第一章 鉛を背負う少女
古びた本の匂いと、微かなインクの香り。それが水野蒼(みずのあお)の世界のすべてだった。街の片隅でひっそりと営む古書店『時雨堂』の店主である彼は、人との深い関わりを避けるように生きてきた。それは、彼が生まれつき持つ、奇妙な体質のせいだった。
蒼には、他人の強い感情、とりわけ悲しみや後悔、罪悪感が、物理的な「重さ」として感じられた。満員電車で感じる、名も知らぬ人々の憂鬱は肩にずしりとのしかかり、友人の失恋話を聞けば、数日間、背中に鉄板を背負っているような疲労感に苛まれる。だから蒼は、静寂と紙の壁に守られたこの場所を、自身の聖域としていた。
その均衡が崩れたのは、六月の雨が降り続く、ある日の午後だった。
ドアベルが、ちりん、と湿った音を立てた。入り口に立っていたのは、小さな傘を握りしめた、十歳くらいの少女だった。濡れた前髪が額に張り付き、大きな瞳だけが、不安げに店内をさまよっている。
その瞬間、蒼は息を呑んだ。
ずぅん、と地響きのような圧力が、蒼の全身を襲ったのだ。まるで深海に引きずり込まれるような、圧倒的な重力。それは、これまで彼が経験したことのない、尋常ではない「重さ」だった。立っているのがやっとで、本棚に手をつかなければ、その場に崩れ落ちてしまいそうだった。
少女は、蒼の異変に気づく様子もなく、ゆっくりと店内を進んだ。そして、児童書のコーナーで足を止め、一冊の絵本をじっと見つめている。その背中はあまりに小さく、か細い。だが、蒼には見えていた。その小さな肩に、まるで巨大な鉛の塊がのしかかっているかのような、歪んだ空気の揺らめきが。
「……何か、お探しですか」
声を絞り出すと、自分の声がひどく震えていることに気づいた。
少女はゆっくりと振り返った。その瞳は、底なしの沼のように静かで、何も映していなかった。彼女は何も答えず、ただ首を横に振ると、再び絵本に視線を戻した。
その日から、少女――陽菜(ひな)と名乗った――は、雨の日になると決まって時雨堂に現れるようになった。彼女はいつも同じ絵本を手に取り、ただ黙ってそのページをめくるだけ。そして、何も買わずに帰っていく。
彼女が店にいる間、蒼は常に耐え難い重圧に苦しめられた。まるで自分の体が自分のものではないかのように、手足が鉛のように重くなる。だが、不思議と、彼は陽菜を追い出すことができなかった。あの小さな背中が背負う途方もない重さの正体を、知らなければならないという、奇妙な使命感に駆られていた。
第二章 共鳴する痛み
陽菜が店に通い始めて一ヶ月が経った頃には、蒼の日常は完全に蝕まれていた。朝、ベッドから起き上がるのが苦痛だった。珈琲カップを持つ手が震え、本のページをめくる指先さえも重く感じる。まるで、陽菜が置いていく「重さ」が、店内の空気に溶け出し、彼の体に少しずつ蓄積されていくようだった。
ある日、蒼は意を決して陽菜に話しかけた。
「その絵本、好きなんだね。『星守りの木』だ。僕も子供の頃、よく読んだ」
陽菜は、ぴくりと肩を揺らした。初めて見せる、明確な反応だった。
「……お母さんが、読んでくれた」
ぽつりと、蚊の鳴くような声で彼女は言った。
「そうか。素敵なお母さんだね」
その言葉が引き金だった。陽菜の大きな瞳から、堰を切ったように涙が溢れ出した。ひっ、ひっとしゃくりあげる彼女の体から、これまで以上の、絶望的なまでの「重さ」が津波のように押し寄せる。蒼はカウンターに両手をつき、荒い息を繰り返した。
「私が……私が、悪い子だったから……お母さん、いなくなっちゃったんだ」
嗚咽に混じって紡がれる言葉は、蒼の胸を鋭く抉った。
近所の人々の噂話で、蒼は陽菜の事情を断片的に知っていた。数ヶ月前、母親が交通事故で亡くなったこと。それ以来、陽菜は心を閉ざし、ほとんど口を利かなくなったこと。
「君のせいじゃない」
そう言ってやりたかった。だが、言葉が喉に詰まって出てこない。彼女の罪悪感は、純粋で、あまりに重すぎた。それは単なる悲しみではない。自分自身を罰し続ける、終わりのない苦行の重さだった。
その日、陽菜が帰った後、蒼は店の床に倒れ込んだ。体中の骨が軋むような感覚。陽菜の重さを、また少し、自分の肩に引き受けてしまったのだ。
どうして、こんなことをしているのだろう。自分の身が危ういとわかっているのに、なぜ彼女を突き放せないのか。
答えはわかっていた。陽菜の瞳の奥に揺らめく孤独が、まるで鏡のように、自分自身の心の奥底を映し出している気がしたからだ。逃げることは、過去の自分から目を背けることと同じだった。
第三章 置き去りの記憶
夏の盛り、蝉時雨が容赦なく降り注ぐ日だった。陽菜が店に入ってきた瞬間、蒼の視界はぐらりと揺れた。もはや立っていることはできず、彼はその場に膝から崩れ落ちた。
「おじさん……?」
陽菜の不安げな声が遠くで聞こえる。彼女から発せられる「重さ」が、とどめを刺すように蒼の意識を暗闇へと引きずり込んでいった。
――薄れゆく意識の中で、蒼は夢を見ていた。
それは、彼がとうの昔に記憶の底に封じ込めたはずの、置き去りの光景だった。
雨の日の交差点。幼い自分が、ショーウィンドウに飾られた赤いミニカーに気を取られている。
「蒼、危ないから手をつないで」
優しい母の声。
「やだ!あれ買って!」
駄々をこねて、振り払った母の手。
その直後、けたたましいブレーキ音と、悲鳴が響き渡った。振り向いた先には、信じられない光景が広がっていた。僕を庇うように倒れた父と、その腕の中で動かなくなった母。
僕が、わがままを言わなければ。
僕が、あの時、手を離さなければ。
幼い心に刻まれた罪悪感は、巨大な鉛の塊となって、蒼の心にのしかかった。誰にも言えない、誰にもわかってもらえない、たった一人の秘密の重荷。
そこで、蒼は思い出した。この奇妙な能力は、いつから始まったのか。それは、両親を失ったあの日からだ。彼は、自分の罪悪感という「重さ」を、物理的な重圧としてその身に感じ始めたのだ。
そして、彼は悟った。彼の能力の、本当の意味を。
それは、単に他人の心の重さを『感じる』だけのものではなかった。それは、誰かが手放せずにいる心の重荷を、物理的に『肩代わり』し、時間をかけて自分の中で消滅させるための、あまりにも慈悲深く、そして過酷な能力だったのだ。これまで彼が感じてきた体の重さは、時雨堂を訪れる客たちの小さな悲しみや後悔の断片だった。それらを無意識に引き受け、浄化してきたのだ。
陽菜の重さが、これほどまでに堪えた理由も、今ならわかる。彼女の罪悪感は、蒼が心の奥底に封じ込めていた、幼い日の自分自身の罪悪感と、激しく共鳴していたのだ。陽菜の重さだけではない。彼が今感じているこの耐え難い重圧は、陽菜の重さと、二十年以上も置き去りにしてきた自分自身の重さが、一つになったものだった。
彼は陽菜の中に、救いを求めるかつての自分を見ていた。そして、無意識に彼女を救おうとすることで、自分自身をも救おうとしていたのだ。
第四章 二人分の夜明け
意識が浮上すると、見慣れた店の天井が見えた。ソファに寝かされ、額には冷たいタオルが乗っている。そばには、心配そうにこちらを覗き込む陽菜と、彼女の祖母らしき老婆がいた。
「気がついたかい、兄さん。この子が、あんたが倒れたって、血相を変えて知らせに来てくれたんだよ」
蒼はゆっくりと体を起こした。まだ体は鉛のように重いが、意識ははっきりしている。彼は陽菜に視線を向けた。少女は、俯いて自分の指先をいじっている。
「陽菜ちゃん」
蒼は、できるだけ優しい声で呼びかけた。
「少し、二人だけで話せるかな」
祖母が気を利かせて店の外に出ると、店内に再び静寂が戻った。だが、それは以前のような冷たい静寂ではなかった。
「ごめんなさい……私のせいで……」
陽菜が、か細い声で謝った。
蒼は首を横に振ると、ソファから降り、彼女の前にそっと膝をついた。
「違うよ。君のせいじゃない。……僕もね、昔、同じことを思ったんだ」
蒼は、初めて誰かに、自分の過去を語った。雨の日の交差点のこと、両親のこと、そして、ずっと一人で抱え込んできた罪悪感という「重さ」のことを。
陽菜は、驚いたように顔を上げた。その大きな瞳が、初めて蒼の心をまっすぐに見つめていた。
「僕たちは、自分のせいだと思ってしまう。だって、そうでもしないと、どうして大切な人がいなくなってしまったのか、わからなくなるから。でもね、陽菜ちゃん。その重さは、僕たちが悪い子だったっていう罰じゃない。僕たちが、お母さんや、僕の両親を、どれだけ大切に想っていたかっていう、証拠なんだ」
蒼は震える手を伸ばし、そっと陽菜の小さな肩に触れた。
「だから、一人で全部背負わなくていいんだ。少し、僕にわけてくれないか」
蒼が陽菜をそっと抱きしめた瞬間、不思議なことが起こった。
ふっ、と。
まるで、ずっと肩に食い込んでいた見えない枷が外れたかのように、二人の体を縛り付けていた鉛のような重圧が、霧が晴れるように軽くなったのだ。
完全に消え去ったわけではない。確かな重みはまだそこにある。だが、それはもはや二人を苛む苦痛ではなかった。それは、愛した記憶の温かさと、分かち合った絆の重みだった。
陽菜の背中から、嗚咽が伝わってくる。それはもう、自分を責めるための涙ではなかった。
数年後。時雨堂の店内には、蒼と、高校の制服を着た陽菜の明るい笑い声が響いていた。陽菜は時々、アルバイトとして店を手伝っている。
蒼の体は、今でも時折、ふっと重くなることがある。恋に悩む学生や、人生に疲れたサラリーマンが置いていく、ささやかな心の澱。しかし、その重さはもはや彼を苦しめるものではなかった。それは、誰かの人生に寄り添い、痛みを分かち合っているという、温かく、そして確かな実感となっていた。
心の重さとは、呪いではない。それはきっと、誰かと分かち合うために存在する、愛の名残なのだ。蒼は、書棚を整理する陽菜の朗らかな横顔を見つめながら、降り注ぐ午後の光の中で、静かにそう思った。