皮膚の碑文、忘却の水平線
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皮膚の碑文、忘却の水平線

第一章 半透明のレクイエム

また、ひとつ。言葉が浮かび上がった。

左腕の内側、柔らかな皮膚の上に、インクが滲むようにそれは現れた。半透明の青みがかった文字が、静かな疼きと共に皮膚の下から隆起する。『母さん、ごめん』。見知らぬ誰かの最後の懺悔が、俺、カイの身体の一部になった瞬間だった。

外では、錆びた鉄と湿った土の匂いが混じり合った風が吹いている。三日前に敵の砲弾が着弾した区画から流れてくる、死の名残だ。この街では、そんな匂いが日常の背景となっていた。人々は俯き、すり減った靴底で瓦礫を避けながら、昨日と同じ今日を生き延びようと必死だった。

その時、世界が軋んだ。

視界の端で、パンを売る老婆の姿が陽炎のように揺らぎ、次の瞬間には消えていた。いや、違う。老婆がいたはずの場所には、今朝見たはずの軍用車両が、埃を被って停車している。時間の流れが、また跳んだのだ。数時間のスキップ。人々は一瞬だけ足を止め、眉をひそめ、すぐに何事もなかったかのように歩き出す。この不規則な跳躍――人々はそれを「間欠泉」と呼んだ――に、誰もが慣れきっていた。

だが、俺だけは違う。跳躍の前後を、俺だけが覚えている。そして、跳躍が起こるたびに、腕の文字が増え、俺自身の輪郭が世界から薄れていくのを感じるのだ。すれ違う男の肩が、俺の身体を物理的な抵抗なくすり抜けていった。まるで、俺が幽霊で、彼らこそが実体であるかのように。俺は自分の手のひらを見つめる。陽光が、皮膚を透かして向こう側の景色をぼんやりと映していた。

第二章 錆びた羅針盤

「また、増えたのかい」

古書の黴とインクの匂いが満ちる市立記録院の片隅で、エリアナが俺の腕を覗き込んだ。皺の刻まれた指先が、そっと文字をなぞる。彼女だけだった。この街で、俺の存在が希薄になっても、なお俺の姿を正確に捉えることができるのは。

「北西戦線で、大きな衝突があったようです」

「そうかい……。言葉が増えるほど、あんたは透けていく。まるで、死者の重みで世界から押し出されていくようだね」

エリアナは、分厚い革の装丁が剥がれた本を俺の前に置いた。『失われた時間軸に関する考察』と題されたその本には、「間欠泉」と酷似した現象についての記述があった。そして、こうも書かれていた。『世界は、忘却に抗うために自らを反芻する。その反芻の鍵は、記録されざる声、すなわち「碑文」にある』と。

「碑文……」俺は自分の腕に刻まれた無数の言葉に目を落とした。「これが?」

「あんたの身体は、この狂った世界の羅針盤そのものだよ、カイ。そして、その針が指し示す先には、すべての始まりと終わりが眠る『記録庫』があると言われている」

エリアナは、さらに古い羊皮紙の写しを広げた。そこには、一つの挿絵が描かれていた。無数の言葉が刻まれた人影が、心臓のあたりから石を取り出している絵だ。

「『無音の叫び』の石。すべての言葉が共鳴し、極限の感情が注がれた時、碑文は唯一つの実体を持つという。それは時間を律し、記録庫への扉を開く、最後の鍵だ」

彼女の声は、まるで遠い昔の物語を語るように、静かで厳かだった。

第三章 間欠泉の跳躍

その日、空が赤く裂けた。

東部地区で始まった大規模な攻勢は、瞬く間に街全域を飲み込んだ。サイレンが鳴り響き、爆音が鼓膜を揺らす。俺は路地裏に蹲り、全身を襲う激しい疼きに耐えていた。腕だけではない。胸に、背中に、足に、次から次へと死者の最後の言葉が奔流となって溢れ出し、皮膚を覆い尽くしていく。

『愛してる』

『まだ死ねない』

『寒いよ』

『これで、終わりか』

無数の声が、俺の内で悲鳴を上げていた。視界が白く霞み、自分の身体がほとんど透明になっているのが分かった。すぐそばを、兵士たちが俺を透かして走り抜けていく。彼らの瞳には、俺という存在は映っていない。

そして、今までで最大の間欠泉が世界を襲った。

世界が反転するような強烈な浮遊感。気づいた時、俺は三日前の朝、エリアナの記録院の前に立っていた。空は青く、サイレンは鳴っていない。しかし、俺の身体には、これから死ぬはずの者たちの言葉がびっしりと刻まれたままだった。未来の死を、俺だけが記憶している。

孤独と絶望が、俺の心を砕いた。なぜ俺だけが。この終わらない悲劇を、ただ記録するためだけに存在するのか。その感情の奔流が臨界点に達した瞬間だった。胸に刻まれた、ただ一言――『生きて』という言葉が、灼けるような光を放った。

第四章 無音の叫び

光は俺の胸で脈打ち、やがてゆっくりと実体を結んだ。手のひらに収まるほどの、滑らかで冷たい石。鈍い黒曜石のような色合いの中に、無数の青白い光が星々のように瞬いている。これが、『無音の叫び』の石か。

俺は震える指で石を握りしめた。すると、石に触れた部分から、自分の身体の輪郭が確かなものへと戻っていく感覚があった。世界が、安定する。時間の揺らぎが、凪いだ水面のように静かになる。だが、その代償は大きかった。心臓を直接握り潰されるような、激しい疲労と虚脱感が全身を襲う。生命力が、ごっそりと吸い取られていく。

「見つけたんだね」

背後から、エリアナの声がした。彼女は俺の手の中の石を見て、悲しげに微笑んだ。「それが道を示すだろう。だが、気をつけな。その石は、過去を凍らせる代わりに、あんたの未来を喰らう」

彼女の言葉を胸に、俺は石を掲げた。石の中で瞬く光は、まるで星図のように、一点を強く指し示していた。街で最も激しい戦闘が繰り返され、最も多くの血が流れた場所。中央広場の、地下深く。

記録庫への道は、物理的な通路ではなかった。石を胸に当て、目を閉じる。俺の身体に刻まれた全ての言葉と、石が共鳴し始めた。死者たちの無念、愛、後悔、希望。それらが一つの巨大な記憶の奔流となり、俺の意識を飲み込んでいく。俺は、死者たちの記憶で編まれた道を、ただひたすらに下降していった。

第五章 記録庫の真実

意識が再び浮上した時、俺は場所にいなかった。そこは、無数の光の粒子が、完全な静寂の中を漂う空間だった。一つ一つの粒子が、一つの「最後の言葉」だった。触れると、その言葉を遺した兵士の一生が、一瞬の閃光となって流れ込んでくる。ここは、この世界のすべての死が眠る場所。記録庫。

空間の中心に、巨大な光の球体が浮かんでいた。それが、この世界の核だった。俺がそれに近づくと、声ではない「理解」が、直接脳に流れ込んできた。

この世界は、それ自体が巨大な戦争の「記憶」の集合体だった。人々も、街も、すべては遠い過去に失われた者たちの記憶の残滓。そして、戦争のサイクルは、世界が自らの存在理由――その悲劇的な記憶――を忘れ去らないための、痛々しい自己保存本能だったのだ。間欠泉は、記憶が風化しないように、何度も時間を巻き戻し、歴史を反芻するためのシステム。我々は、終わったはずの戦争の夢を、永遠に生き続けているに過ぎなかった。

光の球体のそばに、一つの台座があった。そこに『無音の叫び』の石を置けば、反芻のサイクルは停止する。戦争は終わり、時間は未来へと正しく流れ始める。だが、それは同時に、この世界が存在意義を失い、緩やかな忘却という「死」に向かうことを意味していた。

痛みと悲しみに満ちた永遠か。それとも、安らかで空虚な終わりか。選択は、俺に委ねられた。

第六章 最後の記録者

俺は、石を台座に置いた。

決断に、迷いはなかった。偽りの永遠を生きるより、真実の終わりを選ぶ。それが、俺の身体に言葉を刻んでいった者たちへの、唯一の弔いだと信じたかった。

石が台座に触れた瞬間、記録庫全体が眩い光に包まれた。世界の軋む音が止み、完全な静寂が訪れる。

目を開けると、俺は中央広場に立っていた。空は見たこともないほどに澄み渡り、硝煙の匂いは消え、風はただ穏やかだった。俺の身体を覆っていた半透明の文字は、陽光に溶けるように一つ、また一つと消えていく。時間の跳躍は、もう起こらない。戦争は、終わったのだ。

人々が、家々から出てくる。彼らの顔には安堵が浮かんでいた。だが、どこか、何かが違っていた。広場の隅で、エリアナを見つけた。俺は彼女に駆け寄った。

「エリアナ!終わったんだ!」

彼女は俺を見て、不思議そうに首を傾げた。「……どなたですかな?」

その瞳には、かつて俺を捉えていた深い叡智の光はなく、ただ穏やかで、空虚な光が揺れているだけだった。人々は、互いに言葉を交わすこともなく、ただぼんやりと空を見上げている。喜びも、悲しみも、未来への希望も、過去への後悔も。戦争という強烈な感情の起伏を失った世界は、すべての原動力を失い、深い無気力に沈み込んでいた。

平和は訪れた。だがそれは、静かにすべてが停止していく、緩やかな死の始まりだった。

俺自身の身体も、完全に透明になっていた。誰の声も届かず、誰に触れることもできない。ただ、俺だけが覚えている。燃え盛る街を。兵士たちの最後の言葉を。エリアナの優しい眼差しを。この世界がかつて、痛みと愛に満ちていたことを。

俺は、この虚無の世界で、唯一すべての記憶を抱き続ける「最後の記録者」となった。透明な姿で、無気力な人々の間をすり抜ける。かつて激戦地だった場所に、瓦礫の間から一輪の赤い花が咲いているのが見えた。

触れることはできない。その温もりも、香りも、感じることはできない。

ただ、その鮮やかな赤色だけを、俺は、永遠に記録し続ける。


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