第一章 共鳴する悲歌(エレジー)
僕、水島奏(みずしま かなで)の一家は、少し変わっている。僕たちは、家族の感情を「音」として聞くことができるのだ。
怒りは、嵐のようなティンパニの連打。喜びは、軽やかに跳ねるピアノのアルペジオ。そして、僕がこの十年、片時も離れずに聞き続けているのは、母・響子(きょうこ)から流れる音だ。それは、低く、途切れがちにすすり泣くヴァイオリンの旋律。まるで、氷の弦を、震える弓でかき鳴らしているかのような、痛々しい悲歌(エレジー)。
この音が僕の日常だった。朝食のトーストをかじる時も、大学の講義を受けている時も、耳の奥で、いや、胸の奥で、その悲しいヴァイオリンは鳴り響いている。それは父さんがこの家を出て行った日から始まった。物心つくかつかないかの頃だったから、父の顔は写真でしか知らない。母は父について一切を語らないが、この音こそが、彼女の失われた愛と深い悲しみの証明だと、僕は信じて疑わなかった。
「母さん、今日の味噌汁、少ししょっぱいよ」
食卓でそう言うと、母のヴァイオリンの音が一瞬、鋭く軋んだ。母は無表情に「そう? 気をつけるわ」とだけ返す。言葉とは裏腹に、音は「また私を責めるの?」と叫んでいた。僕の心臓が、その共鳴に締め付けられる。
この能力は、呪いにも等しい。言葉で取り繕った嘘は通用せず、心の奥底の生々しい感情が、望むと望まざるとにかかわらず流れ込んでくる。だから僕たちの家は、いつも不自然なほど静かだった。余計な言葉は、意図せぬ音の氾濫を引き起こすだけだからだ。僕たちは互いの音に怯え、息を潜めるようにして暮らしていた。
特に母の悲しみは、僕の青春を灰色に染め上げた。彼女を笑顔にしたくて、道化を演じたこともあった。必死で勉強して、良い大学に入った。けれど、僕の努力が実を結ぶたびに、ヴァイオリンの音はほんの少しだけ和らぐものの、決して止むことはなかった。それはまるで、僕の存在そのものが、父の不在を際立たせるリマインダーであるかのように。
ある雨の日の午後、僕は決意した。この呪われた共鳴を断ち切り、母を本当の意味で解放しなければならない。そしてそれは、僕自身がこの息苦しい家から解放されるための、唯一の道でもあった。そのためには、父という存在、そして母が奏でる悲しみの根源を、知る必要があった。
第二章 忘れられた旋律
僕の唯一の理解者は、同じ町に住む祖母の静(しず)だった。水島家に嫁いできた母と違い、祖母は生まれながらにこの「共鳴」の体質を持っている。彼女から聞こえる音は、古びた木のオルゴールのように、穏やかで、どこか懐かしい音色だった。
「おばあちゃん、母さんのあの音、どうにかならないかな」
縁側で一緒にほうじ茶をすすりながら、僕は切り出した。祖母は庭の紫陽花に目を向けたまま、静かに言った。
「響子さんのヴァイオリンかい。あれはもう、あの子の一部みたいなものだからねぇ」
「でも、苦しいんだ。聞いている僕も、そしてきっと母さん自身も」
僕の焦りを感じ取ったのか、胸の奥で警告音のようなチェロの低音が短く鳴った。祖母はゆっくりと僕に顔を向けた。皺の刻まれた優しい目が、僕の心の奥を見透かしているようだった。
「奏。あんたは優しい子だ。でもね、一つだけ覚えておきな。耳に届く音が、必ずしも真実を奏でるとは限らんよ。人は、本当の気持ちを隠すために、別の音を鳴らすこともある」
その言葉は、僕の中に小さな、しかし確かな波紋を広げた。本当の気持ちを隠すための、別の音? 母の悲しみは、偽りだというのか?
家に帰り、僕は屋根裏部屋に上がった。埃っぽい空気と、古い木の匂いが鼻をつく。目当ては、父さんが残していったものだ。母が全て処分したと思っていたが、もしかしたら何か残っているかもしれない。段ボール箱をいくつも開け、古びたアルバムをめくった。そこに写る若い両親は、僕の知らない笑顔を浮かべていた。だが、いくら目を凝らしても、写真の中の母からヴァイオリンの音は聞こえてこない。ただ、静かだった。
捜索を続けて一時間ほど経った頃、一つの木箱の底から、古びた一枚のレコードジャケットが出てきた。日に焼けてセピア色に変色したジャケットには、情熱的に抱き合う男女のシルエットと、『Tango de la Noche Prohibida(禁じられた夜のタンゴ)』というタイトルが記されていた。裏には、父の筆跡だろうか、走り書きで「響子へ。俺たちの魂の曲だ」とあった。
これが、父さんと母さんを繋ぐもの? タンゴ。あの静かな母からは、最も遠い音楽に思えた。僕はそのレコードを手に、階下へ降りた。母がいつも奏でている悲歌とは、あまりにも不釣り合いな旋律が、このジャケットからはみ出しそうになっている気がした。
第三章 偽りのヴァイオリンと真実のタンゴ
その週末、僕はリビングの隅で埃をかぶっていた古いレコードプレーヤーを修理した。母は訝しげな顔で僕を見ていたが、何も言わなかった。彼女の心からは、相変わらずあのすすり泣くヴァイオリンが聞こえてくる。僕は深呼吸をして、父のレコードをターンテーブルに乗せた。
針を落とす。ぷつ、ぷつ、というノイズの後、スピーカーから溢れ出したのは、バンドネオンの咽び泣くような音色と、ピアノが刻む鋭いリズムだった。激しく、官能的で、どこか切ないタンゴの旋律。それは僕が今まで一度も聞いたことのない、魂を揺さぶる音楽だった。
その瞬間、信じられないことが起きた。
十年以上も僕の頭の中で鳴り響いていた、あの母のヴァイオリンの音が、プツリと、糸が切れたように止んだのだ。
静寂。生まれて初めて体験する、母からの音のない世界。僕は呆然として母を見た。母はソファに座ったまま、両手で顔を覆っていた。肩が、小さく震えている。悲しんでいるのか? いや、違う。
次の瞬間、母の心から、新しい音が溢れ出してきた。それは、今スピーカーから流れているタンゴの旋律と、寸分たがわず共鳴していた。しかし、それは単なる音楽の反響ではなかった。そこには、圧倒的な感情の奔流が渦巻いていた。長年、固い氷の下に閉じ込められていた灼熱のマグマが一気に噴き出すような、激しい歓喜。焦がれるような愛情。そして、深い、深い、罪の意識。
僕の全身を、雷が貫いた。
祖母の言葉が脳裏に蘇る。「本当の気持ちを隠すために、別の音を鳴らすこともある」
そういうことだったのか。
あのヴァイEオリンの悲歌は、父を失った悲しみの音ではなかった。
あれは、この燃え上がるようなタンゴの情熱を、父ではない、別の誰かへの想いを、必死で心の奥底に封じ込めるための「抑制の音」だったのだ。父が出て行ったのは、悲劇の始まりではなかった。母にとっては、偽りの関係の終わりであり、同時に、叶わぬ想いを永遠に封印する決意の始まりだったのだ。
僕が「悲劇のヒロイン」だと思い込み、同情し、慰めようとしてきた母の姿は、僕が勝手に作り上げた幻影に過ぎなかった。母は僕の知らない場所で、僕の知らない誰かを、ずっと、ずっと愛し続けていた。そしてその罪悪感から、自らに「悲しみ」という名の音の枷をはめていたのだ。
僕の信じてきた家族の物語が、ガラガラと音を立てて崩れ落ちていく。目の前にいる母が、全く知らない他人のように見えた。
第四章 解放のフーガ
音楽が終わり、部屋には再び静寂が戻った。しかし、以前の重苦しい静けさとは全く違う、どこか澄み切った空気が漂っていた。母の心から聞こえてくる音は、もうない。ただ、穏やかな凪のような静寂が広がっているだけだった。
母がゆっくりと顔を上げた。その目には涙が溢れていたが、表情は驚くほど晴れやかだった。僕は、震える声で、やっと一言だけ絞り出した。
「聞こえたよ。……本当の、音が」
母は小さく息を呑み、そして、ふっと微笑んだ。それは僕が生まれて初めて見る、心の底からの、何の偽りもない母の笑顔だった。その笑顔だけで、全てが分かった。彼女がどれほど長い間、偽りの音の牢獄に自らを閉じ込めてきたのか。そして、今、どれほど解放されているのか。
その日を境に、僕たちの家は変わった。相変わらず口数は少なかったが、食卓には時折、穏やかな会話が生まれるようになった。僕の耳に流れ込んでくる家族の音は、もうない。能力が消えたわけではないだろう。ただ、僕たちが互いに、ありのままの感情を隠す必要がなくなったのだ。
僕は、母を一人の女性として見つめ直した。彼女の人生には、僕の知らない物語があり、僕の知らない愛があった。それを知った今、僕は母を軽蔑するどころか、その計り知れない心の強さに、畏敬の念すら抱いていた。他人の感情を「聞く」ことの傲慢さを、僕は痛感した。僕は母の音を聞いていただけで、彼女の心を何一つ理解しようとしていなかったのだ。
大学を卒業する頃、僕は一人暮らしを始めることにした。引っ越しの日、玄関で母は「元気でね」とだけ言った。その心は、春の陽だまりのように、ただ穏やかで温かかった。
新しいアパートの窓を開けると、街の様々な音が流れ込んでくる。車の走行音、子供たちの笑い声、遠くで鳴る教会の鐘。無数の音が混じり合う混沌の中で、僕は自分の心に耳を澄ませた。
すると、聞こえた。
それは、まだとても小さく、か細いけれど、確かな音だった。新しい生活への期待と、少しの不安が混じり合った、静かなチェロの独奏。僕自身の、始まりの音だ。
僕はもう、誰かの音に振り回されない。誰かの物語を生きることもしない。これから僕は、僕自身の旋律を、この世界に奏でていくのだ。空はどこまでも青く、僕のフーガは、まだ始まったばかりだった。