第一章 澱む色の部屋
水野蓮の目には、世界が時折、余計な色で滲んで見えた。それは病気や幻覚の類ではない。彼にだけ見える、人が死んだ場所に残される「後悔」という名のシミだった。
特殊清掃員である蓮にとって、その能力は仕事道具の一つであり、同時に心を蝕む呪いでもあった。孤独死、自死、事件現場。死の痕跡が濃ければ濃いほど、シミは深く、おぞましい色で床や壁にこびりつく。裏切りの後悔はコールタールのように黒く粘つき、言えなかった言葉の後悔は、はかなく消えそうな薄氷の色をしていた。蓮はそれらを化学薬品と物理的な清掃で取り除くと同時に、誰にも理解されない儀式をもって、その精神的な汚れを「消す」のだった。
その日、彼が訪れたのは、都心から少し離れた古い木造アパートの一室だった。依頼主は遠縁の親族だという。孤独死した老人、相田義一。発見まで二週間。ドアを開けた瞬間、腐敗臭と共に、蓮の網膜に強烈な色が焼き付いた。
しかし、それはいつもの陰惨な色ではなかった。
部屋の奥、窓際の壁一面に、巨大な虹色のシミが広がっていたのだ。それはまるで、印象派の画家が叩きつけるように描いた油絵のようだった。赤、青、黄、緑、紫。無数の色が混ざり合い、渦を巻き、まるで生きているかのようにゆっくりと脈打っている。こんなシミは、見たことがない。
「……なんだ、これは」
蓮は思わず呟いた。通常のシミは、単色か、せいぜい二、三色が濁り合ったものだ。だが、このシミは違う。一つ一つの色が独立した輝きを保ちながら、全体として一つの調和を成している。絶望や憎悪といった負の感情だけではない。そこには、喜びや愛情、懐かしさといった、温かい感情の色までが複雑に絡み合っていた。まるで、一人の人間の生涯そのものが凝縮され、壁に塗り込められてしまったかのようだ。
蓮は防護服に身を包み、黙々と作業を開始した。遺品の整理、汚物の撤去、そして消毒。物理的な汚れが取り除かれていくにつれ、壁の虹色のシミは、その輪郭をより一層鮮明にしていく。蓮はいつも通り、シミを「消す」準備を始めた。そのシミに意識を集中させ、後悔の核心を読み取り、共感することで昇華させる。それが彼のやり方だった。
だが、できなかった。
手を伸ばそうとすると、見えない力に押し返されるような感覚に襲われる。シミの中心を見つめれば、自分の心の奥底にある、決して触れてはならないものが揺さぶられるような、奇妙な親近感と畏怖が同時に湧き上がった。このシミだけは、いつものように処理できない。蓮は、自分の胸の奥にも、誰にも見えない冷たいシミが一つ、こびりついていることを自覚していた。
結局その日、蓮は物理的な清掃を終えるだけで、虹色のシミには指一本触れられずに現場を後にした。彼の背後で、シミは静かに、そして力強く脈打ち続けていた。
第二章 虹色の残像
数日後、蓮の元に一本の電話が入った。相田義一の孫娘だという、相田美咲からだった。祖父の部屋の鍵の返却と、いくつか聞きたいことがあるという。蓮が指定されたカフェに向かうと、窓際の席で小さなノートパソコンを開いた女性が、彼に気づいてそっと頭を下げた。
「水野さん、先日はありがとうございました。おかげさまで、部屋はすっかり綺麗になって……」
美咲は言葉を濁した。彼女の目には、あの虹色のシミは見えていないはずだ。
「祖父のこと、ほとんど知らなかったんです」と彼女は続けた。「両親が早くに離婚して、会ったのは数えるほど。頑固で、気難しくて、いつも一人でいる人……そういう印象しかなくて」
彼女はノートパソコンの画面を蓮に向けた。そこには、古びた日記をスキャンした画像が表示されていた。相田老人のものらしい。
「遺品の中にあったんです。読んでみたら、私の知らない祖父がいました。花が好きで、古い映画が好きで……誰かに宛てて、何度も手紙を書こうとしていたみたいです。結局、一度も出せなかったみたいですけど」
美咲の声は、戸惑いと切なさが入り混じっていた。
蓮は画面に目を落とした。そこに綴られた言葉の数々。その言葉の一つ一つから、淡い光の粒子が立ち上り、彼の目の中で様々な色を結ぶのが見えた。それは、あの部屋の壁にあった虹色のシミの欠片のようだった。
「もし、ご迷惑でなければ……」美咲がおずおずと切り出した。「遺品の整理を、少しだけ手伝っていただけないでしょうか。水野さんのようなプロの方なら、私が見落とした何かを、見つけてくれるかもしれない」
断る理由はなかった。いや、むしろ蓮自身が、あのシミの正体を知りたがっていた。彼は頷き、週末に再びあの部屋を訪れる約束をした。
約束の日、二人は静まり返った相田の部屋にいた。壁のシミは、以前と変わらずそこにあった。美咲はそれに気づくことなく、段ボール箱から遺品を取り出していく。古い写真、読み古された文庫本、使い込まれた万年筆。一つ一つに、老人の生きた証が宿っている。
蓮は、美咲が遺品に触れるたび、壁のシミが微かに色合いを変えるのを見ていた。美咲が幼い頃の写真を見つけて微笑むと、シミの中に温かい橙色が広がる。老人が愛したという映画のパンフレットを手に取ると、銀幕を思わせる白銀の光がきらめいた。
まるで、この部屋そのものが、孫娘の来訪を喜び、祖父の記憶を伝えようとしているかのようだった。蓮は、いつしか清掃員という立場を忘れ、一人の観客としてその光景に見入っていた。
「水野さん、これ……」
美咲が、一冊の日記の最後のページに挟まっていたものを見つけた。それは、封筒に入っていない、一枚の便箋だった。古く、黄ばんだ紙には、震えるような文字で、ある言葉が綴られていた。
第三章 鏡合わせの後悔
便箋に書かれていたのは、謝罪の言葉だった。そして、伝えられなかった感謝の言葉。それは特定の誰かに宛てたものではなく、まるで空に向かって懺悔するような、独白に近い手紙だった。
『あの雨の日、踏切で立ち往生していた若い夫婦を、ただ見ていることしかできなかった私を、お許しください。あなた方が私に道を譲ってくれなければ、死んでいたのは私だったのかもしれない。あなた方の犠牲の上に、私は今日まで生きてしまった。ありがとう、とさえ言えずに。本当に、申し訳ない』
その文章を読んだ瞬間、蓮の頭を、錆びついた鉄槌で殴られたような衝撃が襲った。激しい耳鳴りと目眩。脳裏に、遠い過去の光景がフラッシュバックする。
――雨。けたたましく鳴り響く警報音。車のヘッドライトが乱反射する濡れたアスファルト。傘を差し、こちらに手を振る父と母の笑顔。それが、蓮が両親を見た最後の記憶だった。幼い蓮は、少し離れた歩道橋の上から、その全てを見ていた。両親は、踏切の手前でエンストした車を助けようとして……。
「……っ!」
蓮は息を呑み、壁を見上げた。
今まで虹色に輝いていたシミが、その様相を一変させていた。色は消え失せ、まるで古いモノクロ映画のように、白と黒の光景が壁面に映し出されていた。それは、蓮自身の記憶そのものだった。歩道橋の上から見下ろした、あの絶望的な光景。両親の車。迫りくる電車。そして、その様子を呆然と見つめていた、一人の老人の姿。相田義一だった。
蓮は、その時、全てを悟った。
このシミは、相田老人の後悔などではなかった。
これは、俺の後悔だ。
相田義一の死と、彼が遺した部屋の残留思念が、引き金になったに過ぎない。蓮自身の、心の奥底に封じ込めていた巨大な後悔――両親に最後の「いってらっしゃい」を言えなかった後悔、何もできずにただ見ていた無力感――が、彼の能力を通して、この部屋をスクリーンとして投影されていたのだ。
今まで彼が「消して」きた数々のシミもまた、他人の後悔などではなかった。すべては、蓮自身の心の澱が、他人の死という鏡に映し出された幻影だったのだ。小さな罪悪感、些細な失言、選ばなかった選択肢。それら自分の後悔の欠片を、他人の物語に重ね合わせ、「消した」気になっていただけだった。
壁に映る光景は、蓮の心象風景そのものだった。そうだ、あの時、俺は「いってらっしゃい」と言おうとして、声が出なかった。ただ、呆然と、遠ざかる両親の背中を見ていた。その言葉が、今、灼けつくような痛みとなって胸を抉る。
「水野さん? 顔色が真っ青ですよ、大丈夫ですか?」
美咲の心配そうな声が、遠くで聞こえる。
蓮は、ゆっくりと壁に向き直った。もう、逃げることはできない。これは、彼自身の物語の核心だった。彼は、自分の胸に手を当てた。そこには、すべてのシミの根源である、冷たく、重い、本当の「核」があった。
第四章 夜明けの清掃
蓮が再び目を開けたとき、世界は変わっていた。
いや、世界は何も変わっていない。変わったのは、蓮の目だった。
壁を覆っていた虹色のシミは、跡形もなく消え失せていた。そこにあるのは、経年劣化による黄ばみと、いくつかの小さな傷がついた、ただの壁紙だ。部屋の隅に積まれた段ボールも、窓から差し込む午後の光も、全てが当たり前の、ありのままの姿をしていた。彼の目に、もう「後悔の色」は映らない。
真実を悟り、自身の最も深い後悔と向き合った瞬間、蓮は能力を失ったのだ。
「……いえ、大丈夫です」
蓮は、自分でも驚くほど穏やかな声で言った。彼は美咲に向き直り、震える手で便箋を持つ彼女に、そっと語りかけた。
「お祖父さんは、きっと、誰かを許せなかったんじゃない。誰かに、感謝を伝えたかったんだと思います。そして、自分の人生を、ちゃんと肯定したかったんじゃないでしょうか」
それは、相田老人ではなく、蓮自身に向けた言葉でもあった。
美咲の瞳から、大粒の涙がこぼれ落ちた。彼女は何度も頷き、「ありがとう」と呟いた。祖父へのわだかまりが、雪解け水のように流れていくのが分かった。
後日、蓮は特殊清掃員の仕事を続けていた。
もう、現場にこびりつくおぞましいシミは見えない。しかし、不思議なことに、彼は以前よりもずっと多くのことを感じられるようになっていた。
床の傷一つ、壁の汚れ一つに、そこに生きていた人の息遣いを。残された家具の配置に、その人のささやかなこだわりを。そして、依頼主の言葉の端々に、故人への複雑な愛情を。
能力というフィルターを失ったことで、彼は初めて、ありのままの人間の営みと、その痕跡に触れることができたのだ。
ある日の夜明け前、蓮は一つの現場の清掃を終え、アパートの廊下に出た。東の空が、白み始めている。彼は、おもむろに自分の胸に手を当てた。
かつて、そこにあったはずの、冷たく重いシミの感触はない。
しかし、その代わりに、消えることのない温かい痛みが、心臓の鼓動と共に、確かに脈打っていた。
それは、もう消し去るべき汚れではない。
両親への愛と、伝えられなかった言葉の後悔。その全てを抱きしめ、自分という人間を形作る一部として、これから生きていく。
蓮は、昇り始めた朝日に向かって、深く、静かに息を吸い込んだ。新しい一日が始まる。シミのない世界で、彼は今日、初めて本当の意味での「清掃」を始めるのだ。