欠けた世界で、君と

欠けた世界で、君と

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第一章 静かな侵食

水島蓮の一日は、古書の匂いと静寂から始まる。市立図書館の司書である彼にとって、規則正しく並んだ背表紙と、ページをめくる微かな音だけが支配するこの空間は、世界の他のどんな場所よりも落ち着く聖域だった。彼は几帳面な男で、自分の周囲にあるものの配置を、ほとんど無意識のうちに記憶している。だから、気づいてしまったのだ。世界が静かに、しかし確実に「欠けて」いっていることに。

最初の違和感は、月曜日の朝に訪れた。児童書コーナーの片隅、窓際に置かれていたはずの大きな地球儀が、忽然と姿を消していた。昨日までは確かにそこにあった。子供たちが指で大陸をなぞり、くるくると回して遊んでいた光景が、鮮明に脳裏に焼き付いている。

「あれ、田中さん。ここの地球儀、どこかに移動させましたか?」

カウンターに座る同僚に尋ねると、彼女はきょとんとした顔で蓮を見た。

「地球儀? ここにそんなもの、ありましたっけ? 蓮さん、何かと勘違いしてませんか」

その言葉は、まるで冷たい水滴のように蓮の首筋を伝った。勘違い? あの、ニスが剥げかけた木製の台座と、鮮やかな青い海が描かれた球体を、見間違えるはずがない。だが、田中だけでなく、他の職員に聞いても反応は同じだった。誰も、地球儀の存在を覚えていない。まるで、最初からこの世界に存在しなかったかのように。

火曜日、街角の赤い郵便ポストが消えた。水曜日、公園のブランコが一基だけ消えた。木曜日には、彼が毎朝利用していた駅のキオスクが。金曜日には、空を飛ぶ「ツバメ」という鳥が。

消えるものは、日を追うごとにその存在感を増していった。そして、その度に蓮は周囲の人々に確認するが、結果はいつも同じだった。冷ややかな視線と、「そんなもの、あったかしら」という曖昧な返事。世界は、蓮の記憶だけを取り残して、滑らかに自己修正していくようだった。

蓮は恐怖に駆られた。これは自分だけの狂気なのだろうか。それとも、世界の方が狂ってしまったのか。彼は自分の正気を保つため、一つの決意をする。消えてしまったものを、誰にも奪われないように記録し続けるのだ。週末、彼は画材店で一番大きなスケッチブックと、何種類もの鉛筆を買い揃えた。世界との、孤独な戦いの始まりだった。

第二章 記憶のスケッチブック

蓮の日常は、その日から一変した。昼間は司書として働き、夜はアパートの小さな机で、消えたものの姿をスケッチブックに描き留める。それは祈りにも似た作業だった。

地球儀の丸みと大陸の輪郭。郵便ポストの投函口の冷たい感触。ブランコの軋む音と、空へ舞い上がる瞬間の浮遊感。キオスクで売られていた新聞のインクの匂い。ツバメの、空を切り裂くような鋭いシルエット。彼は五感を総動員して、失われたもののディテールを必死に紙の上へ蘇らせた。

「これは『電話ボックス』。雨宿りをしながら、好きな人に電話をかけるための小さな部屋だ。受話器はひんやりと重い」

「これは『カセットテープ』。音楽を聴くためのもので、鉛筆で巻き戻したりした」

「これは『ラムネ』。ガラス玉を押し込む時の、あの胸のすくような音が特徴だ」

スケッチブックは、あっという間に奇妙な博物誌の様相を呈していった。誰も知らない、蓮だけの世界の記録。彼はこのスケッチブックを誰にも見せなかった。見せたところで、正気を疑われるだけだと分かっていたからだ。友人との会話も、次第に噛み合わなくなっていった。共通の思い出を語ろうとしても、その土台となる「物」が、相手の記憶からは綺麗に消え去っている。彼はゆっくりと、しかし確実に孤立していった。

降りしきる雨の匂いが、窓ガラスを濡らす。蓮はペンを置き、淹れたてのコーヒーの湯気を吸い込んだ。このコーヒーも、いつか消えてしまうのだろうか。マグカップの温かさも、この苦くて香ばしい味も、世界から失われてしまうのだろうか。その考えは、底なしの沼のように彼を引きずり込む。

なぜ、自分だけが覚えているのか。この現象は何なのか。答えのない問いが、彼の心を蝕んでいく。スケッチブックをめくる指が、微かに震えていた。そこに描かれた無数の「喪失」は、彼が正常であることの唯一の証明であり、同時に、彼がこの世界でたった一人であることの残酷な証でもあった。

第三章 色褪せた写真

現象が始まってから、半年が過ぎた頃。その日、世界から消えたのは「ペンダント」だった。ありふれた、ハートの形をした銀色のペンダント。蓮は、いつものようにその形をスケッチブックに描き写しながら、胸の内に奇妙な疼きを感じていた。なぜか、このペンダントには見覚えがある。いや、見覚えがある、という感覚自体が、最近では日常になっていた。しかし、今回は何かが違った。心の奥底、記憶の井戸の底から、何かが手招きしているような、切ない感覚。

その疼きに導かれるように、蓮は実家の物置に足を踏み入れた。両親が亡くなって以来、ほとんど開けたことのない、埃と古い木の匂いが充満する場所だ。目的もなく、ただ何かに呼ばれるように段ボール箱を開けていく。やがて、一つの古びたアルバムが目に留まった。

ページをめくると、色褪せた写真が並んでいる。幼い頃の、自分。笑顔の両親。そして――蓮の指が、一枚の写真の上で止まった。

夏の日差しの中、向日葵畑で笑う五歳くらいの自分。その隣には、同じくらいの歳に見える、おさげ髪の少女が立っていた。蓮は、その少女に見覚えがなかった。親戚だろうか。しかし、それにしては親密すぎる距離で、二人は手を繋いでいる。

蓮の視線は、少女の胸元に吸い寄せられた。そこには、今日世界から消えたはずの、ハートの形の銀色のペンダントが、キラリと光っていた。

その写真に指が触れた瞬間、世界がぐらりと揺れた。激しい頭痛と共に、脳内で固く閉ざされていた扉が、軋みを立てて開いていく。

――『お兄ちゃん、これ、宝物なんだ』

――『見て、お揃いだよ』

――『ずっと一緒だよ』

断片的な声。蝉時雨。アイスキャンディーの甘い味。そして、ブレーキの甲高い音と、誰かの悲鳴。

蓮は、その場に崩れ落ちた。思い出した。全て、思い出した。

彼女は、双子の妹の「海(うみ)」だ。活発で、いつも蓮の後ろをついてきた、太陽のような少女。あの夏の日、二人は交差点でトラックにはねられた。蓮は奇跡的に助かったが、海は……。

あまりの衝撃に、蓮は海の存在そのものを記憶の奥底に封印してしまったのだ。両親も、その悲しみに耐えきれず、家から海の写真を一枚残らず片付け、蓮の前で彼女の話題を口にすることはなかった。そうして、蓮の世界から海は「いなかったこと」にされた。

涙が、止めどなく溢れた。嗚咽が漏れる。

そうか。世界から物が消えていたのではない。

俺の心が、無意識に、海との思い出に繋がるものを、この世界から消し去っていたんだ。

地球儀は、二人で「世界中を旅しようね」と約束しながら眺めたもの。ブランコは、どちらが高く漕げるか競い合った場所。ツバメは、海が好きだった鳥。ペンダントは、誕生日にお揃いで買ってもらった、二人の宝物。

世界が歪んでいたのではない。俺の心が、世界を歪めていた。誰もが覚えていないのは、俺の絶望が、他人の記憶さえも書き換えるほどに、深かったからだ。

第四章 欠けた世界で、君と

真実を知った蓮は、何日も部屋に閉じこもった。妹を忘れ去っていた罪悪感と、彼女を二度もこの世界から消してしまったという絶望が、津波のように彼を襲った。スケッチブックに描かれた「喪失」の数々は、彼が海をどれほど愛していたかの証であり、同時に、彼が犯した罪のリストでもあった。

しかし、不思議なことに、あの日以来、世界から物が消える現象はぴたりと止まっていた。記憶の蓋が開いたことで、無意識の「消去」は役目を終えたのかもしれない。

数週間後、蓮は意を決して、古びたアルバムを抱え、海の墓の前に立っていた。海沿いの、小さな丘の上にある墓地。潮風が、蓮の頬を優しく撫でていく。

「海…ごめん。ごめんな、忘れてて」

声は震えていた。

「俺、お前のこと、大好きだったんだ。だから、いなくなったことが耐えられなくて…。でも、もう忘れない。お前が好きだったもの、二人で話したこと、全部、俺が覚えているから」

彼は墓石に語りかけるように、スケッチブックのページを一枚一枚めくっていった。

「これは地球儀だ。お前、ブラジルに行きたいって言ってたよな」

「これはブランコ。お前の方が、いつも高く飛んでた」

「このペンダント、覚えてるか。俺のやつは、事故の時になくしちゃったんだ。でも、お前のペンダントは、俺の心の中にずっとあったんだな」

語り終えた時、蓮の心は不思議なほど穏やかだった。悲しみは消えない。罪悪感も、完全にはなくならないだろう。だが、それら全てを抱きしめて、生きていこうと、彼は思った。

消えてしまった地球儀も、ブランコも、ペンダントも、二度と世界に戻ることはない。世界は、蓮が失った思い出の分だけ、少しだけ「欠けた」ままなのだ。

だが、蓮はもう孤独ではなかった。彼の内側には、確かに海が生きている。失われたものの「不在」が、かえって彼女の存在を鮮やかに縁取っていた。

翌日、蓮は図書館に出勤した。児童書コーナーの、かつて地球儀があった場所は、今も空っぽのままだ。しかし、その何もない空間が、蓮にはもう空虚には見えなかった。そこには、妹と交わした約束の温もりが満ちている。

世界は不完全で、欠けている。でも、だからこそ愛おしい。

蓮は、その欠けた世界の片隅で、失われたものの記憶を抱きしめて、新たな日常を歩み始めた。彼の心の中の海と共に。ふと窓の外を見ると、青い空がどこまでも広がっていた。その青は、かつて地球儀で見た海の色によく似ていた。

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