第一章 不協和音の世界
気が付くと、俺、相沢響(あいざわ ひびき)は、白樺の森に立っていた。どこから迷い込んだのか、記憶は霧散していた。覚えているのは、防音スタジオで自分の無力さに絶望し、作りかけのデモ音源を叩きつけて部屋を飛び出したことだけだ。
それよりも問題なのは、この世界に満ちている「音」だった。
キィン、と耳の奥で金属が擦れるような高音が響く。誰かが過去の失言を悔いている音だ。ブゥン、と腹の底を揺らす低い唸り声。あれは、選ばなかった選択肢への未練。ガラスの割れる音、湿った土を啜る音、乾いた紙が破れる音――無数の不協和音が、絶え間なく俺の鼓膜を嬲っていた。
これが、俺がこの世界で発現した、唯一の能力。「他人の後悔を音として聞く力」。
元々、音響技師を目指していた俺の耳は、人より少しだけ鋭敏だった。だが、この呪いのような能力の前では、その繊細さは拷問器具でしかない。人々の集まる街は、後悔のオーケストラが鳴り響く地獄だった。俺は耐えきれず、人の気配が少ない場所を求めて、ひたすら歩き続けた。
森を抜け、岩がちな荒野に出ると、不協和音は少しだけ和らいだ。しかし、代わりに風の音に混じって、一つの巨大な「音」が聞こえてくる。それは、地の底から響くような、巨大な鐘を歪に打ち鳴らすような慟哭の音。あまりに深く、濃密な後悔の音塊に、俺は思わず膝をついた。音の発信源は、地平線の彼方に霞んで見える、一本の巨大な塔だった。
「あそこには、近づいちゃいけない」
俺は本能的に悟った。あそこには、一個人が抱えるには大きすぎる、途方もない絶望が渦巻いている。
俺の夢は、音で人の心を動かすことだった。だが、今の俺にとって、音は心を苛むだけの苦痛だ。人々を避け、静寂を求める俺の姿は、夢を追いかけていた頃の自分とは似ても似つかない。夢を諦めた後悔の音が、俺自身の内側で、低く、重く、鳴り響いていた。この世界は、まるで俺の挫折を嘲笑うかのように、後悔の音で満ちていた。
第二章 沈黙の少女
後悔のノイズから逃れるようにして辿り着いたのは、谷間にひっそりと佇む小さな村だった。驚いたことに、この村は比較的「静か」だった。もちろん、微かな後悔の音は聞こえる。だが、街で聞いたような狂乱のオーケストラではなく、まるで抑制された室内楽のようだった。
村人たちは、俺を静かに受け入れた。彼らは口数が少なく、感情の起伏も乏しいように見えた。彼らは「沈黙の儀式」と呼ばれる風習を日課としており、一日のうち数時間、一切の言葉を発さず、ただ静かに己と向き合うのだという。後悔を生まないための知恵なのだと、村長は語った。
その村で、俺はリラという少女に出会った。
亜麻色の髪を風になびかせ、澄んだ泉のような瞳を持つ少女。彼女の周りだけ、時間がゆっくり流れているような錯覚を覚える。そして何より、彼女からは、後悔の音が一切しなかった。それは完全な「無音」。俺がこの世界に来て初めて体験する、完璧な静寂だった。
俺は磁石のように彼女に惹きつけられた。彼女の隣にいるときだけ、俺を苛む不協和音は遠のき、心のさざ波が凪いでいくのを感じた。俺たちは多くの言葉を交わしたわけではない。ただ、二人で村はずれの丘に座り、双子の月が空に昇るのを眺める。それだけで、満たされた。
「響さんの世界は、どんな音でしたか?」
ある夜、リラがぽつりと尋ねた。彼女の声は、水面に落ちた雫のように、静かに俺の心に染み渡った。
「…うるさくて、綺麗で、希望と絶望が混じり合った、めちゃくちゃな音楽みたいな世界だったよ」
俺は、かつて自分が愛した音の世界を思い出していた。車のクラクション、雑踏の喧騒、ライブハウスの爆音。それら全てが、今は愛おしい。
「私は、音のない世界で生きてきました。だから、響さんの聞く音が、少しだけ羨ましい」
彼女の言葉に、俺は胸を突かれた。苦痛でしかなかったこの能力が、羨ましい? 彼女の瞳は、どこか遠くを見ているようだった。その横顔は、完璧な彫像のように美しく、そして同じくらい、どうしようもなく孤独に見えた。
俺はこの静かな世界で、リラの隣で生きていくのも悪くない、と本気で考え始めていた。自分の後悔の音に蓋をして、この偽りの平穏に身を委ねてしまおうか、と。
第三章 忘れられた塔の慟哭
平穏は、唐突に引き裂かれた。
ある日の午後、世界が揺れた。地平線の彼方に立つ「忘れられた塔」から、これまでとは比較にならないほどの巨大な慟哭が迸ったのだ。空は赤黒く染まり、大地は呻きを上げた。村人たちの抑えられていた後悔の音が一斉に共鳴し、俺の頭を内側からかき乱す。
「うわあああああっ!」
俺が耳を塞いでうずくまると、リラが俺の手を強く握った。不思議なことに、彼女に触れている間だけ、ノイズが少し和らぐ。
「響さん、来て」
彼女は俺を立たせ、村の奥にある古びた祠へと導いた。祠の中は、静寂に包まれていた。彼女はそこで、俺に世界の真実を語り始めた。
「この世界アニムスは、死者の魂が転生する前に、その生で抱えた『後悔』を浄化する場所です」
俺は言葉を失った。ここにいる人々は、皆、死者だというのか。
「人々は自らの後悔と向き合い、それを乗り越えることで、やがて光となって新たな生へと旅立ちます。沈黙の儀式も、後悔から逃げるためではなく、向き合うためのものなのです」
「じゃあ、リラは…」
「私は、この世界の管理者。…あるいは、システムの一部、と呼ぶべきかもしれません」
彼女は悲しげに微笑んだ。「あまりに永い時間、あまりに多くの魂の後悔に触れ続けた結果、私は『後悔』という感情そのものを失いました。私の無音は、平穏ではなく、空っぽの音なんです」
そして、彼女は俺の目を真っ直ぐに見据えた。「響さん。あなたがこの世界に呼ばれたのは、偶然ではありません。あなたのその『後悔の音を聞く力』が必要だったからです」
塔から響く、世界を揺るがすほどの慟哭。あれは、一人の魂が抱えた後悔の音だという。それは「原初の後悔」。この世界アニムスを創造した、最初の魂が抱えた後悔。その魂は、あまりに巨大な後悔のために浄化もできず、世界の中心で慟哭し続け、今やアニムスそのものを崩壊させようとしている。
「お願いです、響さん。その魂を、あなたにしかできない方法で救ってほしいのです。その音を、鎮めてほしい」
鎮める? 俺に何ができる。俺は音楽から逃げた男だ。人の心を動かすなんておこがましい。俺自身の後悔の音ですら、どうすることもできないのに。
「俺には無理だ」
「いいえ、あなたにしかできません」リラの声は、静かだが揺るぎなかった。「あなたは、音を消すのではなく、『調律』する人だから。あなたの後悔の音は、悲しいけれど…とても優しい音がします」
初めて、他人に自分の後悔の音を肯定された。それは、俺がずっと目を背けてきた、心の最も柔らかな部分に触れるような、痛みを伴う温かさだった。逃げるのは、もうやめだ。俺は、俺自身の後悔と、そしてこの世界の慟哭と向き合うことを決意した。
第四章 魂を調律する者
忘れられた塔の頂で、俺は「原初の後悔」と対峙した。そこに人の姿はなかった。ただ、空間そのものが嘆き、歪み、叫んでいる。圧倒的な音の奔流が、俺の精神を削り取っていく。
『救えなかった。守れなかった。あの時、別の選択をしていれば…!』
それは、創造主が愛する者を失った絶望の音だった。あまりに純粋で、あまりに深い後悔。これを消し去ることは不可能だ。鎮めることすら、きっとできない。
ならば。
俺は目を閉じ、意識を自分の内側へと深く沈めていく。蘇るのは、挫折の記憶。才能の壁にぶち当たり、鍵盤を叩く指が震え、五線譜を前にペンが止まった、あの日の絶望。俺自身の後悔の音が、低く、重く、響き始める。
俺はこの音から逃げていた。だが、リラは言った。「優しい音がする」と。
俺は、自分の後悔の音を、創造主の後悔の音へとそっと寄り添わせた。最初は反発し、軋み、耳を覆いたくなるほどの不協和音を生み出す。だが、俺は諦めない。彼の絶望的な独奏に、俺の不器用な伴奏を重ねていく。
――そうだ、あんたの気持ちは分かるよ。俺も同じだ。才能がなかった。努力が足りなかった。もっとやれたはずなのに、と今も思う。
音と音の対話。それは、傷ついた魂同士の共鳴。
やがて、二つの不協和音は、奇跡のような変化を始めた。創造主の絶望的な嬰ハ短調(C-sharp minor)の旋律に、俺の後悔の長三度(Major third)の音が重なり、悲しくもどこか温かい、長調(Major)の響きへと変化していく。それは「後悔の音」が「追憶の音楽」へと昇華された瞬間だった。
慟哭は、鎮魂歌へと変わった。
世界を覆っていた赤黒い光は収まり、柔らかな光が満ちていく。創造主の魂は、穏やかな光の粒子となって空へと溶けていった。
気づけば、俺の隣にはリラが立っていた。
「ありがとう、響さん」
彼女の瞳には、うっすらと涙が浮かんでいた。俺は元の世界に戻ることもできると、彼女は言った。だが、俺の心は決まっていた。
「ここに残るよ。この世界には、まだ調律を待つ魂がたくさんいるんだろう?」
俺の挫折した夢は、こんなにも数奇な形で、誰かを救う力になった。もう、音から逃げる必要はない。
リラは驚いたように目を見開いた後、ふわりと微笑んだ。その時、俺の耳に、か細く、けれど確かな音が届いた。チリン、と澄んだ鈴の音のような、小さな、小さな後悔の音。
「…響さんと出会うまでの、永すぎた孤独を悔いています」
彼女の頬を伝う一筋の涙。感情を取り戻した彼女が初めて奏でた、あまりにも愛おしい後悔の音。
それは、俺がこの世界で聞いた、最も美しい音色だった。俺は彼女の手を取り、双子の月が照らす新しい世界で、魂の調律師として生きていくことを誓った。後悔の音は、決して消えない。だが、それを受け入れ、美しい音楽に変えることはできるのだから。