アペイロンの砂時計
1 4172 文字 読了目安: 約8分
文字サイズ:
表示モード:

アペイロンの砂時計

第一章 後悔の砂が舞う街

俺、カイには、他人には見えないものが見える。

それは、人々から零れ落ちる砂だ。陽の光に透ける金色の粒子だったり、アスファルトの染みのような鈍い灰色の砂だったりする。人々がふと足を止め、遠い目をする瞬間。取り返しのつかない過去を悔やむ吐息と共に、その砂ははらはらと舞い落ちる。

「失われた時間」。俺はそれをそう呼んでいた。

カフェの窓際で、向かいの席に座る老婦人の足元に、銀色の砂が静かに積もっていくのを眺める。彼女の胸元で鈍く光る「生命時計」の文字盤は、厚い曇りガラスのようにぼやけている。きっと、残り時間を見るのが怖いのだろう。この街の誰もがそうするように、彼女もまた自分の死から目を逸らして生きている。

砂の量が多いほど、その人が抱える後悔や無為に過ごした時間の澱が重いことを意味する。だが、俺は自分自身の足元に砂が積もっているのかどうか、知ることができない。俺の生命時計は、他人のものとは違い、その存在を感じることすらできなかった。まるで、胸にぽっかりと穴が空いているかのように。その空虚さが、俺をいつも一人にした。

街は夕暮れの気怠い空気に満ちていた。家路を急ぐ人々の足元から巻き上がる無数の砂が、まるで目に見えない吹雪のように街を覆っていく。俺はコーヒーカップに残った黒い液体を眺めながら、この世界で自分だけが、人々の心の瘡蓋から流れ落ちる血を見続けているような、どうしようもない孤独を感じていた。

第二章 枯れゆく生命時計

「カイ、この子の元気がないの」

リナが差し出した鉢植えのシクラメンは、力なく項垂れていた。彼女は街角で小さな花屋を営んでいる。太陽のような笑顔と、植物を慈しむ優しい指先を持つ少女だ。彼女の周りにはいつも、花の蜜のような甘い香りと、柔らかな光の砂が舞っていた。叶わなかったピアニストの夢。その小さな後悔が、彼女から零れる砂だった。

しかし、今日の彼女は違った。

顔色は青白く、その足元には見たこともないほど大量の、鉛色の砂がとめどなく流れ落ちている。まるで、彼女の存在そのものが少しずつ崩れ、砂に還っていくかのようだ。

「リナ、君の…時計が…」

俺は言葉を失った。彼女の胸元、セーター越しでも分かるほどに、生命時計の光が弱々しく明滅している。本来、ぼやけているはずの文字盤が、まるでインクが滲んで消えかけていくように、急速に薄れていたのだ。

これが、街を騒がせている「時間枯渇病」。

発症した者は、隠していたはずの「失われた時間」が砂時計となって可視化され、その砂が尽きると同時に命も尽きるという。リナの足元の砂は、彼女が忘れたかったはずの過去――病で亡くした母親との最後の喧嘩、言えなかった「ごめんなさい」の言葉――そのものだった。

「どうしよう、カイ…。時間が、私の中から零れていくのが分かるの…」

震える彼女の声が、冷たい風のように俺の心を撫でた。俺は彼女の手を握ることしかできなかった。触れた指先は氷のように冷たく、まるで生命の熱そのものが奪われているようだった。

第三章 失われた時間の伝承

リナを救いたい。その一心で、俺は街の古文書館に駆け込んだ。埃とインクの匂いが染みついた静寂の中、俺は「時間」に関するあらゆる記録を読み漁った。そこで見つけたのだ。羊皮紙に記された、おとぎ話のような伝承を。

『世界がまだ若かった頃、時間は豊かに満ち溢れていた。しかし、人々の心に生まれた後悔が澱となり、時間の流れを滞らせた。澱は「失われた時間の暴走」を引き起こし、世界を崩壊寸前まで追い込んだ。それを鎮めたのが、時の調停者と『無限砂時計』であった…』

時間枯渇病は、この「失われた時間の暴走」の再来なのではないか。病にかかるのは、リナのように「誰かを傷つけた後悔」という、特定の種類の砂を持つ者ばかりだった。まるで、世界がその種の後悔を浄化しようとしているかのように。

「お前さん、何かを探しておるのかね」

背後からかけられたしゃがれ声に振り向くと、そこに一人の老婆が立っていた。蜘蛛の巣のような皺の奥で、全てを見透かすような瞳が光っている。彼女はエラと名乗り、この書庫の番人だという。

「あんたの周りには、たくさんの砂の匂いがする。他人の後悔を吸い込みすぎた匂いだ」

エラの言葉に、俺は息を呑んだ。彼女には、俺の能力が見えているのか。

「世界が歪んでいるのは、時のバランスが崩れているからさ。そして、その中心にいるのは…」

エラは俺の胸元を指差した。そこにあるはずのない、生命時計のあった場所を。

「あんた自身だよ」

第四章 欠けた時計の真実

「『無限砂時計』は、かつて砕け散った。その最も大きな破片は、ある赤子の胸に宿り、新たな生命時計となったという」

エラは静かに語り続けた。俺は自分の胸に手を当てた。そこはいつも空っぽだった。だが、彼女の言葉を聞いていると、確かにそこにあるはずの「欠けた何か」の輪郭が、疼くように浮かび上がってくる。

「その破片は、周囲の時間を吸い寄せる性質を持つ。特に、澱んだ時間…つまり『失われた時間』をな。あんたは知らず知らずのうちに、人々が捨てた後悔を、その身に集めていたんだよ」

俺が今まで見てきた砂は、人々から零れ落ちたものではなかった。俺自身が、彼らから吸い出した後悔そのものだったのだ。そして、俺の中に溜め込まれた失われた時間が飽和し、時間枯渇病として世界に溢れ出している。

「そんな…俺が、リナを…」

「あんたに罪はない。それはあんたの意志じゃない。ただ、その器がもう限界だというだけのことさ」

エラは古びた木箱から、小さな石を取り出した。それは鈍い光を放つ乳白色の欠片で、俺の胸にある空虚な部分に、ぴたりと嵌りそうな形をしていた。

『無限砂時計の破片』。

「それを、あんたの胸に戻せば、時間の流れは元に戻る。あんたが吸い込んだ全ての時間は、持ち主の元へ、あるいは未来への可能性として世界に還元されるだろう」

エラの目は、悲しいほどに優しかった。

「だが、それはあんたという『器』の終わりを意味する。あんた自身の時間は、その瞬間に尽き果てる」

第五章 時間喰らいの告白

街は恐慌に陥っていた。至る所で人々が砂となって崩れ落ち、その悲鳴が風に乗って響き渡る。俺が吸い込み続けた後悔が、今や世界そのものを喰らい尽くそうとしていた。

リナの病室へ向かうと、彼女はベッドの上でかろうじて人の形を保っているだけだった。その瞳から光は消え、ただ静かに砂を流し続けている。彼女の足元に積もった砂の山に触れると、冷たい後悔の記憶が流れ込んできた。

『お母さん、ごめんなさい…』

その声は、リナのものであり、俺が今まで吸収してきた幾千もの人々の声でもあった。俺は、自分がどれほど多くの悲しみをその身に溜め込んできたのかを、今更ながらに思い知った。俺は善意のつもりでいた。彼らの苦しみを少しでも和らげられればと。だが、結果として俺は、世界から時間を奪うだけの、ただの『時間喰らい』だったのだ。

俺はリナの冷たい手を握り、静かに告白した。

「ごめんな、リナ」

「全部、俺のせいなんだ」

「でも、必ず元に戻すから」

彼女に聞こえているかは分からなかった。だが、そう誓わずにはいられなかった。俺はポケットの中の、ひんやりとした破片を強く握りしめた。

第六章 無限を還す選択

街で最も高い、古い時計塔の頂上に俺は立っていた。眼下には、砂塵に覆われ、静まり返った街が広がっている。風が頬を打ち、まるで世界の最後の吐息のように聞こえた。

これが俺のすべきことだ。

俺が始めた物語ならば、俺が終わらせなければならない。

胸のシャツを破り、心臓の真上にある空虚な窪みを露わにする。そこに、エラから受け取った『無限砂時計の破片』を押し当てた。

パズルの最後のピースが嵌まるように、破片は吸い込まれるように俺の身体と一体化した。

その瞬間――。

凄まじい光が、俺の全身から迸った。内側から世界が爆ぜるような衝撃。俺の中に蓄積されていた、計り知れないほどの『失われた時間』が、奔流となって解き放たれていく。

人々の後悔、悲しみ、叶わなかった夢。それら全てが、もはや澱んだ砂ではなく、無数の色を持つ光の粒子となって空へと昇っていく。灰色の砂は銀の光に、鉛色の砂は希望を示す緑の光に、淡い青色の砂は未来を描く金の光に変わっていく。

身体が内側から燃え尽きていく感覚。俺という存在が、時間そのものの中に溶けていく。意識が薄れゆく中、俺は最後にリナの笑顔を思い浮かべた。

ああ、これでいい。

これで、誰もが自分の時間と、もう一度向き合える。

第七章 希望の種が芽吹くとき

世界に、色とりどりの光の雨が降った。

時間枯渇病に苦しんでいた人々の生命時計は、その光を浴びて輝きを取り戻した。厚く曇っていた文字盤は澄み渡り、彼らは初めて、自分の残り時間を、そして失われた過去を、ありのままに受け入れた。砂となって崩れかけていた人々は元の姿に戻り、呆然と空を見上げていた。

カイという青年がいたことを、誰も覚えてはいなかった。

数年後。街角の花屋は、以前にも増して多くの客で賑わっていた。店主のリナが育てた新種の花が、街の名物になっていたからだ。それは、あの光の雨が降った夜、地面に落ちた光の粒から芽吹いた、不思議な花だった。七色に輝く花弁は、まるで小さな希望そのもののようだった。

リナは時々、空を見上げる。理由もなく胸が締め付けられ、温かいような、切ないような、不思議な気持ちになることがあった。誰か大切な人を忘れてしまったような、そんな感覚。

彼女は微笑むと、一輪の花を手に取った。

「さあ、今日も頑張ろう。私の時間を使って」

その声は、活気を取り戻した街の喧騒に溶けていった。世界には、一人の青年が命と引き換えに残した、無数の『希望の種』が、今も確かに息づいている。


TOPへ戻る