忘却の重力と未来の軽さ
第一章 鉛色の空気
俺、水無月レンの日常は、常に重力との戦いだ。それは物理法則が歪んでいるという意味ではない。俺だけが感じる、特殊な重力。他人が忘れ去った感情が、俺の周囲の空間を鉛のように満たし、その質量で俺の身体を地面に縛り付けるのだ。
古書店『時雨堂』の店主である俺の仕事場は、忘却の吹き溜まりだった。忘れられた恋文、持ち主を失った日記、誰も読まなくなった物語。それらが発する微かな重みが、一日中、肩にのしかかる。
だが、この数ヶ月、街全体の空気が異常だった。まるで深海にいるかのような圧力が、都市全体を覆っている。一歩踏み出すごとに、粘つく空気が足に絡みつく。人々は気づいていない。自分たちの忘却が、世界をどれほど重くしているのか。
街のシンボルである時計塔が、陽炎のように揺らめき始めている。その巨大な石造りの輪郭が、日に日に半透明になっていく様は、悪夢の光景だった。人々が、その塔が刻んできた歴史を、その存在意義を、急速に忘れ始めている証拠だ。
店に戻り、カウンターの隅に置かれた小さなオブジェを手に取る。割れた砂時計の欠片。祖父の形見だ。中には普通の砂ではなく、消滅した記憶の残滓だという、燐光を放つ微細な粒子が満たされている。その砂が、明らかに減っていた。祖父は言っていた。「この砂が尽きる時、世界は完全な無記憶に沈む」と。
胸ポケットにそれをしまい、俺は窓の外に広がる、重く淀んだ灰色の空を見上げた。呼吸さえも億劫になるほどの圧迫感の中で、ただ耐えることしかできなかった。
第二章 半透明の追憶
何かがおかしい。忘却の速度が尋常ではない。俺は店を閉め、消えゆく街の調査を始めた。市立図書館の古文書室は、忘却の重力が渦巻く特異点と化していた。棚に並ぶ郷土史の数々が、まるで水彩画のように滲み、ページをめくろうと指で触れると、湿った空気のように実体がない。
そこにあるのは、かつてこの街で起きた大きな紛争の記録だった。二つの地区が互いを憎しみ、傷つけ合った悲しい歴史。その憎悪の記憶が、今まさに人々から抜け落ち、物理的な記録媒体もろとも消滅しようとしているのだ。
博物館も同様だった。紛争時代に使われた品々を展示した一角だけが、まるで空間ごと切り取られたかのように希薄になっていた。ガラスケースの向こうで、古い旗が霧のように薄れていく。
「…あなたにも、この重さが分かるのですか」
背後からかけられた声は、驚くほど軽やかだった。振り返ると、白いワンピースを着た女性が立っていた。彼女の周囲だけ、空気が澄んでいる。忘却の重力が存在しない、真空地帯のようだ。その不自然な軽さに、俺はむしろ警戒を覚えた。
「君は…誰だ?」
「アリア、とだけ。あなた、水無月レンさんですね。その能力、厄介でしょう」
彼女はこともなげに言った。俺の秘密を知っている。そして、彼女自身からは、忘れるべき過去も、忘れられた感情も、何一つ感じられなかった。彼女は、まるで生まれたての赤子のように、記憶の重さを持っていなかった。
第三章 未来からの来訪者
アリアは再び俺の前に現れた。『時雨堂』のドアベルを鳴らすことなく、いつの間にか店の中にいた。彼女の存在は、この重苦しい空間の中で、奇妙な浮力を持っていた。
「単刀直入に言います。この世界の忘却を加速させているのは、私たちです」
彼女の瞳は、凪いだ湖面のように静かだった。俺は言葉を失い、ただ彼女を見つめ返す。
「私たちは未来から来ました。記憶の調律師、とでも呼びましょうか」
「調律師だと?ふざけるな。人々から記憶を奪っているだけじゃないか。歴史を消し去る権利が、君たちにあるとでも言うのか!」
「権利ではありません。責任です」
アリアの言葉は鋭く、俺の怒りを貫いた。彼女は続けた。
「あなたたちが忘れつつある、あの紛争の歴史。憎しみの記憶。それが、私たちの時代で、世界を破滅させる最終戦争の火種となるのです。私たちは、その原因を過去に遡って摘み取っているに過ぎません」
未来を救うため。その目的は、あまりにも壮大で、そしてあまりにも独善的に聞こえた。
「だからって、人の心を勝手に消していいわけがない!」
「では、何もしなければいいと?破滅すると分かっている未来を、ただ座して待てと?」
彼女の問いに、俺は答えられなかった。忘れ去られた感情の重みを知るからこそ、記憶が持つ力の大きさも理解していた。だが、それを人為的に消し去るなど、断じて許されるべきではない。俺は強く拳を握りしめた。
第四章 忘れられた約束
「あなたには、知る義務がある」
アリアが俺の額にそっと指を触れた瞬間、世界が反転した。轟音と閃光。焼け付くような匂い。俺の脳裏に、断片的な映像が濁流のように流れ込んでくる。それは、アリアたちが生きていた未来の光景だった。
荒廃した大地。赤黒く染まった空。そして、終わることのない戦争。その憎悪の源流を辿っていくと、見覚えのある街並みが現れた。俺たちが忘れかけている、あの紛争。あの憎しみの連鎖が、数百年という時を経て、世界を喰らい尽くすほどの災厄へと成長していたのだ。
そして、ビジョンの最後に映し出されたのは、俺の、個人的な記憶だった。
――妹のミオだ。
幼いミオが、紛争に巻き込まれて命を落とした、あの忌まわしい一日。暴徒と化した人々の怒号。崩れ落ちる建物の下敷きになった、小さな身体。俺が抱きしめたミオは、もう温かくなかった。
「あなたの妹さんの死。その悲劇を引き起こした憎しみこそが、未来を破滅させる最も強力な『錨』なのです」
アリアの冷徹な声が、俺を現実へと引き戻した。愕然とした。俺が、ミオを決して忘れまいと、あの日の怒りと悲しみを抱きしめて生きてきたことが、未来を破滅に導いていたというのか。
震える足で、ミオとよく遊んだ公園へ向かった。いつも二人で座ったベンチが、半分透けて消えかかっている。俺の記憶もまた、彼らの消去対象だった。ミオとの約束。「ずっと一緒だよ」という、あの日の言葉も、世界から消え去ろうとしていた。
第五章 決断の重さ
俺は、選択を迫られていた。ミオの記憶を守るか、未来を救うか。
妹のいない世界など、俺にとっては意味がない。彼女の笑顔、声、手の温もり、それら全てが俺という人間を形成している。それを失うことは、魂を半分引き剥がされるのに等しい。だが、その記憶が、無数の人々を死に追いやるというのなら…?
数日間、俺は店に閉じこもり、鉛のような空気の中で考え続けた。忘却の重みに押し潰されそうになりながら、何度もミオの顔を思い浮かべた。優しい妹なら、きっとこう言うだろう。「お兄ちゃん、みんなを助けてあげて」と。
アリアが、最後通告のように『時雨堂』に現れた。
「決断の時です、レン。あなたのその強固な記憶が、私たちの計画の最後の障壁となっています。あなたの憎しみが、未来の戦争の『原典』として残り続けている」
俺は静かに頷き、胸ポケットから砂時計の欠片を取り出した。キラキラと輝く記憶の残滓。忘れないための、最後の砦。
「…わかった」
俺はそれを強く握りしめた。ミオを忘れないために持っていたこの欠片を、今、ミオを忘れるために使う。
「俺が、俺自身の記憶を、この手で終わらせる」
それは、俺が生涯で背負う最も重い決断だった。だが、不思議と心は凪いでいた。これは喪失ではない。未来への、贈り物なのだ。
第六章 軽やかな未来へ
アリアの助けを借り、俺は自らの意識の最も深い場所へと潜っていった。そこには、血のように鮮やかな記憶として、ミオが生きていた。
「ミオ…ごめんな」
俺は彼女の記憶に向かって語りかけた。忘れるよ。君のことも、あの日の怒りも、悲しみも、全部。でも、君を愛していたことだけは、この魂の芯に刻んでおくから。
俺が「忘却」を受け入れた瞬間、堰を切ったように記憶が流れ出し始めた。ミオの笑い声が遠ざかり、温もりが薄れ、輪郭が滲んでいく。俺の身体を何十年も縛り付けてきた、あの鉛のような重さが、ふわりと霧散していくのを感じた。涙が頬を伝ったが、それが悲しみの涙なのか、それとも解放の涙なのか、もう分からなかった。
世界を覆っていた忘却の重力場が、急速にその力を失っていく。街を圧迫していた重苦しい空気が、春のそよ風のように軽やかになっていく。
「…ありがとう、レン」
アリアの声が聞こえた。彼女の姿は、いつの間にか陽炎のように揺らめいていた。役目を終え、未来へ帰るのだろう。彼女の表情には、初めて微かな笑みが浮かんでいた。
気がつくと、俺は『時雨堂』の床に座り込んでいた。窓から差し込む光は、以前よりもずっと明るく、優しい。手に握りしめた砂時計の欠片を見ると、減り続けていた砂が、その動きを止めている。それどころか、まるで呼吸するように、淡い光を取り戻しているかのようだった。
俺は立ち上がり、窓を開けた。流れ込んできた風は、信じられないほど軽い。空を見上げる。半透明だった時計塔の輪郭が、心なしか以前よりはっきりと見える気がした。
俺は、最も大切なものを失った。心には巨大な空洞が広がっている。
だが同時に、世界を、そして俺自身を、重すぎる過去から解放したのだ。
この途方もない喪失感と、奇妙なほどの浮遊感の中で、俺は新しい未来を見据える。忘却の先にある、まだ誰も知らない、軽やかな世界を。