第一章 鉛の影を引きずる街
アスファルトを叩く雨音だけが、水嶋湊(みずしま みなと)の思考の隙間を埋めていた。終電を逃し、濡れた革靴が不快に鳴る。二十八歳、特に誇れるもののない人生。手に持ったコンビニのビニール傘が、都会の強風に煽られて哀れな悲鳴を上げた。その時だった。見慣れたはずの交差点の真ん中に、不自然なほど静かで、黒い水たまりが広がっているのに気づいた。街灯の光さえ吸い込んで、まるで夜空に空いた穴のようだ。
疲労が判断力を鈍らせていたのだろう。湊は無意識にその水たまりへ一歩、足を踏み入れた。
瞬間、世界がねじれた。
足元の感触が水から粘土へと変わり、引っ張られるような圧力が全身を襲う。耳鳴りと眩暈。次に目を開けた時、湊は冷たい石畳の上に倒れていた。雨は止み、空には見たこともない二つの月が鈍い光を放っている。周囲に立ち並ぶのは、煤けた煉瓦造りの建物。ガス灯のようなものが、頼りなげにオレンジ色の光を投げかけていた。
呆然と立ち上がった湊は、すぐにこの世界の異様さに気づいた。すれ違う人々は皆、その背後に奇妙なものを引きずっていたのだ。それは影だった。しかし、ただの影ではない。まるで実体を持つかのように地面にまとわりつき、濃淡も大きさも様々で、引きずるたびに鎖のような重い摩擦音を立てていた。ある男の影は巨大な岩のように盛り上がり、彼の歩みを著しく妨げている。老婆の影は薄く広がっているが、粘着質なタールのように地面に張り付き、一歩ごとに剥がす苦悶がその表情に滲んでいた。
そして湊は、自らの足元にもそれが存在することに気づく。背後から伸びる、濃く、ずしりと重い、鉛のような影。それは自分の意志とは無関係に、彼の足首に絡みつき、地面に縫い付けようとしていた。一歩踏み出すだけで、全身に疲労が走るほどの抵抗を感じる。
「なんだ……これ……」
絞り出した声は掠れていた。この影には覚えがあった。これは、五年前に親友の圭介を裏切ったあの日から、湊の心に棲みつき、彼を苛み続けてきた「後悔」そのものの重さだった。
第二章 後悔の質量と少女の微笑み
影の重さに喘ぎながら、湊は目的もなく石畳の道を彷徨った。人々は皆、自分の影を引きずることに精一杯で、他人に構う余裕などないように見えた。誰もがうつむき、街全体が沈黙と倦怠の空気に満たされている。ここは、人生の重荷を可視化したような場所だった。
「あなたの影、すごく濃くて重そうね」
不意に、鈴を転がすような声がした。振り返ると、そこに一人の少女が立っていた。歳は十代半ばだろうか。簡素なワンピースを着て、その足元にはほとんど影らしい影が見当たらない。よく見れば、陽炎のように淡く、小さな影が彼女の足元で楽しげに揺れているだけだった。
「君は……影が、ないのか?」
「あるよ。でも、軽いの」
少女はリナと名乗った。彼女は悪戯っぽく笑い、屈託のない瞳で湊を見つめた。
「ここは『影溜まりの街』。元の世界で捨てられたり、忘れられようとしたりした『後悔』が流れ着く場所なの。そして、その後悔の重さが、影の重さになる」
リナの言葉は、非現実的でありながら、奇妙な説得力を持っていた。湊のこの鉛のような影は、圭介との約束を破り、起業の夢から逃げ出したあの日の後悔の結晶だ。彼を信じ、共に未来を描いていた親友の顔を、裏切りの言葉で絶望させた記憶。その記憶が、今も物理的な重さとなって湊を苛んでいた。
「どうすれば……この影は消えるんだ? 元の世界に帰るには、どうすれば?」
焦る湊に、リナは静かに首を振った。
「影は消せない。でも、軽くすることはできる。自分の後悔とちゃんと向き合って、受け入れて、赦すこと。そうすれば、影は少しずつ軽くなる。でもね」
リナは街の片隅を指差した。そこには、動かなくなった人々の姿があった。彼らの影はあまりに重く、巨大になりすぎた結果、本人を完全に飲み込み、黒い「澱(おり)」のような塊と化していた。もはや人としての輪郭さえ失い、ただ静かにそこにあるだけの、絶望の残骸だった。
「影が重すぎると、もうどこへも行けなくなる。この街からも出られない。澱になって、おしまい」
その光景に、湊は背筋が凍るのを感じた。自分もいずれああなるのだろうか。圭介への罪悪感に苛まれ、何も変えられないまま、この陰鬱な街で澱と化すのか。
リナはそんな湊の心を見透かしたように、そっと続けた。
「あなたの後悔は、誰かを傷つけた後悔でしょう? そういうのはね、一番重くなりやすいんだ」
彼女の微笑みは、なぜか少しだけ寂しそうに見えた。湊は彼女の軽い影を見つめ、この少女は一体どんな後悔と向き合ったのだろうかと、ぼんやり考えた。
第三章 影の告白、澱の真実
元の世界に帰る方法を探す中で、湊は街の最奥にある図書館へとたどり着いた。そこには、澱と化す寸前の老人が、書物の番人として静かに座っていた。彼の影はもはや影というより、彼自身が座る椅子や床と一体化した、巨大な黒い染みのようだった。老人はかろうじて上半身を動かし、か細い声で湊に話しかけてきた。
「お主も……帰りたがっておるのか」
老人の目は、全てを諦めたように濁っていた。湊が頷くと、彼はゆっくりと衝撃の事実を語り始めた。
「無駄なことだ。我々は『帰る』ことはできん。なぜなら、我々には『帰る場所』などないのだからな」
「どういう意味です?」
「この世界は、元の世界で生きる者たちが捨てた『後悔』が集まる場所……そう聞いたな? それは半分正しく、半分間違っておる」
老人は一度咳き込み、絶望的な真実を告げた。
「我々自身が、その『後悔』なのだよ」
湊は言葉を失った。理解が追いつかない。
「我々は人間ではない。元の世界にいる『本体』が抱えきれずに切り捨てた、後悔という感情の断片。その断片が、本体の記憶や人格の残滓を核として、この場所に流れ着き、人の形を成した……いわば、我々は後悔のレプリカなのだ」
全身の血が凍りつくような感覚。湊は自分の手を見つめた。この肉体も、圭介を裏切ったという記憶も、全てが偽物だというのか。自分は「水嶋湊」という人間ではなく、「水嶋湊が捨てた、親友への裏切りという後悔」そのものだったというのか。
「リナという少女もおるだろう。あの子もそうだ。誰かが抱いた、些細で、でも忘れられない後悔の化身よ。本体がその後悔を乗り越え、完全に忘れたり、赦したりした時……我々レプリカは、役目を終えて光の粒子となって消える。それが、我々の唯一の『救済』だ」
老人は続けた。「わしは、元の世界の男が犯した、家族を捨てたという後悔のレプリカだ。だが、男は決してその後悔を乗り越えなかった。むしろ、後悔に蓋をして見ないふりをし続けた。その結果、わしの影は澱となり、もはや消えることさえできなくなった。永遠にこの場所で、他人の罪を背負い続けるのだ」
絶望が、影の重さとは比較にならないほどの圧力で湊の心を押し潰した。自分はただの後悔の残滓。自分の意思も感情も、全ては借り物。元の世界の「水嶋湊」の都合で生まれ、彼の心次第で消えるだけの、儚い存在。脱出するという目標も、生きる意味さえも、この瞬間に霧散した。
第四章 赦しと光の粒子
図書館からの帰り道、湊の足取りは影以上に重かった。自分は本物の人間ではない。圭介に謝りたいと願うこの心さえ、ただの感情のコピーに過ぎないのかもしれない。絶望に打ちひしがれる湊の前に、リナが現れた。
「辛そうな顔。あのお爺さんから、真実を聞いたんだね」
彼女は全てを知っていた。
「私たちは、誰かの後悔から生まれた偽物かもしれない。でも」リナは自分の胸にそっと手を当てた。「ここであなたと会って、話したいと思った気持ち。あなたの重い影を見て、少しだけ胸が痛んだ気持ち。それは、本物だよ。私が、今、ここで感じたことだもの」
その言葉は、澱のように固まりかけていた湊の心に、小さな光を灯した。そうだ。たとえ自分がレプリカだとしても、この痛みは本物だ。圭介を想い、彼の未来を願う気持ちに嘘はない。
「俺は……どうすればいい?」
「あなたはどうしたいの?」
リナの問いに、湊は空を見上げた。二つの月が静かに彼を見下ろしている。
消える運命だとしても、このまま重い影に縛られて澱になるのは嫌だ。元の世界の「水嶋湊」が、自分という後悔の塊を抱えて苦しみ続けるのも嫌だ。
彼は決意した。
「俺は、水嶋湊の後悔として、あいつを赦したい。そして、あいつに赦されたい」
それは矛盾した願いだった。ここにいる自分は、圭介に会うことも、謝ることもできない。だが、祈ることはできる。
湊は、その場に膝をつき、目を閉じた。圭介の顔を思い浮かべる。彼の才能を、彼の情熱を、誰よりも信じていたはずだった。それなのに、自分の弱さが全てを壊した。
「ごめん、圭介」
声にはならなかった。ただ心の中で、何度も何度も繰り返した。
「お前なら、きっと成功する。俺がいなくても、お前は夢を叶えられる。だから、俺のことなんて忘れて、前へ進んでくれ。幸せになってくれ」
それは謝罪であり、贖罪であり、そして心からのエールだった。自分の存在を賭けて、親友の未来を願う祈りだった。
その瞬間、奇跡が起きた。
足元にまとわりついていた鉛色の影が、ふわりと浮き上がり、淡い光を放ち始めたのだ。鉛の重さが消え、信じられないほどの解放感が湊の全身を包み込む。体が透けていくのが分かった。自分の指先から、金色の光の粒子がこぼれ落ちていく。
ああ、元の世界の「俺」が、ようやく一歩を踏み出したんだ。過去を乗り越えようとしているんだ。
消滅の予感が、恐怖ではなく、穏やかな安らぎとして湊を満たしていく。隣でリナが、寂しそうに、でも誇らしげに微笑んでいた。
「ありがとう、圭介」
光の粒子へと変わりながら、湊は最後にそう呟いた。それは、後悔のレプリカが紡いだ、世界で一番純粋な祈りの言葉だった。
影溜まりの街に、一陣の優しい風が吹いた。