我が身に刻む、不在の君
第一章 刻印の系譜
俺、湊(みなと)の身体は、家族の歴史を綴る羊皮紙だ。血を分けた者の人生が大きなうねりを迎えるたび、その象徴が俺の肉体の一部に、決して消えないインクのように刻印される。それは呪いであり、同時に祝福でもあった。
つい先日のことだ。姉の潮(うしお)が、長年付き合った恋人からの求婚を受け入れた。その夜、食卓は久しぶりに温かな光に満ちていた。父の無愛想な顔がわずかにほころび、母は嬉しそうに何度も目を潤ませる。兄の航(こう)は、憎まれ口を叩きながらも祝いの酒を注いでいた。
その幸福の渦の中で、俺は左の鎖骨の下に、チリチリと熱を帯びた疼きを感じていた。食事が終わる頃には、そこには白磁の肌をなぞるように、繊細で美しい鎖骨の線がもう一本、淡く浮かび上がっていた。姉の、幸福の絶頂にある身体の輪郭。それは未来への希望の輝きと、未知なる生活への微かな不安が編み込まれた、複雑なレース模様のようだった。
「またか、湊」
兄が、俺の胸元をちらりと見て眉をひそめる。俺は曖昧に頷き、テーブルの中央に置かれた古びた懐中時計に目をやった。銀製のそれは、俺たち家族の「人生の書物」の表紙に埋め込まれたものと同じ、色を失った紋章が刻まれている。姉の婚約が決まった瞬間、その時計が放った微かな光を、俺だけが見ていた。家族の記憶が交差し、互いの書物を書き換える「共鳴の筆致」。その合図だった。俺の身体は、その最も純粋な受信機に過ぎない。
第二章 存在しない指の記憶
異変は、秋風が窓を揺らすようになった頃から始まった。それはいつもの刻印とは、まるで質が違っていた。
ある朝、目覚めると、右手の指先に違和感を覚えた。人差し指と中指の腹に、硬く小さなタコができていたのだ。俺はピアノなど弾いたことがない。重い物を日常的に持つ生活でもない。だが、そのタコはまるで何十年も鍵盤を叩き続けたピアニストの指のように、確かな存在感を主張していた。指を動かすと、知らないメロディの断片が、脳裏を幻のようにかすめて消える。
「なんだ、これ……」
誰の記憶だ? 父か、母か、兄か、姉か。しかし、彼らの人生にピアノが登場した話など聞いたことがない。その日の午後、机の上の懐中時計が、ふと淡い青色の光を帯びて揺らめいた。紋章が、静謐な湖面のような色に染まっている。光が消えた後、俺の左手首に、細く、まるで五線譜のような痣が一本、刻まれていることに気づいた。
俺は自分の「書物」を開いた。ざらりとした紙の感触。インクの匂い。しかし、ページをいくらめくっても、ピアノや音楽に関する記述は見当たらない。家族に尋ねても、誰もが怪訝な顔で首を横に振るだけだった。俺の身体にだけ、存在しないはずの家族の物語が、静かに、そして着実に刻まれ始めていた。
第三章 共鳴なき孤独
焦燥感に駆られた俺は、家族の「書物」を調べさせてほしいと頼み込んだ。俺の身体の異常に気づいていた姉は、心配そうに自身の書物を差し出してくれた。兄も渋々ながら協力してくれた。
パラ、パラとページを繰る。姉の書物には初恋の甘酸っぱい詩が、兄の書物には試合に負けた悔しさが、滲んだインクで記されていた。だが、どこを探しても、ピアノを弾く誰かの痕跡はない。父と母の書物にも、それらしき記述は見当たらなかった。家族の記憶は、この一点において、俺と共鳴してはくれなかった。
孤独だった。俺の身体は家族の集合体であるはずなのに、俺だけが知らない「誰か」に侵食されていく感覚。まるで、自分という存在の輪郭が、少しずつ溶け出していくような恐怖。
ある夜、俺は父の書斎に忍び込み、古いアルバムを開いた。そこに何か手がかりがあるかもしれないと思ったからだ。しかし、写真の中の家族は、父、母、兄、姉、そして赤ん坊の俺。どこにも五人目の姿はない。ただ、アルバムの中程に、数ページだけ、写真が剥がされたような跡が残る、不自然な空白があった。まるで、そこに存在した何かを、家族全員で忘れようと誓ったかのように。その空白は、俺の心に冷たい影を落とした。
第四章 逆巻く時計の針
その日、嵐が窓ガラスを叩いていた。俺の身体を蝕む侵食は、新たな段階に入っていた。シャワーを浴びていると、水に濡れてもいないのに、髪からふわりと潮の香りが立ち上った。そして、鏡に映った自分の左肩に、不気味な青痣が浮かび上がっているのを見つけた。
その瞬間、頭の中に激しいイメージが流れ込んできた。冷たい水。息のできない苦しみ。遠ざかっていく太陽の光。それは、まるで「海で溺れた」誰かの、最期の記憶の断片だった。
「う、あああっ!」
激しい苦痛と混乱に、俺はその場に崩れ落ちた。その時だった。部屋の机の上で、あの懐中時計が甲高い音を立てて激しく震え始めた。カチカチカチ、と常軌を逸した速さで針が逆回転を始める。紋章は、光を失った深海のような、深く、そして悲しい青色に染まっていた。
やがて、時計の針はぴたりと止まった。俺が生まれる、五年も前の日付を指して。
その音を聞きつけて部屋に入ってきた母が、時計の文字盤を見て、息を呑んだ。血の気の引いた顔で、母は一言も発さずに自室に閉じこもってしまった。その凍りついたような表情が、この謎の核心に、家族の最も深い場所に触れてしまったことを、俺に告げていた。
第五章 凪いだ海の底の真実
母の様子に、父が全てを諦めたように重い口を開いた。書斎の、あの空白のアルバムを前にして。
「お前が生まれる前……俺たちには、もう一人、子供がいたんだ」
その声は、長い間封印されていた記憶の扉を開ける、軋んだ音のようだった。
凪(なぎ)。それが、その子の名前だった。俺の、二人目の兄。航と潮の間に生まれた、快活で、音楽の才能があったという男の子。
「あの子は、海が好きでな。五つになった夏、ほんの少し目を離した隙に……波に攫われた」
家族は、その悲しみに耐えきれなかった。凪の存在そのものが、互いの心を抉る刃となった。だから、彼らは禁忌を犯した。全員の強い意志が「共鳴の筆致」を引き起こし、それぞれの書物から、凪に関する全ての記述を消し去ったのだ。アルバムの写真を剥がし、名前を口にすることもやめた。そうして、心の傷に分厚い蓋をした。
しかし、記憶は消せても、心の欠落は消せなかった。俺がこの世に生を受けた時、その特異な感受性が、家族が必死に埋めたはずの「空白」を感じ取ってしまった。家族の心の奥底に沈殿した凪への愛情と喪失感。それらが、俺の身体を触媒として、「もし凪が生きていたら」という架空の人生を紡ぎ始めていたのだ。ピアノを弾く指も、潮の香りのする髪も、全ては家族の願望が生み出した、幻の刻印だった。
第六章 愛と喪失の紋章
真実を知った瞬間、俺の身体を走ったのは、安堵ではなく、新しい痛みだった。これまで俺を蝕んできた幻の凪の記憶が、ゆっくりと変容を始めたのだ。ピアニストの硬い指は、砂を強く握りしめた幼い子供の小さな手に。溺れる苦しみは、ただ海で無邪気に遊ぶ、短い時間のきらめきへと。それは、幻の人生ではなく、凪という少年が生きた、短くも確かな生の記憶だった。俺の身体は、初めて真の意味で、家族の歴史の全てを刻む一枚の羊皮紙となった。
その変化に呼応するように、懐中時計が、これまでで最も強く、まばゆい光を放った。それは再生の光だった。父の、母の、兄の、姉の、そして俺の「書物」が、一斉に音を立てて開く。空白だったページに、金色のインクが流れるように走り、「凪」という名前と、その短い生涯が、確かな筆致で刻まれていく。
リビングに、嗚咽が響き渡った。それは何十年もの間、心の底に押し殺してきた悲しみの奔流だった。俺たちは、初めて家族全員で、凪の死と向き合った。俺の肩に浮かぶ痣は、もはや不気味なものではなく、愛した弟(あるいは兄)の、かけがえのない生の証だった。
やがて光が収まると、懐中時計の紋章は、全ての悲しみを受け入れたかのような、穏やかで澄み渡った空の色を湛えていた。俺の身体は、これからも家族の歴史を刻み続けるだろう。喜びも、悲しみも、そして愛しい不在の記憶さえも、全て抱きしめて。それこそが、我が一族に与えられた、愛と喪失の系譜なのだから。