虹彩のパラドクス
第一章 蝕む色彩
リオの左腕には、虹が宿っていた。
幼馴染のリナが、庭に咲いた一番美しい薔薇を「あなたみたい」と笑って手渡してくれた時、手首に淡い翠の線が浮かんだ。彼女の父親に絵の才能を褒められ、力強く肩を抱かれた日には、燃えるような赤が走った。人々から愛されるたび、その人の心が持つ色彩が、リオの肌に美しい斑紋として刻まれていく。町の人々はそれを「神の祝福」と呼んだ。
だが、リオだけが知っていた。これは祝福などではない。呪いだ。
リナが彼の名を呼ぶ。その声には春の陽光のような温かみがあったはずなのに、今ではただの音の羅列にしか聞こえない。彼女が焼いたパンの香ばしい匂いも、かつてのように心を浮き立たせることはなかった。喜びが、楽しみが、まるで薄紙を一枚ずつ剥がされていくように、彼の中から消えていく。
ある日の午後、リナはアトリエでキャンバスを前に泣いていた。
「どうして……。描けないの。あんなに鮮やかだった空の青が、ただの青い絵の具にしか見えない」
その傍らで、リオの右の掌には、空の青を写し取ったかのような鮮烈な斑紋が、禍々しいほどに輝いていた。彼はリナの肩に手を置くことしかできない。悲しいはずなのに、涙は一滴も流れなかった。彼の心は、静まり返った冬の湖面のように、何も映さなくなっていた。
世界は奇妙なほど豊かになっていた。枯れたはずの井戸から再び水が湧き、不作続きだった畑には金色の穂が波打つ。人々はその恩恵を享受し、神に感謝を捧げていたが、その奇跡の源が、一人の少年の失われた感情であることなど、誰も知る由もなかった。
第二章 澱への渇望
感情を失うことは、死よりも恐ろしい。鏡に映る自分は、美しい虹色の模様を纏った、ただの人形だった。このままでは、リナの笑顔を見ても何も感じなくなる。彼女を愛しているという、この最後の感覚さえも失ってしまうだろう。
絶望の淵で、リオは古い書物の中に記述を見つけた。
『万感は流れ、澱に集う。世界の果て、魂の還る場所、感情の澱』
失われた感情が行き着く場所。そこへ行けば、奪われた自分自身を取り戻せるかもしれない。リナから、皆から奪ってしまった心の色彩を、返せるかもしれない。微かな、しかし切実な希望に突き動かされ、リオは旅立ちを決意した。
「行かないで」
リナは彼の服の袖を掴んで泣いた。彼女の瞳から零れる透明な雫が、彼の心を鈍く打つ。
「必ず、帰ってくる。君の描く世界に、もう一度色を取り戻すために」
その言葉が、どれほどの愛情から生まれたものか。リナは嗚咽を堪え、彼に木彫りの小さな鳥の首飾りをかけた。
「お守りよ。あなたの心が、道に迷わないように」
その瞬間、リオの喉元に、リナの涙と同じ、どこまでも透明な輝きを持つ斑紋が刻まれた。そして、彼の視界から決定的に何かが失われる。目の前で泣きじゃくるリナの顔が、ただの肉と骨でできた造形物にしか見えなくなった。愛しいという感覚の、最後の残滓が消えた。
第三章 透明な心臓
世界の果てと呼ばれる、光さえ届かぬ大地の裂け目。その最深部に「感情の澱」はあった。
巨大な洞窟の中心で、虹色に脈動する巨大な結晶体が、静かに呼吸をしていた。美しい。リオの心はそう感じたはずだったが、言葉は空虚に響くだけだった。
彼は、まるで引力に導かれるように結晶体へと歩み寄り、そっと指先で触れた。
その瞬間――奔流が来た。
忘れていたはずの喜びが全身を駆け巡り、胸を抉るような悲しみが心臓を鷲掴みにする。焼き尽くすほどの怒り、凍てつく孤独、そして、リナへの狂おしいほどの愛!失われたすべての感情が、一度に彼の中へと流れ込み、その奔流に耐えきれず、リオは絶叫した。人間であることの痛みと歓喜に、彼は打ち震えた。
同時に、世界の摂理を理解した。この結晶体は、彼がこれまで失ってきた感情そのものだった。そして、この結晶体が放つエネルギーこそが、世界を潤す「祝福」の正体だったのだ。彼は、愛されることで感情を世界に還元する、この星のシステムの一部として生まれてきた存在だった。
だが、その結晶体には無数の亀裂が走り、輝きは今にも消え入りそうだった。彼が感情を取り戻したことで、世界の祝福は尽きようとしていた。
「リオ!」
背後から、息を切らしたリナの声がした。彼女は彼を追いかけてきたのだ。
「あなたがいない世界は、色がなかった……!灰色だったの!お願い、もうどこにも行かないで!」
リナの叫びは、取り戻したばかりのリオの心を激しく揺さぶった。彼女と共に生きたい。感情を取り戻した今なら、彼女を心から愛せる。
しかし、彼は見てしまった。彼女の後ろに広がる世界が、急速に色彩を失い、枯れ果てていく未来の幻影を。
第四章 愛の残響
リオは、涙に濡れるリナをそっと抱きしめた。取り戻した心臓が、温かい血を全身に送り出している。
「リナ。君がくれた愛が、この世界を彩るんだ」
彼は微笑んだ。それは、彼が生まれて初めて見せた、心の底からの笑顔だった。
「僕のことは忘れていい。でも、誰かを愛することを忘れないで」
彼はリナから体を離し、ゆっくりと結晶体へと向き直る。そして、その輝きの中心へと、自らの身を投じた。
「リオォォォッ!」
リナの絶叫が洞窟に木霊する。
リオの体は眩い光に包まれ、肌に刻まれた虹色の斑紋が全身を覆い尽くしていく。喜びも、悲しみも、愛も、そのすべてを世界へと明け渡しながら、彼の輪郭は次第に薄れ、やがて完全に透明になって消えた。
リナの記憶から、リオという少年の名前も、顔も、砂の城のように崩れて消えていった。ただ、胸の奥に言いようのない温かさと、どうしようもない喪失感だけが、確かな感触として残った。
世界は、かつてないほどの光と色彩に満ち溢れた。
リナはアトリエに戻り、憑かれたようにキャンバスに向かった。彼女の筆が紡ぐ色彩は、生命そのものだった。描き上がった絵の中心には、なぜか涙を流しながら微笑む、名もなき少年の姿があった。それが誰なのか、彼女には分からない。けれど、その絵を見ていると、胸に空いた穴が、温かい光で満たされる気がした。
人々は、この豊かさが一人の少年の犠牲の上にあるとは知らない。
ただ、世界には一つだけ変化が訪れた。誰かが誰かを心から愛するたびに、空に、淡く儚い虹がかかるようになった。
それは、世界そのものになった少年が流す、祝福の涙だった。