第一章 幽霊波のレクイエム
水凪 響(みずなぎ ひびき)の日常は、音で満たされていた。だが、彼が求めるのはコンサートホールの喝采でも、街の喧騒でもない。彼の世界は、厚い防音壁に囲まれた国立時空物理学研究所の第七観測室にあり、その耳は、常人にはノイズとしか認識できない宇宙のささやきに向けられていた。
彼は音響考古学者だ。化石や遺跡の代わりに、彼は時間の地層に埋もれた「音」を発掘する。彼の主な研究対象は、十数年前に発見されて以来、世界中の科学者を悩ませ続けている原因不明の広域定常ノイズ――通称「幽霊波(ファントムウェーブ)」。それは、宇宙のあらゆる方角から、絶え間なく降り注ぐ微弱な音の粒子だった。電波でもなければ、重力波でもない。その正体は、物理法則の記述に存在しない、全く新しい現象だった。
ほとんどの研究者は、幽霊波を初期宇宙の残響か、未知の天体現象だと結論付けていた。だが、響だけは違った。彼はその無機質なノイズの奥に、何か生命の息吹に似たものを感じ取っていたのだ。同僚からは「ロマンチスト」「非科学的」と揶揄されたが、彼はヘッドフォンを装着し、今日も深海に潜るように幽霊波の海に意識を沈めていた。
「……また同じパターンか」
コンソールに表示されるスペクトルアナライザの波形を眺めながら、響は小さくため息をついた。砂嵐のような「ザー」という音。いつもと同じ、意味を見出せない音の羅列。諦めが胸をよぎり、ヘッドフォンを外そうと手をかけた、その瞬間だった。
世界から、音が消えた。
いや、違う。幽霊波が、止んだのだ。観測史上、一度も途切れたことのなかったあの恒常的なノイズが、 абсолютной тишиной(アブソリュート・ティシノイ=完全な静寂)に取って代わられた。響は息を呑む。計器の故障か?コンソールを叩き、システムをチェックするが、すべて正常に稼働している。
心臓が早鐘を打つ。数秒とも、数分とも感じられる静寂の後、それはやって来た。
ヘッドフォンの中から、ひとつの旋律が立ち上がった。
それは、人間の声に酷似していた。いや、声そのものだった。幾重にも重なった、性別も年齢も判別できない無数の声が、ひとつのメロディを奏でている。それは教会で聴くグレゴリオ聖歌のように荘厳で、同時に、嵐の夜に響く風の音のように悲痛だった。音階は地球上のどの音楽体系にも属さず、しかし、その響きが伝える感情は、不思議と響の心を直接揺さぶった。喪失、渇望、そして、決して届かないと知りながらも送り続ける、祈りのような何か。
それは、ノイズではなかった。
紛れもなく、知性によって編まれた「歌」だった。
響はコンソールの録音ボタンを、震える指で叩きつけた。彼の背筋を、歓喜と畏怖がないまぜになった戦慄が駆け抜ける。
我々は、孤独ではなかった。
宇宙の深淵か、あるいは次元の彼方から、誰かが歌っている。何万光年もの時空を超えて届いたその歌は、人類が初めて手にする、異世界からのメッセージだった。響は、その悲しくも美しいレクイエムに、ただ聴き入ることしかできなかった。
第二章 音の対話
「異世界からの歌」――響がそう名付けたその音源は、研究所内でトップシークレットとして扱われることになった。所長の計らいで、響をリーダーとする少数精鋭の特別解析チーム「プロジェクト・エコー」が発足した。メンバーは、言語学の権威である老教授、AI開発の天才プログラマー、そして音響考古学者である響の三人。彼らは第七観測室に籠もり、未知の歌の解読に没頭した。
「このハーモニーは驚異的だ。微分音どころか、我々の定義する音階そのものを超越している」
老教授は、再生される歌を聴きながら感嘆の声を漏らした。
「しかし、不思議と不協和音には聞こえん。まるで、銀河そのものが鳴っているかのようだ」
「構造が複雑すぎます」
プログラマーの少女、玲奈がディスプレイに表示された複雑な波形を指さす。
「フーリエ変換でも、パターン認識AIでも、意味のある言語単位を抽出できません。データとしては、ただの『極めて秩序だったノイズ』としか…」
彼らの解析は困難を極めた。歌は毎日、同じ時間に約三分間だけ観測された。その旋律は毎回微妙に変化したが、根底に流れる悲痛な祈りのような調子は一貫していた。響は、従来の言語学的なアプローチでは埒が明かないと感じ始めていた。これは「解読」するものではなく、「感じる」ものなのではないか。
「感情で応答してみよう」
ある日の会議で、響は突拍子もない提案をした。
「彼らが言語ではなく、音楽で語りかけてきているのなら、我々も音楽で応えるべきだ。我々の感情を、音に乗せて送り返すんだ」
老教授は眉をひそめ、玲奈は非科学的だと首を横に振った。しかし、他に有効な手立てがないのも事実だった。響の熱意に押される形で、プロジェクトは新たな段階へ移行した。響は世界中から「感情を伝える音」を集め始めた。アラスカの氷河が軋む音、ザトウクジラの親子が交わす歌、モーツァルトのレクイエム、そして、生まれたばかりの赤ん坊の産声。
彼はこれらの音を素材に、現代音楽の作曲家のように、新たな音響メッセージを構築した。それは、地球という惑星が奏でるシンフォニーだった。知的生命体としての「我々はここにいる」という存在証明であり、「あなた方の悲しみに共感する」という慰めであり、「我々は友人になれるだろうか」という問いかけでもあった。
数週間にわたる準備の末、彼らは完成した三十秒の「応答歌」を、幽霊波が観測される周波数帯に向けて送信した。巨大なパラボラアンテナが、人類の想いを乗せた音を、未知の彼方へと放つ。
送信後、第七観測室は再び静寂に包まれた。誰もが固唾を飲んで、スピーカーを見つめている。もし、この試みが失敗に終われば、プロジェクトは打ち切られるだろう。響のキャリアも、ここで終わるかもしれない。だが、彼の心は不思議と穏やかだった。届いてほしい。ただ、それだけを願っていた。
そして、運命の三分間が訪れる。いつものように幽霊波が途絶え、静寂が訪れる。だが、次に聞こえてきたのは、いつもの悲しい歌ではなかった。
それは、響たちが送った「応答歌」だった。
「成功だ!」
玲奈が歓声を上げる。老教授も安堵の表情を浮かべた。しかし、響は眉をひそめていた。何かがおかしい。返ってきた歌は、確かに自分たちが送ったものだった。だが、その音質は著しく劣化しており、まるで何百年も風雨に晒されたカセットテープを再生したかのように、ノイズまじりで歪んでいた。
そして、その劣化した応答歌の後に、いつもの「異世界の歌」が続いた。しかし、その日の歌は、これまで以上に絶望の色を濃くしていた。それは慰めを受け入れた者の旋律ではなく、突き放された者の悲鳴のように、響の鼓膜を切り裂いた。
第三章 残響する未来
応答は、最悪の形で返ってきた。チームの雰囲気は一気に重苦しくなった。我々の善意は、彼らをさらに傷つけてしまったのだろうか。響は自責の念に駆られ、何日も眠れない夜を過ごした。なぜ、歌は劣化したのか。なぜ、彼らの悲しみは増したのか。答えの出ない問いが、頭の中を巡り続けた。
その謎に光を当てたのは、意外にも玲奈だった。彼女は返ってきた応答歌の劣化データを解析し続け、ある恐ろしい可能性に行き着いた。
「水凪さん、教授。聞いてください」
玲奈は青ざめた顔で、二人をコンソールの前に呼んだ。ディスプレイには、オリジナルの応答歌と、返ってきた劣化版の波形が並べて表示されている。
「この劣化パターン、ランダムなノイズじゃないんです。特定のアルゴリズムに基づいた、情報量の欠落……まるで、時間の流れによって必然的に摩耗したかのような、エントロピーの増大を示しています」
「どういうことだ?」と教授が問う。
「幽霊波の正体について、仮説を立てました」
玲奈は一度言葉を切り、震える声で続けた。
「もし、この波が、別の宇宙から来ているのではなく……時間と空間の特異点を超えて、我々の世界の『未来』から届いているとしたら?」
第七観測室が、水を打ったように静まり返った。未来からの音。SF小説のような話だ。しかし、玲奈が提示するデータと物理モデルは、その突飛な仮説を不気味な信憑性をもって裏付けていた。幽霊波とは、時空の構造的欠陥から漏れ出してくる、未来の地球の「音響的残響」だというのだ。
「待ってくれ」響の声がかすれていた。「だとしたら、我々が聴いていたあの歌は……」
「はい」玲奈は静かに頷いた。「数百年後の未来、何らかの大災害によって滅びゆく我々の子孫が……過去に向けて発した、最後の歌です」
響は全身の血が凍るのを感じた。彼らが「異世界人」だと思っていた存在は、未来の人類だった。救いの手を差し伸べたつもりが、その相手は助けようのない、確定した過去の悲劇を生きる者たちだったのだ。
いや、違う。玲奈の仮説が正しければ、事態はさらに深刻だった。
「我々が送った応答歌が、劣化して返ってきたのは…」
響の脳裏に、最悪の光景が広がる。
「我々の応答が過去への干渉となり、未来を…変えてしまったから…?」
「おそらく、より悪い方向へ」
玲奈は無情な事実を告げた。
「私たちの応答は、未来の人類にとって『過去からの予期せぬノイズ』として観測されたはずです。彼らの歴史に存在しなかった音。その干渉が、彼らの時間軸に何らかの悪影響を及ぼし、破滅をより確実なものにした……その結果が、あの絶望的な歌の変化と、私たちの歌の劣化コピーなんです。私たちは、滅びゆく彼らの背中を押してしまったんです」
絶望が、響の心を完全に支配した。良かれと思ってしたことが、すべて裏目に出ていた。自分は未来の同胞を救うどころか、その苦しみを増大させるだけの、傲慢な神を演じていただけだったのだ。彼が愛したあの悲しい歌は、自分自身の行いによって、さらに深い悲しみへと突き落とされた。彼はヘッドフォンを床に叩きつけ、その場に崩れ落ちた。
第四章 今を奏でる
プロジェクト・エコーは事実上の活動停止状態に陥った。誰もが、取り返しのつかないことをしてしまったという無力感に苛まれていた。未来は確定しており、いかなる干渉も事態を悪化させるだけ。それが、彼らが導き出した絶望的な結論だった。響は観測室に一人閉じこもり、録音された歌を繰り返し聴いていた。それはもはや、未知への好奇心をかき立てる歌ではなく、自らの罪を告発する断罪の旋律に聞こえた。
もう、何も聴きたくない。
そう思った時、ふと、歌のある部分に意識が引き寄せられた。それは、最も悲痛な旋律の合間に、ほんの一瞬だけ差し込まれる、微かな、しかし凛とした響きだった。これまで悲しみの感情に覆い隠されて気づかなかった、小さな音の断片。
それは、警告ではなかっただろうか?
響はハッとした。考え方を変えなければならない。未来の人類は、我々に「助けてほしい」と歌っていたのではない。彼らは、自分たちがなぜ滅びなければならなかったのか、その原因となった「何か」を、歌に乗せて過去の我々に伝えようとしていたのではないか。それは救難信号ではなく、灯台の光だったのだ。自分たちの犠牲を無駄にしないでくれ、という最後の願い。
そして、響たちが送った応答歌。それが未来を悪化させたのは事実かもしれない。だが、それは同時に、未来に対して「過去はあなた方の声を聞いている」という証明にもなったはずだ。彼らの歌が無駄ではなかったことの、唯一の証。
響の中で、何かが変わった。絶望が消えたわけではない。だが、その底に、小さな、しかし確かな使命感が芽生えていた。
彼は立ち上がり、老教授と玲奈を観測室に呼び戻した。
「私たちは間違っていた。彼らを『救う』なんて考えるのは傲慢だったんだ。私たちがすべきことは、ただ一つ。彼らの警告を正しく『聴き』、この現在を変えることだ」
響の目は、以前の光を取り戻していた。彼の言葉に、二人の顔にも再び意志の光が灯る。
「彼らの歌を、もう一度、ゼロから解析し直そう。感情ではなく、情報として。この歌に隠された、未来の破局の原因を突き止めるんだ。それが、未来の彼らに対する、我々のできる唯一にして最高の応答だ」
プロジェクトは再開された。今度の目的は、対話ではない。解読だ。未来からの悲痛な遺言を、一音たりとも聞き漏らすまいと、彼らは全神経を集中させた。それは、人類の未来そのものを賭けた、壮大な謎解きだった。
研究がどこへ行き着くのか、まだ誰にも分からない。世界にこの事実を公表しても、信じる者は少ないだろう。未来を変えることができるのか、それともすべては徒労に終わるのか。答えは、まだ時の彼方だ。
響は観測室の窓を開け、眼下に広がる街の喧騒に耳を澄ませた。車のクラクション、人々の笑い声、遠くで響くサイレン。かつては何の変哲もない日常の音だったものが、今は愛おしくてたまらない、奇跡のシンフォニーに聞こえた。
この音の一つ一つが、失われる可能性のある未来のかけらなのだ。
彼の耳の奥で、あの未来からのレクイエムが、今も微かに響いている。しかし、それはもう断罪の歌ではなかった。悲しみの奥に、未来を託す者たちの強い意志を乗せた、希望の旋律として響いていた。響は空を見上げる。これから為すべきことはあまりに多く、そして重い。だが、彼はもう迷わない。ただ聴くだけの傍観者であることをやめ、未来を奏でる当事者として、今を生きることを選んだのだから。