Echo Chamber -残響の心界-

Echo Chamber -残響の心界-

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第一章 不協和音の森

音響デザイナーである水月湊(みづきみなと)にとって、世界は過剰な音で満ちていた。人の声に含まれる微細な棘、アスファルトを叩く無機質な靴音、空調が吐き出す単調なノイズ。彼の繊細すぎる聴覚は、それら全てを増幅し、心を削るヤスリのように感じさせていた。だから湊は、外界の音を遮断する特注のヘッドフォンを常に身に着けていた。そこは彼の聖域であり、唯一安らげるシェルターだった。

その日も、彼は自室で新しいプロジェクトの音源を確認していた。ヘッドフォンから流れるのは、静かな湖畔をイメージしたアンビエント・ミュージック。鳥のさえずり、風にそよぐ木の葉、緩やかな水音。しかし、その完璧に調整された調和の中に、突如として異物が混入した。キィン、と鼓膜を突き刺すような高周波。ブゥン、と腹の底を揺さぶる不気味な低音。それはデータのエラーではなかった。もっと生々しく、有機的な、まるで世界の基盤が軋むような音だった。

湊は眉をひそめ、ボリュームを絞ろうとした。だが、指がダイヤルに触れるより早く、その不協和音は渦を巻いて彼の意識を絡め取った。視界がぐにゃりと歪み、平衡感覚が失われる。まるで巨大な音の奔流に飲み込まれるかのように、彼の存在そのものが希薄になっていく。

次に目を開けた時、湊は冷たい土の上に横たわっていた。ヘッドフォンはどこかへ消え、ひんやりとした空気が頬を撫でる。辺りは、見たこともない植物が鬱蒼と茂る森だった。空は鈍色の雲に覆われ、木々の幹は青白く光っている。そして何より異常なのは、この世界の「音」だった。

全てのものが、音を奏でていた。

足元の苔はか細くハミングし、ねじくれた枝は苦しげに軋み、地面に転がる石ころは低く呻いている。それらが混じり合って形成する不協和音のオーケストラが、森全体を支配していた。湊が現実世界で忌み嫌っていたノイズの、何百倍も濃密な音の暴力。彼は思わず耳を塞いだが、音は皮膚を、骨を、魂を直接震わせてくる。

「……っ、なんだ、ここは……」

呻き声が、森の不協威音に虚しく吸い込まれる。逃げ出そうにも、どの方向に進めばいいのか分からない。強烈な音の奔流は、彼の思考を麻痺させ、方向感覚を奪っていく。このままでは発狂してしまう。湊が地面に膝をつき、意識が遠のきかけた、その時だった。

鈴が鳴るような、澄んだ声が聞こえた。

「あなたは、よそから来た人?」

顔を上げると、そこに一人の少女が立っていた。切り揃えられた黒髪に、白い簡素なワンピース。その瞳は森の空と同じ鈍色をしていたが、不思議なほど静かで、表情というものが抜け落ちていた。彼女の存在だけが、この狂った音の世界で唯一、調和を保っているように見えた。

「ここは、『響きの森』。そして、その音は、この森の病」

少女は淡々と告げた。彼女の声には、この森の不協和音をわずかに中和するような、不思議な力があった。

第二章 沈黙の湖と響子の歌

少女は自らを「響子(きょうこ)」と名乗った。彼女はこの世界の案内人であるかのように、湊の前をこともなげに歩いていく。湊は、他に頼るあてもなく、その後ろをついていくしかなかった。

「この世界は、音でできているの」

歩きながら、響子はぽつりぽつりと語った。彼女によれば、かつてこの世界は美しいハーモニーに満ちていたという。だが、ある時から不協和音が発生し、世界の調和を蝕み始めた。それが、湊が感じている耐え難い苦痛の正体だった。

「なぜ、君は平気なんだ?」

湊が尋ねると、響子はかすかに首を傾げた。

「私には、この音が聞こえないから」

その答えは、湊を混乱させた。音でできた世界で、音が聞こえないとはどういうことか。彼女の存在そのものが、巨大な謎として湊の前に横たわっていた。

やがて二人は、森を抜けた先に広がる湖にたどり着いた。周囲の木々が嘘のように静まり返り、湖面は磨き上げられた黒曜石のように、鈍色の空を完璧に映し込んでいる。一見すると、そこは完全な沈黙に支配されているように思えた。だが、湊の耳には聞こえていた。湖の奥底から、森の比ではない、凝縮された強烈な不協和音が脈動しているのを。それは、世界の心臓が発する苦痛の叫びそのものだった。

「あれが、病の源」

響子は湖を指さした。

「時々、こうして歌うの。少しだけ、和らぐから」

言うが早いか、響子は湖に向かって歌い始めた。それは歌詞のない、透明なヴォカリーズだった。彼女の口から紡がれる旋律は、驚くほど純粋で、一切の澱みがない。その歌声が響き渡ると、湖底からの不協和音が、確かにわずかに鎮まるのが分かった。しかし、それは焼け石に水だった。歌声という小さな調和は、湖底の巨大な不調和に飲み込まれ、すぐにその力を失ってしまう。

湊は聴き入っていた。音響デザイナーとしての彼の耳は、響子の歌声の構造と、湖の不協和音の周波数を正確に分析していた。そして、気づいた。彼女の歌には、ある特定の「音域」が欠けている。その欠落した部分を、不協和音が埋めるように侵食しているのだ。

居ても立ってもいられず、湊は声を上げた。

「そのメロディに……この音を足してみてくれ!」

彼は、自分の声で、響子の歌に欠けていた低音のハーモニーを紡いだ。それは、彼の内側から自然に湧き上がってきた音だった。響子は一瞬驚いたように目を見開いたが、すぐに彼の意図を理解し、そのハーモニーに合わせて旋律を変えた。

奇跡が起こった。

二人の声が重なった瞬間、湖の不協和音は劇的に和らいだ。まるで、ずっと探していた片割れを見つけたかのように、二つの声は完璧に溶け合い、力強い和音となって湖に響き渡った。湊は、自分の能力が初めて世界と調和し、他者の痛みを癒やす力になったのを感じていた。それは、彼が生まれて初めて感じる、歓喜にも似た震えだった。

第三章 失われた音の主

湊と響子の歌声が湖を満たし、不協和音の嵐が凪へと変わっていく。世界が調和を取り戻しかけた、その瞬間だった。静まったはずの湖面が、突如として激しく揺れ動いた。黒曜石の水面が砕け散り、そこから光の奔流があふれ出す。その光は湊の体を貫き、彼の脳内に、津波のように断片的なイメージを流し込んだ。

―――雨の夜。交差点。けたたましいブレーキ音。衝撃。砕け散るガラスの音。遠ざかるサイレン。誰かの悲鳴。そして、薄れゆく意識の中で、見上げたアパートの窓。それは、湊が住むアパートの、すぐ隣の部屋の窓だった。

映像の奔流が止んだ時、湊はそこに映っていた人物を思い出した。アパートの廊下ですれ違うだけの、名前も知らない隣人の女性。いつも少し疲れたような、寂しそうな顔をしていた。

全身から血の気が引いていく。湊は、恐ろしい真実にたどり着いてしまった。

この世界は、異世界などではない。

ここは、あの隣人の女性の「精神世界」なのだ。

彼女は、あの雨の夜の交通事故で、今も意識を失っている。この不協和音に満ちた森は、彼女の癒えない心の痛みそのもの。そして、目の前にいる響子は――。

「君は……」

湊が震える声で尋ねると、響子は静かに頷いた。

「私は、あの人の『声』。事故の衝撃で、心を閉ざしてしまったあの人の、失われた声」

不協和音が聞こえないのではない。響子自身が、痛みから逃れるために音を拒絶していたのだ。

湊は愕然とした。自分は異世界に迷い込んだ冒険者でも、世界を救う英雄でもなかった。ただ、音に敏感すぎるがゆえに、隣でか細く助けを求めていた他人の無意識の叫び(=音)に引き寄せられ、土足で心の中に踏み込んでしまった、招かれざる客に過ぎなかったのだ。

なんて傲慢だったのだろう。彼女の深い苦しみを、解決すべき「ノイズ」として処理しようとしていた。自分の能力を役立てられたと、悦に入っていた。その事実に気づいた瞬間、強烈な罪悪感と自己嫌悪が湊を襲った。他人の心に触れることの、その途方もない重さに、彼は打ちのめされた。

「僕には……資格がない」

湊はよろめきながら後ずさった。

「僕がいていい場所じゃない。帰らないと……」

逃げ出したい。この重すぎる現実から。無責任な自分から。

しかし、彼が背を向けた瞬間、再び世界が軋み始めた。和らいでいた不協和音が、主を失った響子の歌のように力を失い、勢いを増して蘇ってくる。響子の体も、輪郭がぼやけ、今にも消えてしまいそうに揺らいでいた。

第四章 二人で紡ぐ和音

絶望的な不協和音の中で、響子の消え入りそうな姿が、湊の目に焼き付いて離れなかった。ここで自分が去れば、この世界は、彼女の心は、永遠にこの苦痛に満ちた音の中に閉ざされてしまうだろう。

もう、他人事ではいられなかった。無関心ではいられなかった。

彼は、自分の繊細すぎる耳を呪ってきた。他人の感情の機微を拾いすぎてしまう自分を嫌悪してきた。しかし、今、その能力だけが、彼女を救う唯一の鍵なのかもしれない。

湊は踵を返し、響子の前に再び立った。恐怖も、罪悪感も、全て飲み込んで。

「ごめん。逃げようとした」

彼は深く息を吸い、決意を込めて言った。

「君だけの歌じゃない。彼女だけの痛みでもない。僕も一緒に音を探す。彼女の心を、僕らの音で満たそう」

響子の鈍色の瞳に、初めて微かな光が宿った。それは驚きであり、かすかな希望の光だった。

湊は目を閉じ、意識を研ぎ澄ませた。不協和音の核にある、最も深い音を探る。そこにあったのは、純粋な「悲しみ」の低音と、鋭い「恐怖」の高音だった。彼は、音響デザイナーとして培った全ての知識と、生まれ持った特異な感覚を総動員した。その二つの音を否定するのではなく、優しく包み込むような、温かい中音域のハーモニーを、自分の声で紡ぎ始めた。

それは祈りにも似た音だった。

湊の声に導かれるように、響子も再び歌い始める。彼女の純粋な旋律が、湊の紡ぐ複雑な和音と絡み合い、一つの完璧な音楽へと昇華していく。悲しみは慰められ、恐怖は安らぎに溶けていく。二人の歌声は、湖を、森を、世界全体を満たし、不協和音はついに完全に沈黙した。

その代わり、世界は暖かく、美しい光と、生命力に満ちた豊かな音に包まれた。木々は穏やかに歌い、石は安らかに眠り、風は祝福のメロディを運んでくる。

光に溶けていく世界の中で、響子が湊に向かって、初めてはっきりと微笑んだ。

「ありがとう」

その声は、響子の声でありながら、湊が廊下ですれ違いざまに聞いたことのある、あの隣人の女性の声と、確かに重なって聞こえた。

意識が急速に現実へと引き戻される。

湊がはっと目を開けると、そこは自室の床の上だった。窓の外から、救急車のサイレンが遠ざかっていく音が微かに聞こえる。まるで、長い夢から覚めたかのようだった。

数日後、アパートの掲示板に一枚のメモが貼られていた。『先日、交通事故に遭った203号室の者です。皆様にはご心配、ご迷惑をおかけしました。おかげさまで先日、無事に意識が戻り、快方に向かっております』という、丁寧な文字だった。

湊は自室に戻り、いつもなら真っ先に装着するはずのヘッドフォンをテーブルに置いた。そして、ゆっくりと窓を開け放つ。

街の喧騒、遠くで笑う子供の声、車の走行音、風が建物を撫でる音。

今まで彼を苛んできたそれらの音が、今は全く違って聞こえた。一つ一つの音が、それぞれの物語を持つ、美しい旋律のように感じられる。不協和音もまた、世界を構成する音楽の一部なのだと、彼は理解していた。

湊は、目を閉じて、その豊かな音の世界に身を委ねた。彼はもう、音に怯え、世界から耳を塞ぐだけの男ではなかった。他者の心に触れることで、自らの世界の見え方(聞こえ方)が根底から変わったのだ。湊は、かすかに微笑み、生まれ変わった世界が奏でる音楽へと、静かに一歩を踏み出した。

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