第一章 塹壕に響くアリア
夜はインクをぶちまけたように濃く、粘り気のある闇が塹壕の隅々まで満たしていた。リヒトは息を殺し、泥と硝煙の匂いが染みついた壁に背を預けていた。彼の耳には、高性能集音マイクに接続されたイヤホンが嵌められている。任務は「音」の収集。敵国である王国の兵士たちが発するあらゆる音――ライフルの整備音、疲れた溜息、故郷の訛りが混じる短い会話――それら全てが、連邦の戦争遂行のための貴重なデータとなる。
連邦と王国の戦争は、もう二十年も続いている。リヒトが生まれた時には既に始まっていたこの泥沼の戦いは、互いの国土を削り合い、若者の命を燃料にして、ただ惰性で続いているかのようだった。合理主義と科学を信奉する連邦にとって、伝統と芸術を重んじる王国は時代遅れの敵であり、その逆もまた然り。リヒトは連邦情報軍音響分析課、通称「音響師」。鋭敏な聴覚を買われ、敵の士気や部隊の動向を「音」から分析する特殊な諜報員だった。
ダイヤルをゆっくりと回す。ノイズの向こうに、聞き慣れた音が定位する。咳、金属が擦れる音、そしてすすり泣き。それはいつも通りの、戦争という名の巨大な機械から漏れ出す、軋みの音だった。リヒトは淡々と記録装置のスイッチを入れる。感情は不要。音はあくまで波形データであり、彼の仕事はそれを正確に採取すること。そう自分に言い聞かせ続けてきた。
その夜、全てが変わった。
不意に、全ての雑音が掻き消されるような、澄み切った声がイヤホンを満たした。それは歌だった。アカペラで歌われる、哀しくも美しい旋律。これまで収集したどの軍歌とも違う、祈りにも似た響きを持っていた。声の主は、おそらく若い女性だろう。その声は、凍てついた夜気を震わせ、泥にまみれた戦場に場違いなほどの神聖さをもたらしていた。リヒトは我を忘れ、その歌声に聴き入った。それは、遠い故郷の星空を思う歌のようだった。歌詞の意味は分からない。しかし、声に乗せられた切々たる想いは、言語の壁を超えてリヒトの胸を直接打った。
記録を終え、基地に戻ったリヒトは、収集した音源を中央分析AIにかける。AIは即座に結果を弾き出した。『識別コード774、通称“ローレライ”。王国兵士の士気維持に極めて重要な役割を果たすと推定。同時に、連邦兵士の士気を著しく低下させる危険性大。最優先排除対象としてマーキング』。
リヒトはモニターに表示された無機質な文字列を睨みつけた。排除対象。あの声が? 馬鹿な。あれは兵器などではない。あれは……人の魂そのものだ。その夜から、リヒトの世界は静かに軋み始めた。彼が信じてきた合理性と、耳の奥にこびりついて離れない歌声との間で。
第二章 血の通ったデータ
リヒトの日常は、「ローレライ」とAIが名付けたその歌声を中心に回り始めた。彼は毎晩、危険を冒して前線の観測地点に赴き、彼女の歌を収集した。それは任務のため、という大義名分をとうに逸脱した、個人的な渇望だった。彼は歌声の主を、心の中で「カナリア」と名付けた。炭鉱のカナリアのように、この地獄のような場所で、か細くも美しい声で生の証を告げているように思えたからだ。
カナリアのレパートリーは豊かだった。ある夜は幼子をあやす子守唄、またある夜は恋の成就を歌う陽気な歌、そして、豊かな収穫を祝う祭りの歌。リヒトはそれらを繰り返し聴き、王国の言葉を独学で学び始めた。歌の断片を繋ぎ合わせると、そこには連邦のプロパガンダが語るような野蛮な敵国の姿はなかった。畑を耕し、愛を育み、神に祈りを捧げる、ごく普通の人々の暮らしが浮かび上がってきたのだ。
彼が集めてきた「音」は、もはや単なるデータではなかった。すすり泣きは、友を失った兵士の悲しみ。荒い息遣いは、悪夢にうなされる若者の恐怖。そして、カナリアの歌は、失われた日常への尽きせぬ思慕。全ての音に、血の通った人間の顔が見えるようになった。
「素晴らしい成果だ、リヒト君」
上官のダリウスは、分厚いガラスの向こう側を指差して言った。防音室の中で、一人の王国軍捕虜が頭を抱えて蹲っている。リヒトが収集した様々な不快音――金属の摩擦音、瀕死の兵士の呻き声、赤ん坊の甲高い泣き声――それらを合成・増幅させた「不協和音兵器」の実験だった。捕虜は耳を塞ぎ、意味のない言葉を叫び続けている。
「君のデータのおかげで、我々は敵の精神を内側から破壊する術を手に入れた。銃弾一発使わずに、だ。まさに合理的だろう?」
ダリウスは満足げに笑った。リヒトは胃の腑が凍りつくのを感じた。自分が集めた兵士たちの苦しみが、新たな苦しみを生むための材料にされている。彼の鋭敏な耳は、ガラス越しでも捕虜の絶叫を聞き取っていた。その叫びは、いつか自分が記録した誰かの声と、恐ろしいほど似ていた。
罪悪感が、鉛のようにリヒトの心に沈殿していく。彼は自分の仕事の本質を、本当の意味で理解した。自分は音響師などではない。人々の心の叫びを盗み、それを凶器に変える、ただの墓荒らしだ。その夜、イヤホンから流れるカナリアの歌声は、まるでリヒト自身の罪を責める鎮魂歌のように聞こえた。
第三章 サイレント・レクイエム
転機は、あまりにも唐突に、そして最悪の形で訪れた。連邦軍司令部は、長きにわたる膠着状態を打破すべく、一大攻勢を決定した。その作戦の要となるのが、音響分析課が開発した新型兵器だった。
会議室のスクリーンに、兵器の設計図と名称が映し出される。
『特殊音響兵器 “サイレント・レクイエム”』
ダリウスが誇らしげに説明を始めた。「諸君、これは戦争の歴史を変える発明だ。我々は、敵の精神的支柱となっている歌、リヒト君が発見した“ローレライ”の歌声の音響データを徹底的に分析した。そして、その歌声と完全に逆位相の波形を作り出すことに成功した」
リヒトは息を呑んだ。逆位相。それは、二つの波が重なり合うことで互いを打ち消し、音を「無」にする技術だ。
「攻勢開始と同時に、これを戦場全域に流す。王国兵がいつものように歌い始めても、その声は誰の耳にも届かない。彼らの心の拠り所である歌は、虚空に消える。さらに、歌が消えた空白の周波数帯に、我々が開発した特殊な不快超低周波を乗せる。歌おうとすればするほど、彼らの脳を直接揺さぶる苦痛が襲うのだ。歌を愛する彼らだからこそ、効果は絶大だ。希望は沈黙に変わり、沈黙は恐怖に変わる。彼らは自らの文化によって滅びるのだ」
会議室は、称賛と興奮のどよめきに包まれた。リヒトだけが、血の気を失い、拳を固く握りしめていた。
自分が愛した、あのカナリアの歌声が。
人々を繋ぎ、心を癒してきたあの旋律が。
最も残酷な形で、人々を傷つけるための道具にされようとしている。自分が収集したせいで。自分が、あの歌声を見つけてしまったせいで。
後悔と絶望が、リヒトの全身を叩きのめした。しかし、そのどん底で、一つの狂気にも似た決意が芽生えた。もし、音で人の心を破壊できるというのなら。その逆もまた、可能なはずだ。音で、人の心を繋ぐことも。
攻勢開始は四十八時間後。リヒトに残された時間は僅かだった。彼は自分の研究室に閉じこもり、鍵をかけた。これまでに収集した全ての音源データ――連邦と王国、両国の兵士たちの声、故郷を語る言葉、笑い声、嘆きの声、そして、カナリアが歌った全ての歌――その膨大なアーカイブに、彼はたった一人で向き合った。
彼の指が、猛烈な勢いでキーボードを叩き始める。それは反逆だった。そして、彼にできる唯一の、音響師としての贖罪だった。一つの音も聞き漏らさぬよう、ヘッドホンを深く装着する。これから彼が紡ぐのは、弔鐘でも軍歌でもない。戦場に響かせるべき、たった一つの音だった。
第四章 生活の交響曲
夜明け。東の空が、血を滲ませたように白み始めた。連邦軍の攻勢開始を告げる号砲が、大地を揺るがす。リヒトは、中央音響制御室の片隅で、その時を待っていた。彼の顔は蒼白だったが、その瞳には嵐の前の静けさが宿っていた。
「“サイレント・レクイエム”、発動!」
ダリウスの号令と共に、巨大なスピーカー群が起動する。戦場に、死のような沈黙が訪れるはずだった。
しかし、響き渡ったのは、静寂ではなかった。
最初に聞こえたのは、赤ん坊の産声だった。か細く、しかし生命力に満ちたその声は、砲声の合間を縫って、敵味方の区別なく全ての兵士の耳に届いた。続いて、母親が優しくあやす声。それは連邦の言葉だった。次に、父親が子供を肩車して笑う声。それは王国の言葉だった。
ダリウスが愕然としてリヒトを振り返る。「貴様、何をした!」
リヒトは何も答えず、ただ目を閉じてその音に聴き入っていた。彼が流したのは、彼が創り出した「生活の交響曲」だった。連邦兵が故郷の母に宛てて読み上げた手紙の声。王国兵が、まだ見ぬ我が子の名を恋人に語る囁き。市場の賑わい。子供たちのはしゃぎ声。雨が窓を打つ音。パンが焼ける香ばしい音を想像させる、台所の音。
それらは巧みに編集され、一つの壮大な音楽のように戦場に流れ続けた。プロパガンダではない。英雄譚でもない。ただ、誰もが知っている、そして誰もが失ってしまった、ありふれた日常の音だった。
最前線で銃を構えていた兵士たちが、戸惑ったように顔を上げる。その音は、彼らが守るべきものの正体を、そして殺そうとしている相手もまた同じものを守ろうとしているという事実を、残酷なまでに優しく突きつけていた。
そして、交響曲のクライマックスに、カナリアの歌声が響き渡った。しかし、それは単独の歌ではなかった。連邦の古い民謡のメロディと不思議な調和を奏で、二つの文化が溶け合うかのように、全く新しい一つの歌として昇華されていた。
攻撃の手が、あちこちで止まった。誰かが銃を下ろす。すすり泣く者もいた。憎しみと恐怖に支配されていた戦場は、奇妙な静寂と、共有された郷愁に包まれた。
リヒトの反逆は、すぐに鎮圧された。彼はその場で兵士たちに取り押さえられ、独房へと連行された。彼の行為が直接戦争を終わらせたわけではない。政治家たちは、この不可解な「停戦」をそれぞれの都合のいいように解釈し、新たな交渉のテーブルにつくだろう。
数日後。処罰を待つリヒトの、冷たい石造りの独房の小さな窓から、微かな音が聞こえてきた。それは歌声だった。撤退していく兵士たちが歌っているのだ。驚くべきことに、それは一つの歌ではなかった。王国の兵士がカナリアの歌を歌えば、隣を歩く連邦の兵士が、その旋律に自国の民謡を重ねて口ずさんでいる。不格好で、不揃いだが、確かに響き合っていた。
リヒトは、鉄格子の向こうに広がる空を見上げ、静かに微笑んだ。自分は間もなく消されるだろう。しかし、自分が命と引き換えに放った音は、確かに人々の心に届いた。音はいつか消える。だが、一度生まれたハーモニーの記憶は、誰にも消すことはできない。
彼の耳には、戦場から生まれ出たその新しい歌が、世界で最も美しい賛歌のように響いていた。