後悔染みの洗濯屋

後悔染みの洗濯屋

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第一章 消えない染みと懐中時計

雑居ビルの隙間に吹き込む風が、古びた看板をカタカタと鳴らしていた。『影山クリーニング』。しかし、ここに洗濯物が持ち込まれることはない。俺、影山湊(かげやま みなと)が洗うのは、服に染みついた泥やワインの汚れではない。人の心にこびりついた、後悔という名の染みだ。

いつからか、俺にはそれが見えるようになった。人の衣服や持ち物に、時にはその人の肌に直接、黒く澱んだインクのような染みが。それは、持ち主が抱える後悔の可視化された姿だった。染みに触れると、脳内にその記憶が奔流のように流れ込んでくる。俺の仕事は、その記憶の根源を解き明かし、持ち主が過去と向き合う手助けをすることで、染みを薄くする、あるいは消し去ることだ。

その日、ドアベルの澄んだ音とともに現れたのは、背筋をしゃんと伸ばした、上品な老婆だった。桜井節子と名乗った彼女は、小さな桐の箱を恭しくテーブルの上に置いた。

「これを、お願いできますでしょうか」

箱の中から現れたのは、銀製の古い懐中時計だった。繊細な彫刻が施されているが、長年の使用で表面は滑らかに摩耗している。しかし、俺の目を釘付けにしたのは、その美しさではなかった。時計の蓋の中心に、まるで底なし沼のように深く、暗い染みが広がっていたのだ。それは俺が今まで見たどんな後悔よりも濃く、邪悪な気配さえ漂わせていた。触れる前から、じわりと指先に冷気が伝わってくるような感覚。

「亡くなった主人の形見です。主人は…とても立派な人でした。一点の曇りもない、太陽のような人だったと、私は信じております。ですが、この染みは、主人が亡くなってから日に日に濃くなるばかり。まるで、主人が今も黄泉の国で苦しんでいるようで…」

節子さんの声は、すがるように震えていた。

俺は息を呑んだ。死者の後悔。それは最も厄介な依頼だ。持ち主はもういない。対話によって後悔を昇華させることができないからだ。

「…お引き受けします。ですが、少しお時間がかかるかもしれません」

俺は覚悟を決め、その冷たい懐中時計をそっと手に取った。ずしりとした重みが、これから向き合うことになる後悔の深さを物語っているようだった。

第二章 澱む記憶の断片

店の奥にある作業場で、俺は深く息を吸い込み、懐中時計の染みにそっと指を触れた。

瞬間、世界が反転した。

轟音。火薬の匂い。人々の悲鳴。空襲警報のサイレンが鼓膜を突き破る。俺は、節子さんの夫、若き日の桜井壮一の視界を追体験していた。瓦礫だらけの道を、彼は必死に走っている。腕の中には、見ず知らずの幼い男の子を抱えていた。

「しっかり捕まってろ!」

壮一は叫ぶが、その声は爆音にかき消される。すぐ後ろで建物が崩れ落ち、熱風が背中を焼いた。その時、彼の足がもつれ、少年もろとも地面に転がってしまう。少年が泣き叫ぶ。遠くに、比較的安全そうな防空壕の入り口が見えた。しかし、そこへ向かう人々でごった返している。

次の瞬間、壮一は信じられない行動に出た。彼は泣きじゃくる少年を瓦礫の陰に押しやり、一人で防空壕へと走り出したのだ。少年の「行かないで」という悲痛な叫びが、彼の背中に突き刺さる。しかし、彼は振り返らなかった。

そこでビジョンは途切れた。

俺は額に滲む冷や汗を拭った。なんてことだ。太陽のようだったという夫が、無力な子供を見捨てて逃げた。これが、あの深い染みの正体か。

数日後、再び店を訪れた節子さんに、俺は見たままを慎重に伝えた。彼女の穏やかだった表情が、みるみるうちに強張っていく。

「そん…な、はずがありません」

彼女はか細く、しかし断固とした口調で否定した。

「主人が、子供を見捨てるなんて…。何かの間違いです。あの人は、誰よりも正義感の強い人でした。戦時中、何度も人の命を救ったと聞いております。あなたは、主人の名誉を汚すおつもりですか」

彼女の瞳には、俺に対する失望と、かすかな怒りが浮かんでいた。俺は言葉に詰まった。俺が見たものが真実のはずだ。だが、彼女の夫への揺るぎない信頼もまた、紛れもない真実だった。

その時、ふと俺の目に、彼女が羽織っている薄紫のカーディガンが映った。その右袖に、淡く、しかし確かに存在する小さな染みが見えた。それは懐中時計の染みとは比べ物にならないほど薄いが、同じ種類の、後悔の染みだった。

「奥様…」

俺が何かを言いかける前に、彼女は立ち上がった。

「もう結構です。お騒がせいたしました」

そう言って、彼女は懐中時計には目もくれず、逃げるように店を出ていった。残された俺は、二つの染みが示す、食い違った物語の前で立ち尽くすしかなかった。

第三章 重なり合う後悔

諦めきれなかった。あの懐中時計の染みは、単なる「見捨てた」という後悔だけでは説明がつかないほど、深く複雑な色をしていた。そして、節子さんの袖にあった染み。二つの後悔は、どこかで繋がっているのではないか。

俺は意を決し、もう一度、懐中時計の染みの深層へダイブすることにした。今度は、もっと強く、もっと深く意識を集中させる。冷たい金属の感触が、再び俺を過去へと引きずり込んだ。

同じ、戦火の夜。だが、今度は視点が少し違った。俺は、桜井壮一のすぐ隣を走る、もう一人の男の存在に気づいた。顔が瓜二つだ。双子か、あるいは兄弟か。壮一が子供を抱え、もう一人の男がその横を並走している。

建物が崩れ、二人は転倒する。ここまでは同じだ。だが、そこからの光景が、俺の予想を根底から覆した。

防空壕へ向かって走り出したのは、壮一ではなかった。子供を瓦礫の陰に押しやり、見捨てて逃げたのは、彼にそっくりなもう一人の男だったのだ。

壮一は、足に怪我を負い、動けずにいた。彼は、逃げていく男の背中と、泣き叫ぶ少年を、ただ呆然と見つめることしかできなかった。そして、次の爆撃で、逃げた男がいたあたりが閃光に包まれた。少年も、瓦礫の下敷きになったのだろうか。壮一は、友の名を絶叫した。そう、彼は友人だったのだ。あまりに似ていたため、最初のビジョンでは同一人物だと誤認してしまったのだ。

壮一の後悔は、子供を見捨てたことではなかった。友人が犯した罪を止められなかった後悔。そして、その友人を、結果的に見殺しにしてしまったという後悔。その二つが、彼の心を生涯苛み続けていたのだ。

俺はハッと我に返った。だが、まだ終わらない。俺は震える手で、節子さんが店に忘れていったカーディガンを掴んだ。袖の淡い染みに、指を触れる。

――流れ込んできたのは、同じ夜の光景。だが、それは遠くから、物陰に隠れて見ている視点だった。節子さんだ。若き日の彼女は、崩れた家の影から、一部始終を見ていたのだ。壮一の友人が少年を見捨てて逃げるのを。そして、壮一が動けずにいるのを。彼女は恐怖で声も出せず、ただ息を殺して震えていた。

戦争が終わり、壮一は奇跡的に助かった。しかし、彼は友人が犯した罪を、まるで自分が犯したかのように背負い込み、口を閉ざした。節子さんもまた、自分が目撃した真実を、夫に告げることはなかった。言えなかったのだ。夫の苦しみを知りながら、真実を告げる勇気がなかった。彼女の後悔は、「真実を言えなかった沈黙」そのものだった。

二つの染み。二人の後悔。それは、一つの事件を核にして、生涯にわたって固く結びつき、互いを苛み続けていたのだ。夫は友の罪を背負い、妻は夫の無実を知りながら沈黙を守った。なんという、悲しくも気高い、愛の形だろうか。

第四章 セピア色の和解

俺は節子さんの家を訪ねた。インターホンを押すと、憔悴しきった様子の彼女が現れた。俺は、カーディガンを差し出し、静かに語り始めた。懐中時計が見せた本当の記憶。彼女が見て見ぬふりをした、あの夜の真実。

すべてを話し終えると、節子さんはその場に崩れ落ち、嗚咽を漏らした。それは、何十年もの間、胸の奥に閉じ込めてきた感情の奔流だった。

「あの人は…主人は、ずっと一人で苦しんでいたのですね…。私のせいで。私が、あの時、本当のことを言っていれば…」

「あなたは、ご主人を守りたかっただけだ」俺は言った。「沈黙もまた、一つの愛の形だったんだと思います」

俺の言葉が届いたのか、彼女は顔を上げた。その目には、深い悲しみとともに、どこか解放されたような光が宿っていた。

「ありがとう…ございます。やっと、主人の本当の心に、触れられた気がします」

数日後、節子さんが再び店にやって来た。彼女は晴れやかな顔で、例の懐中時計を俺に見せた。

俺は目を見張った。時計の中心にあった、あの底なし沼のような黒い染みが、跡形もなく消えていたわけではなかった。それは、まるで古い写真のような、淡いセピア色に変わっていたのだ。

「消えなかったのですね」

節子さんは、慈しむように時計を撫でながら言った。

「ええ。ですが、もうあの冷たさはありません。今は、主人の生きた証として、とても温かく感じられます」

後悔は、完全には消えない。消し去るべきものでもないのかもしれない。ただ、その色を変え、痛みから、忘れられない大切な記憶へと姿を変えることがある。俺は、この仕事の本当の意味を、初めて理解した気がした。

節子さんが帰った後、俺は一人、自分の左腕を見た。そこには、俺がこの力を得るきっかけとなった、決して消えることのない黒い染みがある。かつて、俺は親友のSOSから目を背け、彼を失った。この染みは、そのどうしようもない後悔の証だ。

今までは、ただ忌まわしいだけだったこの染み。だが、今は少しだけ違って見える。いつか俺も、この染みと和解できる日が来るのだろうか。セピア色に変わる日が、来るのだろうか。

俺は窓の外に広がる夕焼けを見つめた。空の色が、黒から藍へ、そして優しい茜色へと変わっていく。まだ答えは見つからない。それでも、俺はここにいて、明日来るであろう、新たな後悔の染みを待つのだ。

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