彩なき平和
第一章 輝く塵の見る夢
砲声が遠雷のように地平を揺らす。俺、カイの目には、戦場を舞う無数の光が見えていた。それは金色の蛍のように美しく、しかし触れれば魂ごと灼かれるような、禍々しい輝きを放つ粒子だった。人々が「戦意」と呼ぶ感情の結晶。憎悪、恐怖、そして生存への渇望が入り混じった、暴力の根源そのものだ。
俺は塹壕の影に身を潜め、懐から一つの小瓶を取り出した。触れると指先に冬が訪れるような、常に零度を保つ硝子の小瓶。その蓋を開けると、周囲を漂う金色の粒子が、まるで意思を持つかのように吸い込まれていく。熱を帯びた砂塵は、小瓶の底に触れた瞬間、輝きを失い、静かな銀色の砂へと変わった。
「また、満ちていくか」
呟きは、すぐ傍で炸裂した砲弾の轟音に掻き消された。土と硝煙の匂いが鼻を突く。俺は立ち上がり、次の輝きを求めて歩き出す。この行為が俺の精神を少しずつ蝕んでいくことを知りながら。それでも、集めなければならなかった。この終わりなき戦争を、この繰り返される悲劇を、終わらせるために。
第二章 硝子瓶の鎮魂歌
自室の窓辺に、集めた小瓶を並べる。月明かりに照らされた十数本の硝子瓶は、それぞれが異なる時代の戦争を封じ込めた墓標のようだった。中には、錆びた鉄の色をした粒子や、乾いた血のような赤黒い粒子を湛えたものもある。全て、俺が過去の「生」で集めてきた戦意の残滓だ。
この世界は、大規模な戦争が極点に達するたび、時間を巻き戻す。人々はそれを知らない。ただ、漠然とした「既視感」――デジャヴとして、繰り返される光景に首を傾げるだけ。だが俺だけは、この能力の呪いか祝福か、全ての記憶を保持したまま次のループへと引き継がれる。
棚に並ぶ小瓶の数は、決して増えない。新しいループが始まるたび、一番古い小瓶が一つ、どこかへ消えるのだ。まるで、世界が自らの罪を隠蔽するかのように。この消えた戦意が、新たな争いの火種となっているのではないか。その疑念が、俺の中で確信へと変わりつつあった。
指先で一番新しい小瓶に触れる。ひやりとした感触が、思考をクリアにしてくれる。だが同時に、瓶の奥底から、名も知らぬ兵士たちの絶叫が聞こえるような気がした。
第三章 繰り返す昨日の残滓
避難民キャンプの喧騒の中で、俺はリアを見つけた。彼女は俺の幼馴染で、このループする世界の中で唯一、俺の心を繋ぎとめてくれる存在だった。
「カイ!」
彼女は駆け寄り、その顔には安堵と、拭いきれない疲労が浮かんでいた。
「また、会えたね」
その言葉に胸が痛む。彼女にとっては、数日ぶりの再会だろう。だが俺にとっては、幾度となく繰り返した再会の一つに過ぎない。
「変な夢を見たの」と、リアは不安げに眉を寄せた。「カイが、遠くへ行ってしまう夢。何度も、何度も同じ夢を……。まるで、本当にあったことみたいに、胸が苦しくなるの」
それが夢ではないと、俺は告げられない。彼女が感じているのは、過去のループで失われた記憶の残滓だ。俺が彼女を残して「時の祭壇」へ向かい、そして失敗した幾つもの過去の断片。彼女をこれ以上苦しませたくない。その想いだけが、俺を突き動かす原動力だった。
「大丈夫だ。俺はここにいる」
そう言って微笑む俺の顔は、きっとひどく歪んでいたに違いない。
第四章 消えた戦意の在処
戦況は急速に悪化した。街は炎に包まれ、空は黒煙で覆われた。もはや、世界の終わりが近いことを誰もが悟っていた。戦意の粒子は嵐のように吹き荒れ、俺の精神を激しく揺さぶる。頭の中で、無数の怒号と悲鳴が木霊した。
俺は古い文献を頼りに、世界の法則を司る場所――「時の祭壇」の存在を突き止めていた。ループの謎も、消えた小瓶の行方も、全てはそこにあるはずだ。
「行かなきゃならない」
リアにそう告げると、彼女は俺の腕を掴んだ。その瞳には、今まで見たことのないほどの恐怖が浮かんでいた。
「行かないで! あの夢と同じになる!」
「今度こそ、終わらせるんだ」
彼女の手をそっと解き、背を向ける。背後で彼女が何かを叫んでいたが、もう振り返ることはできなかった。この地獄を終わらせるためなら、どんな代償も払う覚悟はできていた。
第五章 時の祭壇
時の祭壇は、街を見下ろす古代遺跡の最深部にあった。そこは時間の流れが淀み、空間そのものが歪んでいるかのような、異様な静寂に包まれていた。
そして、俺は見た。
祭壇の中央に浮かぶ、巨大な水晶の心臓。「時間の核」だ。それはゆっくりと脈動し、世界の時間を制御していた。そして、その周囲を衛星のように周回していたのは、俺が過去のループで失ったはずの、幾十もの硝子の小瓶だった。
小瓶からは、僅かずつ戦意の粒子が漏れ出していた。解放された憎悪の残滓が、霧のように世界へと流れ出し、人々の心に新たな争いの種を蒔いていたのだ。これが、ループの真相だった。世界は安定を保つために戦意をエネルギーとして消費し、過剰になれば時間を巻き戻す。だが、消去しきれなかった戦意が、次の悲劇を呼び起こしていた。終わることのない、悪魔の円環。
「…そういうことか」
絶望的な真実に、乾いた笑いが漏れた。
第六章 零度の祈り
もう迷いはなかった。この連鎖を断ち切る方法は一つしかない。
俺は懐から、このループで集めた最後の小瓶を取り出した。そして、祭壇に浮かぶ全ての小瓶に意識を集中させる。俺の能力は、戦意を集めるだけではない。それを解き放つこともできるのだ。
「終わらせよう。全てを」
俺がそう念じると、全ての小瓶の蓋がひとりでに開いた。何十もの時代、何百もの戦場で集められた、ありとあらゆる戦意。それらはもはや熱を失い、冷たい銀色の砂となって、静かに舞い始めた。まるで、鎮魂の雪のように。
粒子は光の川となり、脈動する「時間の核」へと吸い込まれていく。俺の精神を長らく蝕んできた重圧が、すっと消えていくのを感じた。解放感と、同時に、胸にぽっかりと穴が空いていくような、途方もない喪失感。核は全ての戦意を飲み込むと、今までで最も強く、そして最後の脈動を放った。
世界が、純白の光に塗り潰されていく。
第七章 彩なき平和
光が収まった時、世界は静寂に包まれていた。砲声も、悲鳴も、炎の音も、何も聞こえない。戦争は、終わったのだ。
俺はリアの元へと急いだ。彼女は無事だった。瓦礫の山と化した街の中で、ただ一人、空を見上げて静かに立っていた。
「リア!」
俺が呼びかけても、彼女は振り向かない。その肩にそっと触れると、彼女はゆっくりとこちらを向いた。だが、その瞳はガラス玉のように虚ろで、何の感情も映してはいなかった。喜びも、安堵も、悲しみさえも。
周囲の人々も同じだった。彼らは人形のように整然と立ち尽くし、あるいは歩き、その顔には一切の表情がなかった。憎悪も、怒りも、恐怖も消えた。だが同時に、愛も、優しさも、共感も、人の心を彩っていた全ての感情が、世界から洗い流されてしまっていた。
戦意とは、感情の起伏そのものだったのだ。それを根絶するということは、人間から人間らしさを奪うことと同義だった。
俺はリアの手を握った。温かいはずのその感触が、なぜかひどく冷たく感じられた。空はどこまでも青く、風は穏やかで、世界は完璧なまでに平和だった。しかし、その平和には、色がなかった。
俺だけが、失われた全ての感情の記憶を持つ、最後の人間として取り残された。この彩なき世界で、かつて確かに存在した温もりを思い出しながら、永遠に生きていく。
これが俺の求めた結末なのか。
罰なのか、それとも救いだったのか。
答えのない問いを胸に、俺はただ、静かすぎる空を見上げ続けた。