嘘つきのスミレ

嘘つきのスミレ

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***第一章 スミレの香らない人***

水島蓮の世界は、香りでできていた。ただし、それは花や香水といったありふれたものではない。彼が嗅ぎ分けるのは、嘘の香りだ。人が嘘をつく、その瞬間にだけ、どこからともなく微かなスミレの香りが鼻腔をくすぐる。それは祝福であると同時に、呪いでもあった。

幼い頃、サンタクロースはいないのだと告げた両親から甘いスミレの香りがした時、彼は世界の真実と、自身の孤独を同時に知った。以来、友人のお世辞も、恋人の愛の言葉も、全てがスミレの香りに汚染されていった。いつしか蓮は人を信じることをやめ、言葉よりもインクの匂いが誠実な、古書の世界に閉じこもった。神保町の裏路地にひっそりと佇む彼の店「時雨堂」は、そんな蓮にとって唯一の聖域だった。

だから、その日、雨の匂いに混じって店に入ってきた老婦人、桜井聡子と名乗る彼女の存在は、蓮の静かな世界に投じられた小石だった。
「こんにちは。少し、探している本がありまして」
穏やかな声だった。銀色の髪を品良くまとめ、深い皺の刻まれた目元は、まるで古書の頁のように豊かな物語を湛えているように見えた。蓮はいつものように、心の壁を一枚立てて応対する。
「どのようなご本でしょう」
「『海辺の独白』という詩集です。もう五十年も前の、それは小さな出版社から出たもので…」
聡子は、亡くなった夫との思い出を語り始めた。初めてのデートで夫が朗読してくれた詩。結婚記念日にプレゼントされた、その詩集。引越しの際に失くしてしまい、ずっと心残りだったのだという。彼女の言葉は、訥々としていながら、一つ一つに確かな温もりと実感がこもっていた。

蓮は息を詰めて、彼女の言葉に耳を澄ませていた。神経を研ぎ澄まし、いつもの香りが立ち上るのを待った。だが、何も香らない。甘いスミレの微粒子一つ、彼の嗅覚を掠めることはなかった。夫を亡くした悲しみ、彼と共に過ごした日々の愛おしさ。その全てが、一点の曇りもない真実として蓮の心に流れ込んでくる。
嘘をつかない人間。
蓮は三十年の人生で、そんな人間に初めて出会った。あり得ない、と思った。人は息をするように小さな嘘をつく生き物だ。体調が悪くなくても「ちょっと疲れてて」と言い、興味のない話にも「面白いですね」と相槌を打つ。それが社会というものだ。だが、目の前の老婆からは、嘘の香りが一切しない。

「見つかると、いいのですけれど」
聡子は寂しそうに微笑んで、店の古びた椅子に腰掛けた。窓の外では、雨がアスファルトを叩く音が続いていた。蓮は、自分の胸の中で、錆びついていたはずの何かが、ぎしりと音を立てて動き出すのを感じていた。
「…探してみます。必ず」
気づけば、そう口にしていた。その言葉にスミレの香りはしなかった。それは、彼自身の、久しぶりの真実の言葉だった。

***第二章 共有された記憶のひだ***

それから、聡子は週に一度、決まって雨の日に時雨堂を訪れるようになった。彼女は蓮が探してきた古書の山を眺め、そしていつも同じように、夫との思い出を語った。

「主人はね、不器用な人でした。プロポーズの言葉も、散々悩んだ挙句、『僕の味噌汁を、毎日作ってください』なんて、古臭いことを言うんですよ」
そう言って笑う聡子の周りには、澄んだ空気だけが流れていた。蓮は、いつしか彼女の話を聞くのが楽しみになっていた。まるで、自分自身がその幸福な記憶の一部であるかのような錯覚に陥る。聡子の語る夫は、誠実で、少し頑固で、そして深い愛情を持った人物だった。蓮がずっと渇望していた、偽りのない人間関係が、そこにはあった。

蓮は憑かれたように詩集を探し始めた。古書組合の目録を隅から隅まで調べ、地方の同業者に片っ端から電話をかけた。普段は億劫で仕方のない人間との接触も、この時ばかりは苦にならなかった。電話口で相手が些細な嘘をつくたびに漂うスミレの香りに顔をしかめながらも、蓮の心は一つの目標に向かって燃えていた。あの嘘のない物語を、一冊の本という形で完成させたい。聡子の失われた記憶のひだを、この手で繕ってあげたい。それはほとんど祈りに近い感情だった。

ある日、聡子がお茶請けにと持ってきた羊羹を二人で食べながら、蓮はぽつりと自分の秘密を打ち明けてみたくなった。もちろん、香りのことではない。
「僕は…人が少し、苦手で。本を相手にしている方が、気が楽なんです」
「あら、まあ。本は決して嘘をつきませんものね」
聡子はこともなげに言った。蓮はドキリとした。まるで心を見透かされたようだった。
「あなたは、とても誠実な方だから。だから、人の些細な嘘が、きっと針のように心を刺すのでしょう」
聡子の言葉は、温かい湯のように蓮の強張った心を解きほぐしていく。彼女の前では、自分はただの水島蓮でいられた。嘘の香りを嗅ぎ分ける呪われた男ではなく、一人の本好きの青年として。
人を信じることは、こんなにも穏やかで、満たされた気持ちになるものなのか。
蓮は、聡子と出会えたことに感謝した。彼女が存在するという事実だけで、スミレの香りに満ちたこの世界にも、まだ救いはあると思えた。彼の孤独な聖域だった時雨堂は、いつしか聡子と記憶を共有するための、温かな応接間へと姿を変えていた。

***第三章 満開の嘘***

詩集が見つかったのは、初夏の日差しが眩しくなり始めた頃だった。九州の小さな町の、廃業寸前の古書店主から連絡があったのだ。「『海辺の独白』、うちの倉庫の隅に眠っちょったですよ」という掠れた声を聞いた瞬間、蓮は店のカウンターで思わずガッツポーズをした。

すぐに取り寄せ、手垢と染みで古びたその詩集を丁寧に磨き上げた。表紙をめくると、インクのかすれた文字が目に飛び込んでくる。それはまさに、聡子が語っていた詩の一節だった。蓮は逸る心を抑えきれず、聡子の家へと向かった。彼女はきっと、涙を流して喜んでくれるだろう。夫との思い出が、今、この手の中で形を取り戻したのだから。

聡子の家は、都心から少し離れた静かな住宅街にあった。小さな庭には、季節の花が控えめに咲いている。インターホンを鳴らすと、聡子が驚いたような顔で出迎えてくれた。
「まあ、水島さん。どうかなさったの?」
「見つかりましたよ、桜井さん」
蓮は息を切らしながら、布に包んだ詩集を差し出した。聡子は一瞬、目を丸くし、それからゆっくりと震える手でそれを受け取った。彼女は表紙を撫で、頁をめくり、そして、その顔をくしゃくしゃにして泣き始めた。
「ああ…ああ…ありがとうございます。これで、また主人に会える…」
その姿に、蓮の胸は熱くなった。これまでの苦労がすべて報われた気がした。

聡子は蓮を居間に通し、丁寧に淹れた緑茶を差し出した。彼女は詩集を胸に抱きしめ、うっとりとした表情で語り始める。
「この詩集をくれた日、主人はね、照れくさそうに『君は僕の海で、僕は君の岸辺だ』なんて、キザなことを言ったんですよ。真っ赤な顔をして。本当に、可愛い人でした」
その言葉が紡がれた、瞬間だった。

ふわり、と。
今まで嗅いだことのないほど、強く、甘く、そして濃厚なスミレの香りが、蓮の鼻腔を突き刺した。それは一輪の花ではない。まるで、満開のスミレ畑に顔を埋めたかのような、圧倒的な量の香りだった。
蓮は息を呑んだ。全身の血が逆流するような感覚。目の前がぐらりと揺れた。
何だ? 今のは。何かの間違いだ。だって、この人は、嘘をつかない人じゃなかったのか。

「桜井さん…?」
声が震えた。聡子は、蓮の異変に気づいたのか、伏せていた顔を上げた。その瞳は、先程までの喜びとは違う、深い哀しみの色に濡れていた。
「…気づいて、しまいましたか」
聡子は静かに言った。そして、観念したように、すべてを告白した。

「主人なんて、いないのですよ。最初から」

雷に打たれたような衝撃が、蓮を襲った。
「私はね、ずっと一人だったんです。家族も、友人もなく、ただ時間だけが過ぎていく人生でした。そんな時、思ったんです。せめて、物語の中だけでも、誰かに愛され、幸せな人生を送りたかった、と」
彼女の夫は、彼女が創り上げた架空の人物だった。デートも、プロポーズも、記念日も、すべてが彼女の孤独な部屋で生まれた、精巧な創作物だったのだ。詩集は、その物語にリアリティを与えるための、ただの小道具に過ぎなかった。
「あなたの店で、私の話を聞いてくれるあなたの優しい目に、つい甘えてしまいました。私の嘘の物語を、誰かに真実だと信じてほしかった。そうすれば、私の空っぽの人生も、少しは意味を持つような気がして…」
スミレの香りが、部屋中に充満していた。蓮は呼吸ができなかった。信じていた世界が、音を立てて崩れていく。この温かい記憶も、誠実な言葉も、すべてが、すべてが嘘だったというのか。
裏切られた、という思いよりも、なぜ、という問いが心を支配した。なぜ、僕だったんだ。なぜ、僕の唯一の希望を、こんな形で奪うんだ。
蓮は、何も言えずに立ち上がると、聡子の家を逃げるように飛び出した。背後で聞こえた老婆のすすり泣きが、甘いスミレの香りに混じって、いつまでも耳から離れなかった。

***第四章 香りと共に生きる***

時雨堂に戻った蓮は、店の奥でうずくまっていた。スミレの香りの幻影が、鼻の奥にこびりついて取れない。世界はやはり、嘘で塗り固められていた。聡子との出会いで灯った小さな光は、より一層深い絶望の闇を連れてきただけだった。

何日も店を開けず、古書に埋もれて過ごした。だが、インクの匂いはもはや彼を慰めてはくれなかった。本の頁をめくるたびに、聡子の言葉が蘇る。彼女が語った「嘘」の思い出が、皮肉にも蓮の心に深く根を張り、彼自身の記憶の一部のように息づいていたのだ。

その時、蓮はふと気づいた。聡子の嘘は、誰かを騙して利益を得るためのものでも、誰かを傷つけるためのものでもなかった。それは、あまりにも哀しい、たった一人の人間が孤独に耐えかねて紡いだ、自分自身を救うための物語だった。
ひるがえって、自分はどうだ?
嘘が蔓延る世界から逃げるように、古書という壁の内側に閉じこもってきた。人を信じることを最初から放棄し、安全な場所で孤独を甘受していた。聡子が積極的な「創作」で孤独を埋めようとしたのに対し、自分は消極的な「逃避」で孤独と向き合うことから目を背けていただけではないか。形は違えど、根底にあるのは同じ、どうしようもない人間の寂しさだった。

彼女の嘘は、蓮が今まで嗅いできた日常的な嘘とは全く異質のものだった。それは、魂の叫びそのものだったのかもしれない。
蓮は、ゆっくりと立ち上がった。

数日後、蓮は再び聡子の家を訪れた。ドアを開けた聡子は、やつれた顔で彼を見つめ、深々と頭を下げた。
「本当に、申し訳ありませんでした」
部屋には、まだ微かにスミレの香りが残っている気がした。
蓮は、静かに首を横に振った。そして、こう言った。
「桜井さん。よかったら…あなたの旦那さんの話、続きを聞かせてもらえませんか」
聡子は驚いて顔を上げた。その潤んだ瞳に、蓮の姿が映っている。
「でも、あれは全部、嘘なのですよ…?」
「知っています」
蓮は穏やかに微笑んだ。
「嘘だと分かっていても、僕はあなたの物語が好きです。あなたの創り出した旦那さんのことも、好きになりましたから」

スミレの香りがした。それは聡子が「ありがとうございます」と呟いた唇から、ふわりと立ち上ったものだった。感謝の言葉すら、彼女の中では何かの嘘と結びついているのかもしれない。
だが、もう蓮は気にしなかった。
彼の能力が消えることはないだろう。これからも世界は嘘の香りで満ちているはずだ。しかし、彼は知ったのだ。嘘という皮膜の奥に、隠されている真実の心を。その痛みや、切ない願いを。

その日、二人は縁側で並んでお茶を飲んだ。聡子は少し躊躇いながらも、再び夫との「思い出」を語り始めた。蓮は、時折ふわりと香るスミレの匂いごと、その物語に静かに耳を傾けていた。香りはもう、彼を苛む呪いではなかった。それは、不器用で、哀しくて、それでも懸命に生きようとする人間の、愛おしい証のように感じられた。
空には薄雲がかかり、世界は嘘と真実の境界線のように、淡く、美しく色づいていた。

この物語の「別の結末」を、あなたの手で生み出してみませんか?

あなたのアイデアをAIに与えて、この物語の続きや、もしもの展開を創作してみましょう。

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