた頃の、ささやかで幸福な思い出の一つに過ぎなかった。そして、その幸福すらも、結局は世界を維持するための燃料として設計された、偽りの楽園の一部だった。
足元から世界が崩れ落ちていくような感覚。私が取り戻したかった過去は、私が否定したかった世界の、まさに中心にあった。
第四章 私が紡ぐ記憶
真実を知ってからの数日間、私は抜け殻のようになった。この世界は、人々の最も美しい思い出を搾取して成り立つ巨大な装置だ。そして私は、その残酷な真実を知る唯一の人間となってしまった。
手元には二つの選択肢があった。一つは、あの白く濁ったメモリアの封印を解き、管理者としての全ての記憶と知識を取り戻し、この世界の欺瞞を暴くこと。それは、この偽りの平和を破壊し、世界を大混乱に陥れることを意味する。もう一つは、このまま真実を胸に秘め、何も知らない一市民として生きていくこと。
私はエリオの元を訪れ、全てを打ち明けた。彼は驚いた様子も見せず、ただ静かに私の話を聞いていた。
「お前さんは、どうしたい?」
彼の問いは、どこまでもシンプルだった。私は答えられなかった。管理者だった頃の私は、正義感に燃え、システムの破壊を望んでいた。しかし、記憶を失い、「奏」として生きたこの数ヶ月の私は、市場でささやかな記憶を売って生きる人々の、か弱いが切実な幸福を目の当たりにしてきた。あの偽りの幸福が、彼らの唯一の救いであることも、理解できてしまうのだ。
「昔、わしの妻が言っておった」エリオが、ひび割れた水色のメモリアを愛おしそうに撫でながら言った。「『過去は変えられない。でも、未来の思い出は、これから作っていける』と」
その言葉が、私の心に深く突き刺さった。
そうだ。私は過去に囚われすぎていた。失われた記憶を取り戻すことばかりを考えていた。管理者としての過去か、司書としての過去か。どちらが本当の自分なのかと。だが、本当の私は、そのどちらでもなく、今、ここにいる私自身なのだ。
私は決意した。白く濁ったメモリアを、懐の奥深くにしまい込む。管理者としての記憶は、もう必要ない。世界の真実を暴くこともしない。それは私のエゴでしかないからだ。
「エリオさん。私、新しい記憶を作りたい」
私の目を見て、エリオは深く頷いた。
それから、私たちは行動を始めた。取引所の片隅に、小さな私塾のような場所を作った。そこでは、メモリアを売買するのではなく、人々が互いの記憶を「語り聞かせる」のだ。老婆が語る若き日の恋の物語。職人が語る、初めて自分の作品が完成した日の誇らしい記憶。それらは現金にはならない。だが、聞き手の心に、新しい物語として、温かな感情として刻まれていく。
私は、私が持っていた「図書館の記憶」を元に、子供たちにたくさんの物語を読み聞かせた。私が紡ぐ言葉が、子供たちの瞳の中でキラキラと輝き、彼らの未来の記憶の種となる。それは、世界の巨大なシステムに抗う、あまりにもささやかで、静かな革命だった。
私はもう、自分が何者であったのかを追い求めない。私は、これから人々の心に新しい記憶を紡いでいく者。それが、この世界で私が見つけた、私の新しい名前だ。
夕暮れの光が差し込む部屋で、子供たちの笑い声に包まれながら、私は確かな幸福を感じていた。それは誰かに搾取されるための燃料ではない。私の内側から湧き上がり、未来へと繋がっていく、本物の記憶だった。