忘れ石のソラリス

忘れ石のソラリス

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第一章 重憶の旅人

意識が浮上する感覚は、まるで冷たい水の底からゆっくりと引き上げられるようだった。水瀬 蒼(みなせ あおい)が最初に感じたのは、石灰と乾いた草の匂い。次に、瞼の裏を焼くような、双子の太陽の白い光。そして最後に、自らの身体を大地に縫い付ける、圧倒的な重力だった。

「うっ……く……」

呻き声が漏れる。起き上がろうと腕に力を込めるが、まるで自分という存在が鉛で鋳造されたかのように、指一本動かすことすら億劫だった。見慣れない空だ。淡い翡翠色をした空に、大小二つの太陽が静かに浮かんでいる。周囲には、風に削られた奇妙な形の岩々が墓標のように立ち並んでいた。ここが自分の知る世界のどこでもないことは、理性より先に、身体が感じ取る重みが証明していた。

絶望が胸を満たしかけたその時、軽やかな声が降ってきた。

「あなた、目が覚めたのね。すごく、重そう」

視線を声の方へ巡らせる。岩の頂に、一人の少女が立っていた。亜麻色の髪を風になびかせ、白い簡素な衣をまとった彼女は、まるで重力など存在しないかのように、軽々と岩から飛び降りて蒼のそばに着地した。その動きには、羽毛のような浮遊感があった。

「ここは……どこだ?」掠れた声で蒼は問う。

「ソラリス。ここは記憶が重さを持つ世界よ」少女はこともなげに言った。「あなたのその重さは、きっとたくさんの記憶を持っている証拠。特に、とても強い感情が絡んだ、忘れられない記憶」

少女の言葉が、蒼の胸に突き刺さる。忘れられない記憶。脳裏にフラッシュバックしたのは、雨に濡れたアスファルトの匂い、砕け散るヘッドライトの閃光、そして、助手席で血に濡れて微笑んだ親友、拓也の最後の顔だった。あの瞬間から、蒼の時間は止まっている。彼の心は、後悔という名の重い錨によって、過去の海に沈んだままなのだ。

「私はリリア。あなたみたいに『重い』人は久しぶりに見たわ」

リリアと名乗る少女は、興味深そうに蒼を見下ろした。彼女の瞳は、何も映していないかのように澄みきっていた。まるで、彼女自身には重さの原因となる記憶が、何一つないかのように。

「どうして……記憶が、重さに?」

「さあ?昔からそうだから。だから私たちは、要らない記憶を『忘れ石』に預けて、軽やかに生きるの。あなたもそうすれば、すぐに楽になれる」

リリアはそう言うと、地平線の彼方を指差した。そこには、天を衝くほどの巨大な結晶の塔が、陽光を乱反射させて淡く輝いていた。

「あそこが忘れ石の神殿。あなたのその重すぎる記憶も、あそこへ行けば手放せる。そうすれば、風のように自由に動けるようになるわ」

自由。その言葉は、甘美な毒のように蒼の心を痺れさせた。この耐え難い重さから、そして拓也を失った罪悪感から解放されるというのなら。蒼は、震える腕でなんとか半身を起こし、リリアが見つめる結晶の塔を睨みつけた。この重苦しい記憶を捨て去ることだけが、唯一の救いのように思えた。

第二章 忘れ石の神殿

リリアの案内で、蒼の神殿への旅が始まった。それは旅と呼ぶにはあまりに過酷な道のりだった。一歩進むごとに、足が地面にめり込むような感覚。全身の筋肉が悲鳴を上げ、呼吸は常に浅く、速い。拓也との思い出が、楽しかった日々も、最後の瞬間も、すべてが物理的な枷となって蒼の身体に絡みついていた。

対照的に、リリアは蝶のように舞い、鳥のように歌いながら先導した。彼女は時折、苦悶の表情を浮かべる蒼を振り返り、不思議そうに首を傾げる。

「そんなに辛いの?覚えていることって」

「……お前には、大切な記憶はないのか?」

「大切?うーん、よくわからない。昨日のご飯の味も、もう曖昧だもの。覚えておく必要がないことは、すぐに風に溶けて消えちゃう」

彼女の無垢な言葉は、蒼の心を苛んだ。写真家を目指していた蒼にとって、記憶とは、一瞬の光景を永遠に切り取る神聖な行為そのものだった。過ぎ去った時間を、感情を、人の存在を繋ぎとめる唯一の楔。それを、この世界の人々はいとも容易く手放していく。

道中、彼らは奇妙な光景をいくつも目にした。ある村では、人々が皆、虚ろな目で宙を見つめていた。彼らは記憶を捨てすぎたのだ。自分の名前も、家族の顔も、愛するという感情さえも忘れ石に預け、ただ呼吸するだけの抜け殻となっていた。風が吹けば飛ばされてしまいそうなほど軽々とした彼らの姿は、幸福というより、むしろ悲劇に見えた。

またある時は、沼地に半身を沈めたまま動けなくなっている老人を見つけた。彼は、亡き妻との思い出をどうしても手放せず、その重みに耐えきれず、大地に囚われてしまったのだという。老人の瞳には、深い悲しみと共に、確かな愛情の光が宿っていた。その姿は、今の蒼自身の未来を暗示しているかのようだった。

「忘れることは、本当に救いなのか……?」

蒼の心に、疑問が芽生え始めていた。拓也との記憶は、確かに彼を苦しめている。だが同時に、その記憶こそが、水瀬 蒼という人間を形作る根幹ではなかったか。共に笑い、語り合った夢、喧嘩した後の気まずさ、そして守れなかった約束。その全てを捨て去ってしまったら、自分には何が残るのだろう。

リリアは、そんな蒼の葛藤を見透かすように、静かに言った。

「あなたの記憶、少しだけ教えてくれない?重いって、どんな感じなのか知りたい。覚えているって、素敵なことなの?」

その問いに、蒼は答えられなかった。ただ、胸の奥で、鉛のように重い記憶が、ズクリと痛んだ。それは紛れもなく、苦痛だった。しかし、その痛みの奥底に、微かな温もりがまだ残っていることにも、彼は気づき始めていた。

第三章 軽すぎた真実

幾多の困難の末、蒼とリリアは忘れ石の神殿にたどり着いた。大理石の床は鏡のように磨き上げられ、ステンドグラスから差し込む光が幻想的な模様を描いている。神殿の中央には、天を支える柱のごとき巨大な結晶――忘れ石が鎮座していた。それは内側から淡い光を放ち、まるで無数の魂がその中で眠っているかのように見えた。

神官に導かれ、蒼は忘れ石の前に立つ。手をかざし、意識を集中させれば、記憶をこの石に移すことができるのだという。

「さあ、心の重荷を解き放ちなさい。さすれば、あなたに安寧が訪れるでしょう」

神官の言葉に促され、蒼は目を閉じた。

脳裏に、拓也との記憶が奔流となって溢れ出す。初めてカメラを手に取った日、彼が「お前の撮る写真は、世界を優しくする力がある」と言ってくれたこと。徹夜で語り合った未来。そして、あの雨の日。ハンドルを切り損ねたトラック。自分を庇うように覆いかぶさってきた拓也の腕の感触。

「……蒼、お前のせいじゃない……夢を、諦めるなよ……」

それが彼の最後の言葉だった。

この記憶を手放せば、この罪悪感から逃れられる。もう二度と、この重みに苦しむことはない。だが、本当にそれでいいのか?この記憶を失うことは、拓也の最後の言葉も、彼がくれた優しさも、全てを無にすることではないのか?

「ダメだ……できない……!」

蒼は目を見開き、忘れ石から手を引いた。後悔も、悲しみも、全てが自分の一部だ。これを捨ててしまったら、俺は俺でなくなる。拓也という親友がこの世に存在したという証を、俺自身が消してしまうことになる。

その時だった。ずっと黙って蒼の様子を見ていたリリアが、悲しそうな顔で呟いた。

「……そう。あなたも、手放せないのね」

その声は、いつもの軽やかさとは違う、深く、寂しげな響きを帯びていた。蒼が驚いて彼女を見ると、リリアの足元から、淡い光の粒子が立ち上り、彼女の身体が透け始めていることに気づいた。

「リリア、お前……!」

「ごめんなさい。あなたを騙すつもりはなかったの」

リリアは静かに語り始めた。読者の予想を裏切る、世界の真実を。

「私はリリアじゃない。私は、この世界ソラリスそのもの。人々が捨てた記憶の集合体である、この忘れ石の化身なの」

彼女の告白に、蒼は息をのんだ。

「人々が記憶を捨て、軽くなるたびに、この世界は存在意義を失い、希薄になっていった。大地は強度を失い、空の色は褪せ、やがて全てが無に帰ろうとしている。この世界を繋ぎとめているのは、忘れ石に蓄積された、忘れられた記憶の『重さ』だけ」

リリアの身体は、ますます透明になっていく。

「でも、ただ捨てられた記憶だけでは足りなかった。世界を支えるには、もっと強い、『誰かが何があっても手放したくないと願うほどの、重い記憶』が必要だったの。だから、私はあなたを呼んだ。あなたのその、世界一つ分にも匹敵するほどの、重くて、深くて、かけがえのない記憶を求めて」

彼女が身軽だったのは、個人の記憶を持たない、空っぽの器だったから。彼女が蒼の記憶に興味を示したのは、それが自らの、そしてこの世界の渇きを癒す唯一のものだったからだ。蒼が救いを求めてやってきたこの異世界こそが、実は蒼の記憶に救いを求めていた。あまりに皮肉な真実に、蒼は立ち尽くすしかなかった。

第四章 空と大地の約束

価値観が、世界が、足元から崩れ落ちていく。自分が逃げ出したいと願っていたこの重い記憶こそが、消えゆく世界を救う最後の希望だったというのか。罪悪感だと思っていたものは、親友との絆の証であり、この世界を繋ぎとめる錨でもあった。

蒼の前に、二つの道が示された。

一つは、このまま記憶を忘れ石に預ける道。そうすれば、彼はこの重さから解放されるだろう。しかし、それはソラリスという世界の終わりを決定づける行為に他ならない。

もう一つは、この重い記憶を抱えたまま、この消えゆく世界と共に在る道。元の世界に帰れる保証はない。一生、この鉛のような身体のまま生きていくことになるかもしれない。

蒼は、震える手で自らの胸を押さえた。そこには確かに、拓也の記憶が、その重みと共に息づいていた。それは呪いなどではなかった。それは、拓也が蒼に託した、最後のバトンだったのだ。

「夢を、諦めるなよ」

その言葉が、今になって鮮やかに蘇る。写真を撮るということは、記憶を、存在を、肯定し、未来へ繋ぐことだ。忘れることとは、正反対の行為。俺は、忘れるためにここに来たのではない。思い出すために、そして、これからを生きるために、ここに来たんだ。

蒼は、透けゆくリリアに向き直った。その瞳には、もう迷いはなかった。

「この記憶は、俺のものだ。誰にも渡さないし、決して手放さない」

きっぱりとした言葉に、リリアの瞳が揺れる。

「でも、」と蒼は続けた。「この記憶と共に、俺はこの世界で生きてみる。俺が、この世界の新しい『重し』になる。俺がここにいる限り、拓也が生きていた証がある限り、この世界は、きっと消えたりしない」

それは、逃避の終わりであり、覚悟の始まりだった。

蒼の決意を受け止めたリリアの輪郭が、ふっと確かなものに戻った。彼女の唇に、生まれて初めてのような、はにかんだ微笑が浮かぶ。

「……ありがとう、重憶の旅人さん」

その瞬間、蒼は足元の石畳が、ほんの少しだけ、確かな手応えを取り戻したのを感じた。それは気のせいのような変化だったかもしれない。だが、蒼にとっては、世界との間に生まれた、最初の絆だった。

元の世界に帰る方法は、もう探さないだろう。彼の体は相変わらず鉛のように重い。だが、不思議と、神殿に来た時のような絶望的な息苦しさはなかった。背筋を伸ばし、一歩を踏み出す。その一歩は信じられないほど重く、しかし、大地を踏みしめる力強さに満ちていた。

蒼はもうカメラを持っていない。だが、彼には世界で最も優れたレンズ――彼の両眼がある。彼は、この双子の太陽が照らす翡翠の空を、風に揺れる名もなき草花を、そして、隣で微笑む世界の化身を、その目に、心に、焼き付け始めた。

失われた記憶でできたこの世界に、新しい記憶を刻みつけるために。

重い記憶を抱えて生きることは、呪いではない。それは、大地に深く根を張り、時には一つの世界さえ支える力となる。悲しみを乗り越えるのではない、悲しみと共に未来へ歩む道。蒼のその重い一歩が、今、静かに、しかし確かに、ソラリスの新しい歴史を刻み始めた。

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