第一章 啼かぬ鳥と、涙の宝石
水島蓮(みずしま れん)が意識を取り戻した時、最初に感じたのは森の匂いではなかった。それは、雨上がりのアスファルトでも、消毒液の匂いが満ちた病室のそれとも違う、形容しがたい甘やかな空気だった。目を開けると、視界を埋め尽くしたのは、空に浮かぶ七色の太陽と、ガラス細工のように透き通った葉を持つ植物たちだった。
「……どこだ、ここ」
呟きは、奇妙なほど響かずに宙に溶けた。鳥の声も、風が木々を揺らす音すらしない。世界は息を殺したように静まり返っていた。蓮は混乱と不安に襲われ、立ち上がろうとして、足元の異変に気づく。地面には、彼が流したであろう一筋の涙の跡に沿って、小指の先ほどの小さな青い結晶が点々と生まれていた。それはサファイアのように深く、内部に淡い光を宿している。
「なんだ……これ?」
拾い上げると、ひんやりとした感触が指に伝わった。まるで氷のようだ。しかし、それは溶けることなく、蓮の体温を吸い取っていく。その冷たさは、彼の胸の内に渦巻く孤独感や恐怖と、どこか似ていた。
彼は、現代日本で生きづらさを感じていた。感情の振れ幅が大きすぎたのだ。映画を観ては号泣し、友人の冗談に腹を抱えて笑い、理不尽なニュースに本気で憤る。そんな自分を、周囲は「大げさだ」「面倒くさい」と遠巻きにした。感情を抑えようとすればするほど、それは内側で暴発し、蓮を疲弊させた。社会という精密機械の中で、自分は規格外の部品なのだと、ずっと思っていた。
だから、この静寂の世界は、いっそ心地良いとさえ感じられた。誰も自分を見ていない。評価しない。涙を流しても、それが美しい石に変わるだけ。彼は試しに、故郷の家族を思い浮かべ、意識的に頬を濡らしてみた。ぽろり、と雫が落ち、地面に触れた瞬間、再び青い結晶が生まれる。その神秘的な光景に、蓮は恐怖よりも先に、一種の解放感を覚えていた。この世界では、自分の「欠点」が、何か別の価値を持つのかもしれない。そんな淡い期待が、彼の心に芽生え始めていた。
第二章 喜色満面の市場と、空っぽの微笑み
森を抜けた蓮が出会ったのは、水晶でできたような街並みと、そこに住まう人々だった。彼らは皆、穏やかで物静かだったが、蓮の姿を見ると、その銀色の瞳に微かな好奇心を浮かべた。言葉は通じない。しかし、身振り手振りで空腹を訴えると、一人の少女が彼を市場へと案内してくれた。
リリアと名乗った少女は、人形のように整った顔立ちをしていたが、その表情は能面のように乏しかった。彼女は、蓮が持っていた青い結晶――「悲晶石(ひしょうせき)」と呼ぶらしい――を指差し、パンのような食べ物と交換できると教えてくれた。市場は、色とりどりの「情動晶(じょうどうしょう)」で溢れていた。怒りが結晶化したという燃えるような「憤怒鉱(ふんぬこう)」、安らぎが固まった緑色の「安寧玉(あんねいぎょく)」。そして最も高価で希少なのが、純粋な喜びから生まれるという「喜煌粉(きこうふん)」だった。それは黄金の光を放つ微細な粒子で、この世界のあらゆるエネルギーの源になっているという。
蓮の存在は、すぐに街の注目の的となった。彼の感情は、この世界の住人たちとは比較にならないほど豊かだったからだ。面白い話を聞いて彼が笑うと、その口元からきらきらと喜煌粉が舞い散り、人々はそれをありがたそうに集めた。故郷を思って感傷に浸れば、質の良い悲晶石がいくつも手に入った。人々は彼に最高の食事と寝床を提供し、丁重にもてなした。
「レンは、すごいね。たくさんの『心』を持ってる」
リリアが、いつもの無表情のまま、ぽつりと言った。彼女は蓮の世話を焼き、いつもそばにいた。蓮はリリアに、故郷での自分の不器用な生き様を語って聞かせた。感情豊かであることが、いかに疎まれてきたか。リリアは静かに耳を傾け、蓮が笑えば微笑み、蓮が悲しめば眉をひそめた。その反応が、蓮には救いだった。ここでは、ありのままの自分でいい。自分の感情が、誰かの役に立っている。生まれて初めて得た自己肯定感は、甘い蜜のように蓮の心を潤していった。
彼はリリアをもっと喜ばせたいと思った。彼女のあの作り物のような微笑みを、いつか本物の笑顔に変えたい。その一心で、蓮は陽気に振る舞い、面白い話を考え、たくさんの喜煌粉を生み出した。街は彼の感情によって活気づき、蓮は英雄のような扱いを受けた。彼は満たされていた。自分の居場所は、ここにあったのだと信じて疑わなかった。だが、彼は気づいていなかった。リリアや街の人々が彼に向ける眼差しに、熱狂や尊敬とは異なる、飢えたような光が混じっていることに。そして、彼らの微笑みが、どれだけ巧みに形作られても、決してその銀色の瞳にまでは届いていないという事実に。
第三章 感情嵐の夜と、砕かれた真実
その夜、異変は起きた。空が暗雲に覆われ、街中を満たしていた穏やかな光が消えた。代わりに、稲妻のような黒い亀裂が走り、地面からは怨嗟の声にも似た不気味な地響きが鳴り渡る。
「『感情嵐』だ……!」
誰かが叫んだ。それは、抑圧され、行き場を失った負の感情が具現化した、この世界最大の災害だという。街の外れにある古い情動晶の廃棄場から、巨大な黒い竜巻が立ち上り、街に向かってきていた。竜巻は、無数の「憤怒鉱」や純度の低い「悲晶石」を巻き込み、触れるものすべてを砕き、腐食させていく。
「リリアの故郷が、あっちの方に……!」
蓮はリリアの手を引いて走り出した。リリアの顔は青ざめていたが、そこにあるのは恐怖というよりは、何かを諦めたような虚無だった。
「レン、お願い! あなたの『喜び』の力で、あれを消して!」
街の人々が蓮に懇願する。そうだ、自分にはそれができる。この世界を救える。蓮は嵐の前に立ち、必死に楽しい記憶を呼び起こした。友人との馬鹿げた思い出、家族との温かい食卓、リリアと過ごした穏やかな日々。彼の体から眩いばかりの喜煌粉が放たれ、光の奔流となって黒い竜巻にぶつかった。
光と闇がせめぎ合う。しかし、嵐の勢いは衰えない。むしろ、蓮の光を喰らってさらに増大しているかのようだった。消耗し、膝をついた蓮の意識が遠のきかけたその時、嵐の中心から、一つのビジョンが流れ込んできた。
それは、この世界の創生の記憶だった。
遠い昔、ここに住まう人々は、蓮と同じように豊かな感情を持っていた。だが、彼らは争い、憎しみ合い、その果てに疲れ果てた。そして、究極の「効率化」を求めた。彼らは自らの心から「感情」という不安定な機能を切り離し、外部化することに成功したのだ。情動晶とは、彼らが捨てた感情の残骸だった。
感情を失った彼らは、争いをやめた。しかし、同時に生きる活力も、何かを生み出す創造性も失った。ただ静かに時を過ごすだけの、空っぽの器になった。彼らが生き永らえるには、外部から「燃料」――生の感情――を供給する必要があった。
蓮のような異世界人を「ソラリスト(感情奏者)」と呼び、定期的に召喚しては、その感情を搾取し、エネルギーとしてきたのだ。リリアの優しさも、街の人々のもてなしも、すべては蓮から高品質の情動晶を引き出すための「演技」だった。彼らは自ら感情を生み出せない。だから、他者の感情を模倣し、誘発させる術に長けているだけなのだ。
「……嘘だ」
砕け散ったのは、街の建物だけではなかった。蓮の心そのものだった。信じていた世界、手に入れたはずの居場所、リリアとの絆。そのすべてが、残酷な嘘で塗り固められた搾取のシステムだった。彼は、愛玩動物のように飼育された、ただの「燃料」に過ぎなかった。
絶望が、蓮の全身を支配した。瞬間、彼の体から放たれる光が消え、代わりに、これまで生み出したどんな悲晶石よりも冷たく、暗い、漆黒の結晶が足元に生まれた。虚無の結晶。それを見たリリアの銀色の瞳が、初めて見せるほど大きく見開かれた。
第四章 心なき者たちの祈りと、夜明けの色
感情嵐は、蓮が虚無に囚われたことで、さらに勢いを増した。彼の絶望が、嵐にとって最高の養分となったのだ。もはや街は崩壊寸前だった。人々はただ、なすすべもなく立ち尽くしている。彼らの顔には恐怖も悲しみもない。ただ、エネルギー供給が途絶えることへの、システム的な危惧があるだけだった。
「……レン」
リリアが、震える声で蓮の名を呼んだ。蓮は彼女を見ようとしない。裏切られた怒りすら湧いてこない。心は完全に冷え切っていた。
「ごめんなさい……。でも、私たちは、こうするしか生きられない」
リリアの頬を、一筋の雫が伝った。それは結晶にはならなかった。彼女には、感情を物質化する機能がないからだ。ただの、塩辛い水。しかし、その雫に、蓮は確かに見た。彼女の銀色の瞳の奥に揺らめく、模倣ではない、本物の「悲しみ」の色を。それは、感情を失ったことへの、そして、誰かを欺かなければ生きられない自分たちの運命への、どうしようもなく純粋な嘆きだった。
彼女たちもまた、この世界の被害者なのだ。自ら招いた結末とはいえ、永遠に続く空虚という罰を受け続けている。
蓮の心に、小さな火が灯った。それは怒りでも、悲しみでも、喜びでもなかった。もっと根源的で、複雑な、名付けようのない感情の塊だった。
利用されるのはもうごめんだ。搾取されるだけの燃料で終わるものか。だが、このまま彼らを見捨てることもできない。彼が下した決断は、破壊でも救済でもなかった。「変革」だった。
「見ててくれ、リリア。俺が、本当の『心』ってやつを教えてやる」
蓮は立ち上がった。彼はもはや、特定の感情を呼び起こそうとはしなかった。ただ、自分の内にあるすべてを、ありのままに解き放つことに集中した。
社会に馴染めなかった不器用な自分。些細なことで傷つき、涙した夜。腹を抱えて笑った、どうでもいい瞬間。誰かを愛おしく思った温かい記憶。そして今、この世界に向けられた、憐れみと、怒りと、そして、かすかな希望。
彼の全身から、七色の光が噴出した。それは喜煌粉のように温かく、悲晶石のように冷たく、憤怒鉱のように激しく、安寧玉のように穏やかだった。全ての感情が混ざり合った奔流は、もはや単一の情動晶ではない。それは「生命」そのものの輝きだった。
光は感情嵐を飲み込み、浄化していく。それだけではない。光の粒子は、街にいた全ての人々の胸に降り注いだ。空っぽだった器に、忘れ去られていた感情の種が、再び蒔かれていくように。人々は、何十年、何百年ぶりに、その頬に戸惑いの色を浮かべ、目を見張り、中には理由もわからず涙を流す者さえいた。
やがて、嵐は完全に消え去り、空には夜明けの光が差し込み始めていた。蓮の姿は、どこにもなかった。ただ、彼が立っていた場所には、たった一つだけ、手のひらサイズの結晶が残されていた。
それは、どんな色とも言えない、見る角度によって虹のように色合いを変える、不思議な輝きを放っていた。リリアはそれを、そっと拾い上げた。結晶は、まだ温かかった。それは、蓮がこの世界に残した、問いかけだったのかもしれない。感情とは、幸福か、不幸か。力か、あるいは呪いか。
答えは、まだ誰にもわからない。だが、晶心界に、初めて本物の鳥のさえずりが響き渡った。それは、新しい物語の始まりを告げる、産声のようだった。