忘却の空、始まりの塵

忘却の空、始まりの塵

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第一章 完璧な反復

午前六時三十分。アラームが鳴る三秒前に、蒼井朔の意識は浮上する。これは彼の日常における最初の儀式だ。寸分の狂いもなく始まる一日は、彼にとって世界の秩序そのものだった。ベッドから降りる足は必ず右から。冷たいフローリングの感触が、今日も一日が始まったことを告げる。

キッチンでは、自動的に手が動く。トースターにパンをセットし、焼き時間はきっかり二分二十秒。その間にコーヒーを淹れる。豆は昨日と同じ棚の同じ場所から取り出し、同じ量の湯を同じ速度で注ぐ。こんがりと焼けたトーストにバターを塗り、サク、という軽快な音を立てて一口。窓の外では、灰白色の粒子が雪のように舞っていた。『記憶の塵』。最近、世界中で観測されるようになった現象だ。専門家たちは、人々が忘れた些細な記憶が結晶化したものではないかと、詩的な仮説を立てていた。人々はそれを、儚く美しい、無害な自然現象として受け入れていた。

朔は塵に目を向けない。ただ、完璧なルーティンをこなす。通勤電車は七時十五分発。前から三両目、左から二番目のドア。座席はいつも同じ角の席だ。図書館に着くと、彼は本の背表紙を指でなぞりながら書架を整える。その指先の感触、古紙とインクの混じった匂い、しんと静まり返った空間に響く自分の足音。全てが、彼を構成する音符だった。

この完璧なルーティンを完遂した日、その一日は『存在しなかったこと』になる。世界は翌朝、何事もなかったかのように昨日を繰り返す。人々はその日に関する記憶を全て失うが、朔の記憶だけは、年輪のように静かに刻まれていく。彼にとって、それは呪いであり、唯一の救いでもあった。失敗した一日を、不愉快な出来事を、何度でもやり直せるのだから。

第二章 空白の新聞

朔のアパートの部屋には、開かずの引き出しがあった。そこには、彼が『消した』日々の証が眠っている。日付の欄だけが奇妙に空白になった新聞の束。インクはまだ新しく、紙はぱりっとしている。目を凝らせば、その日に起こったはずの世界の出来事が、陽炎のように文字の形で揺らめいているのが見える。だが、それをはっきりと読み解くことは誰にもできない。朔自身にさえも。

その日、彼はいつもの帰り道、駅前の小さな花屋の前で足を止めた。ルーティンにはない行動だった。店先で水をやっていた女性が、彼に気づいて微笑む。

「こんばんは。いつも通られますよね」

「……ええ」

「このスノードロップ、可愛くないですか? 毎日見てると、少しずつ蕾が膨らんでくるのがわかるんです。同じようで、毎日違う。それが嬉しいんですよね」

陽菜と名乗る彼女の言葉が、朔の胸に小さな石を投げ込んだ。毎日違うことの、喜び。朔が最も恐れ、そして遠ざけてきたものだ。彼は曖昧に頷くと、足早にその場を去った。

しかし、その夜、ベッドの中で朔は陽菜の言葉を反芻していた。机の引き出しに眠る、何百枚もの空白の新聞。それは彼が生きてきた証であり、同時に、彼が生きなかった日々の墓標でもあった。バターの焦げた日、電車に乗り遅れた日、陽菜に声をかけられて戸惑った日。それらは全て、完璧な反メロディーとして消去された。もし、あのまま一日を終えていたら、何かが変わっていただろうか。初めて、彼の完璧な世界に疑問の亀裂が走った。

第三章 静止する世界

『記憶の塵』は、もはや美しいだけの現象ではなくなっていた。塵が濃く降り積もった場所で、時間が凍り付くという報告が相次ぐようになる。公園の噴水は、放たれた水が空中で静止し、人々は同じ会話、同じ仕草を永遠に繰り返す生きた彫像と化していた。世界はまだら模様に、過去の断片へと変貌しつつあった。

朔は恐怖と共に、ある事実に気づいていた。『静止した時間』の領域は、決まって彼が強い後悔と共に一日を『消した』場所の近くで発生していた。取引先との会話で失言した上司が頭を抱え続けるオフィス街。恋人に別れを告げられた学生が佇む駅のホーム。それらは全て、朔が目撃し、不快に思い、リセットの引き金とした光景だった。

彼の『消された日常』が、世界の時間を蝕んでいた。

ある日の夕方、朔は信じられない光景を目にする。陽菜の花屋の周りに、ひときわ濃密な『記憶の塵』が渦を巻き始めていた。空気が粘性を帯び、陽菜が花に水をやる動きが、フィルムをスロー再生したかのように緩慢になっていく。彼女が、彼女の愛した「少しずつ違う毎日」が、永遠に同じ一瞬に閉じ込められようとしていた。朔の心臓が、冷たい手で鷲掴みにされたかのように軋んだ。守らなければ。しかし、どうやって?

第四章 塵の源泉

テレビから流れるニュースが、朔の疑いを確信に変えた。一人の物理学者が、仮説として語っていた。

「『記憶の塵』は、単なる忘却の産物ではありません。これは、ある特定の、極めて強力な『この一日は無かったことにしてほしい』という意思が生み出す、現実改変の副作用である可能性が…」

俺だ。俺のせいだ。

朔は衝動的にキッチンへ向かった。ルーティンを、この呪いを、壊さなければ。いつもと違う一日を生きれば、何かが変わるかもしれない。コーヒーではなく、紅茶を淹れよう。棚からティーカップを取り出そうとした、その時。彼の身体が、意思に反して硬直した。指が震え、馴染んだコーヒーカップへと伸びようとする。違う、そっちじゃない! 内なる叫びも虚しく、長年かけて身体に刻み込まれた完璧な手順が、彼の意志をねじ伏せようとする。抵抗した腕が痙攣し、ティーカップが床に落ちて甲高い音を立てて砕けた。

絶望が朔を支配する。このルーティンは、もはや彼の意識を超えた呪縛となっていた。意図的に崩すことなど不可能だ。だとしたら、残された道は一つしかない。塵の源泉である、自分自身という存在を、この世界から完全に消し去ること。それが、世界を、そして陽菜を救う唯一の方法だった。

第五章 最後のルーティン

決意を固めた朔の心は、不思議なほど静かだった。自分という存在を消し去る方法は、ただ一つ。最後にもう一度だけ、完璧なルーティンを完遂する。そうすれば、その日を生きた『蒼井朔』は存在しなかったことになり、その存在の起点そのものが世界から抹消されるはずだ。

午前六時三十分。彼は三秒前に目を開けた。最後の一日が始まる。

彼は全ての動作を、まるで初めて行うかのように、五感を研ぎ澄ませて味わった。フローリングの冷たさ。トーストが焼ける香ばしい匂い。コーヒーの苦みが舌の上で広がる感覚。窓の外で舞う『記憶の塵』は、もはや彼を責める雪ではなく、彼が見送るための紙吹雪のように見えた。

通勤電車に揺られながら、彼は車窓の風景を目に焼き付けた。いつもと同じ家々、同じ人々。彼が守ろうとしている、かけがえのない『何でもない日常』。図書館では、本の背表紙を一つ一つ愛おしむように撫でた。これは、彼が世界と繋がる唯一の方法だった。

帰り道、彼は陽菜の花屋の前を通った。彼女は、まだ緩慢な時間の中で、懸命に花に水をやっていた。その姿は、まるで停滞する世界に抗う、ささやかで、しかし強い生命そのものに見えた。

「さようなら」

声には出さず、心の中だけで呟く。彼女が彼を知ることはもうない。それでいい。それが、彼が彼女に贈ることのできる、唯一の未来なのだから。

自室に戻り、最後の儀式を終える。午後十一時五十九分。ベッドに横たわり、静かに目を閉じる。秒針の音が、彼の存在の終わりを告げていた。ありがとう、僕が生きた、そして生きなかった、全ての日々よ。

第六章 始まりの混沌

世界が、消えた。

いや、白光に塗りつぶされた。朔の意識が霧散し、無に還ろうとした、その瞬間。

世界は、溢れた。

彼が『存在しなかったこと』にした、何百、何千という無数の日常が、堰を切ったように別の次元から流れ込んできた。それは『静止した時間』ではなかった。トーストを焦がした朝も、電車に乗り遅れた朝も、陽菜とぎこちなく言葉を交わした午後も、全てが等しい価値を持って、この一つの世界に同時に存在し始めたのだ。

空から降る『記憶の塵』は、灰白色から、見たこともない無数の色彩を放つ光の粒子へと変わった。それは『忘却』の残滓ではなく、無限の『可能性』の芽吹きだった。街は、予測不可能な奇跡で満たされていく。アスファルトの裂け目から虹色の花が咲き、ビルの壁を伝って銀色の魚の群れが天へと昇っていく。人々は戸惑い、空を見上げて立ち尽くしていた。安定した日常は失われた。だが、世界は停滞から解放されたのだ。

朔は、消えていなかった。彼は混沌の中心に、呆然と立っていた。彼という個は消え去り、彼が生きた無数の可能性の集合体として、この新しい世界に再定義されていた。固定された『蒼井朔』ではなく、これから何にでもなれる、名もなき始まりとして。

ふと、彼は視線を感じた。すぐ近くに、陽菜が立っていた。彼女の周りだけ、時間が正常に戻っている。彼女は、空を泳ぐ魚たちに目を輝かせ、そして戸惑いながらも、目の前にいる朔を見て、小さく首を傾げた。

「あの……どこかで、お会いしましたか?」

記憶はない。だが、魂のどこかで、彼の存在の断片を感じ取っているのかもしれない。

朔は、初めて浮かべる、不器用な笑みを彼女に向けた。

「いいえ。はじめまして」

彼は、混沌に満ちた、予測不可能な世界に向かって、初めて本当に自分の意思で、最初の一歩を踏み出した。

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