第一章 錆びついたフォーク
柏木朔太郎の世界は、灰色だった。窓の外で性懲りもなく繰り返される季節の色彩も、モニターが放つ無機質な青白い光に漂白され、意味を失っていた。彼はかつて、言葉で味を紡ぐ料理評論家だった。だが今は、文章の誤字を正すだけの校正者として、静寂の部屋に自らを幽閉している。
他人との食事は、もう五年も前にやめた。いや、やめざるを得なかったのだ。あの日を境に、朔太郎の舌は呪われた。他人が作った料理を口にすると、その作り手の最も強い「後悔」が、生々しい味覚となって流れ込んでくるようになったからだ。それは塩味でも甘味でもなく、鉄錆を舐めるような、あるいは古びた紙を噛み締めるような、魂が蝕まれる味だった。だから彼は、自分で作る最低限の栄養食しか口にしない。味も素っ気もない、ただの燃料。それが朔太郎の日常だった。
その灰色の日常に、ある午後、予期せぬ色が飛び込んできた。インターホンの音に眉をひそめながらドアを開けると、そこに立っていたのは、最後に会った時よりずっと大人びた娘の美月だった。セーラー服の襟を乱し、大きなボストンバッグを肩にかけた彼女は、朔太郎の顔を見るなり言い放った。
「今日からここに住むから」
反論の隙も与えず、美月は朔太郎の脇をすり抜けて部屋に上がり込む。五年。妻であり、美月の母であった佳奈恵が亡くなったあの日から、美月は妻の実家に預けられ、朔太郎は一人でこのマンションに住んでいた。互いに連絡を取り合うこともなく、時間はただ断絶していた。
「何を言ってるんだ。おじいさんたちは何と…」
「許可は取った。しばらく厄介になる。その代わり、一つだけお願いがあるの」
美月はリビングの中央で振り返ると、真っ直ぐな瞳で朔太郎を射抜いた。その瞳は、今は亡き妻によく似ていた。
「お母さんが遺したレシピノート、まだあるでしょ。そこに書いてある、『世界で一番美味しいオムライス』を作ってほしいの」
その言葉は、朔太郎の心の奥で錆びついていたフォークを、無理やりこじ開けるような衝撃を与えた。世界で一番美味しいオムライス。それは、家族三人で過ごした最後の日に、妻が口にした言葉だった。そして、朔太郎が決して思い出したくない、あの事故の日の記憶に繋がる、呪いの言葉でもあった。彼は言葉を失い、ただ立ち尽くすしかなかった。美月の挑戦的な視線が、逃げることを許さないと告げていた。
第二章 再現できない味
美月が持ち込んだボストンバッグからは、着替えよりも先に、使い古された一冊のノートが現れた。表紙には佳奈恵の丸い文字で『柏木家のあじ』と書かれている。ページをめくると、油のシミやインクの滲みが、在りし日の食卓の温もりを伝えてくるようだった。
「これよ、『最後の宝物』ってページ」
美月が指差した最後のページには、チキンライスの材料から卵の混ぜ方まで、丁寧な手順が記されていた。そしてレシピの最後には、こう締め括られていた。『これを食べれば、いつでも家族は一つになれる。世界で一番美味しい、魔法のオムライス』。
「作れない」
朔太郎は、か細い声で拒絶した。
「俺はもう、料理をしない」
「なんでよ!」美月が声を荒らげる。「評論家までやってた人が、娘にオムライスの一つも作れないって言うの? お父さんは、お母さんが死んでから、私のことも全部捨てたんだ!」
突きつけられた言葉が、古い傷口に塩を塗り込む。違う、そうじゃない。だが、本当のことは言えなかった。他人の後悔を味わう呪われた舌のことを、どう説明すればいい? お前が作った料理を食べれば、お前の悲しみが俺を苛むことになる、などと。
結局、キッチンに立ったのは美月だった。レシピノートを睨みつけ、慣れない手つきで玉ねぎを刻む。その背中はあまりに小さく、頼りなげで、朔太郎は目を逸らした。
やがて、ケチャップの少し焦げた匂いが部屋に満ちた。差し出された皿の上には、形こそいびつだが、紛れもないオムライスが乗っていた。
「…食べてみて」
美月は期待と不安が入り混じった顔で朔太郎を見つめる。断れなかった。朔太郎は覚悟を決め、スプーンで一口分をすくい、ゆっくりと口に運んだ。
瞬間、彼の脳裏に嵐が吹き荒れた。それは味ではなかった。冷たい雨の匂い、アスファルトに響くブレーキ音、そして「どうしてお父さんだけ」という、美月の声なき慟哭。それは、母親を失った深い悲しみと、父親に見捨てられたという絶望的な孤独感。苦い、苦い後悔の味が、朔太郎の全身を貫いた。
「……っ!」
彼はスプーンを取り落とし、激しく咳き込んだ。
「どうしたの?」
「……違う。これは、あの時の味じゃない」
朔太郎が絞り出した言葉に、美月の顔から光が消えた。「そんなはずない…レシピ通りに作ったのに」。彼女は唇を噛み締め、その日から毎日のようにオムライスを作り続けた。卵の火加減を変え、隠し味を試し、ケチャップの種類を変えた。だが、朔太郎が口にするたびに、彼の表情は曇り、同じ言葉を繰り返すだけだった。「違う」。
そしてそのたびに、朔太郎は美月の心の叫びを味わっていた。焦り、苛立ち、そして増幅していく父親への不信感。それは、朔太郎自身の罪悪感を抉る、終わりのない拷問のようだった。
第三章 最後の一ページ
一週間が過ぎた頃、美月はキッチンで泣き崩れた。床には割れた卵と、飛び散ったケチャップが赤い涙のように広がっていた。
「もう、わからない…! 何が違うのよ…!」
その姿を見て、朔太郎の胸は張り裂けそうになった。娘をこんなにも苦しめているのは、自分自身だ。真実を話すべきなのか。だが、あまりにも残酷な真実を、この子に背負わせることなどできない。彼が葛藤していると、美月はふと、床に落ちたレシピノートに目を留めた。何度もめくったせいで、最後のページの端が少し剥がれかけていた。
「……あれ?」
美月は吸い寄せられるようにノートを拾い上げ、その剥がれかけた部分に爪をかけた。すると、ページが二重になっていたことに気づく。貼り合わされた紙をゆっくりと剥がすと、そこには、佳奈恵が遺したもう一つのメッセージが、インクで少し滲みながらも記されていた。それは、美月ではなく、朔太郎に向けた手紙だった。
『あなたへ。
もし、いつか美月がこのオムライスを求めてあなたの元へ行ったら、どうか本当のことを話してあげてください。怖がらないで。あの子は、あなたが思うよりずっと強い子です。
そして、どうか思い出して。あのオムライスの本当のレシピは、このノートには書いていない。本当のレシピは、あなたの記憶の中にしかないことを。愛しています。 佳奈恵』
手紙を持つ美月の手が、小刻みに震えていた。朔太郎は観念したように、深く息を吸った。もう、逃げることはできない。
「美月。あの日のことを話すよ」
朔太郎は、五年間、心の奥底に封印してきた記憶の扉を開けた。
あの日。家族三人で出かけた帰り道、些細なことで朔太郎と佳奈恵は口論になった。気まずい空気が車内に流れる中、後部座席に座っていた当時十二歳の美月が、二人を仲直りさせようとしたのだ。
「そうだ! お家に帰ったら、私がママに教わったオムライス作ってあげる!」
そう言って笑う娘の顔を見て、二人は我に返った。そして家に帰り、小さな美月が、佳奈恵に手伝ってもらいながら、一生懸命作ったオムライスを三人で囲んだ。少し焦げて、ケチャップの量が多すぎて、不格好なオムライス。でも、それが家族を再び一つにしてくれた。佳奈恵はそれを「世界で一番美味しいオムライス」と呼び、美月を抱きしめた。
問題は、その後に起きた。幸せな気持ちで再び車に乗り、妻の実家へ向かう途中だった。脇道から飛び出してきたトラックを避けようとして、朔太郎はハンドルを切り損ねたのだ。
「つまり…あのオムライスを作ったのは…」
美月の瞳から、大粒の涙がこぼれ落ちた。
「ああ。お前だよ、美月。お前が、俺たちを仲直りさせるために、初めて作ってくれたオムライスだったんだ。事故のショックで、お前はその記憶を失くしてしまったんだ」
朔太郎は告白した。自分だけが軽傷で助かり、妻を死なせてしまった後悔。娘から大切な記憶を奪ってしまった罪悪感。その強烈な感情が、事故をきっかけに発現した能力と結びつき、世界中の料理から「後悔の味」しか感じられなくしてしまったのだと。彼は、娘が作ったオムライスに「違う」と言い続けることで、この残酷な真実から目を背けていたのだった。
第四章 はじまりのオムライス
沈黙が部屋を支配した。美月はただ、ぽろぽろと涙を流し続けていた。やがて彼女は顔を上げ、濡れた瞳で朔太郎を見つめた。
「…作ろう。お父さん」
「え…?」
「思い出させて。私が作った、世界で一番美味しいオムライス。お父さんの記憶の中にある、本当のレシピで」
その言葉は、朔太郎の灰色の世界に差し込んだ、一条の光だった。
二人は並んでキッチンに立った。朔太郎はぎこちない手つきで、美月に指示を出す。玉ねぎはもっと大きく。鶏肉は少し焦げ目がつくくらいに。ケチャップは、ご飯がべちゃっとなるくらい、たっぷりと。それは、料理評論家だった彼からすれば、決して褒められたレシピではなかった。だが、一つ一つの工程が、忘れていた家族の温かい時間を鮮やかに蘇らせていく。
最後に、美月が少し震える手で卵を焼いた。出来上がったのは、やはり不格好で、端が少し破れたオムライスだった。
皿をテーブルに置き、二人は向かい合って座った。朔太郎は、五年間使っていなかった自分のフォークを手に取った。震える指でオムライスを一口、すくい上げる。
今度こそ、どんな苦い後悔の味がするだろうか。娘の失われた記憶の悲しみか、それとも自分自身の拭いきれない罪の味か。彼は目を閉じ、覚悟を決めてそれを口に含んだ。
しかし、朔太郎を襲ったのは、鉄錆の味ではなかった。
広がるのは、少し甘すぎるケチャップの懐かしい味と、香ばしく焦げた卵の風味。そして――。
彼の脳裏に、あたたかい光景が流れ込んできた。それは、小さな娘が誇らしげにオムライスを差し出す姿。そして、それを見て微笑む妻、佳奈恵の顔だった。味覚と共に流れ込んできたのは「後悔」ではなかった。それは、娘の成長を喜ぶ、妻の力強い愛情。そして、時を超えて朔太郎に届けられた、『ありがとう』という感謝の想いだった。
朔太郎は、自分の能力を誤解していたことに、その時初めて気づいた。この舌が味わうのは、「後悔」ではない。作り手の、その瞬間の最も強い「感情」そのものだったのだ。妻を失った悲しみと罪悪感に囚われていた彼自身の心が、世界中の味を「後悔」に染め上げていただけだった。
「……おいしい」
朔太郎の口から、自然と声が漏れた。頬を、温かい涙が伝っていく。
「本当に…? あの時と、同じ味…?」
美月がおずおずと尋ねる。
「ああ。同じだ。世界で一番、美味しい」
朔太郎は、涙で濡れた顔のまま、微笑んだ。美月も、泣きながら笑った。
二人は言葉もなく、不格好なオムライスを分け合って食べた。それは、失われた時間を取り戻し、未来を紡いでいくための、はじまりの味がした。朔太郎の呪われたはずの舌は、今、確かに家族の愛の味を感じていた。窓の外では、西日が部屋を優しく、金色に染め上げていた。