欠落の標本箱

欠落の標本箱

17 4709 文字 読了目安: 約9分
文字サイズ:
表示モード:

第一章 空白のメニュー

「お客様?」

店員の不審げな声が、鼓膜をこじ開けるように響いた。

僕は弾かれたように顔を上げる。

目の前には、引きつった笑みを浮かべる若い女性。

視線を再び手元のメニューへ落とす。ラミネート加工された表面が、店内の照明を反射して白く光っている。

「……ここだ」

指先が震える。喉の奥が張り付き、言葉がうまく出てこない。

「ブレンドコーヒーと、アールグレイの間。この行間が、おかしい」

僕はメニューの一点を爪で叩いた。

カツ、カツ、と乾いた音がする。

「ここには、昨日まで『何か』があったはずなんだ」

文字と文字の間の、ほんの数ミリの余白。

そこに存在したはずのインクの黒み、フォントのカーニング、商品名の響き。それらがごっそりと抉り取られている。

一般人の目にはただの空白だろう。だが僕の目には、そこが底なしのクレバスのように見えていた。

店員は困惑し、助けを求めるようにカウンターの方をチラリと見た。

「当店のメニューは半年間変更しておりませんが……」

「違う。昨日はあった。名前は……」

記憶の海を手探りする。

舌の裏側まで出かかっている。焦げたキャラメルのような、あるいはもっと重く湿った土のような名前。

だが、思い出そうとするたびに、脳内の回路がショートするように思考が白く飛ぶ。

「……もういい。ブレンドを」

「は、はい。かしこまりました」

店員が逃げるように去っていく。

彼女の背中を見送りながら、僕は鞄から手帳を取り出した。

使い込まれ、手油で黒光りする革表紙。

僕はテーブルの隅、シュガーポットの影に落ちていた「それ」を拾い上げた。

一見すれば、ただの消しゴムのカスか、灰色の埃に見えるだろう。

けれど、指先で摘まみ上げると、微かに焦げ臭い匂いがした。

間違いない。

これは、世界から削ぎ落とされた『あのメニュー』の残骸だ。

僕は手帳を開く。

ページの間には、奇妙なコレクションが並んでいる。

干からびた虫の羽、錆びたワッシャー、誰かの衣服から千切れた繊維。

どれも、世界から「無かったこと」にされたモノたちの墓標だ。

「また、欠けた」

埃のような残骸をページに押し込み、指の腹で潰す。

僕の世界は、精巧なジグソーパズルからピースが脱落するように、少しずつ崩壊している。

この完璧で美しい日常が、音もなく空洞化していく。

気づいているのは、世界で僕だけだ。

第二章 剥落する壁紙

帰り道、夕闇がアスファルトを灰色に染めていく。

マンションのエントランスをくぐると、管理人の老婆がモップをかけていた。

「あら、おかえりなさい。香月さん」

「……どうも」

会釈をして通り過ぎようとした瞬間、強烈な違和感に足が止まった。

エントランスホールの壁に掛かっている、大きな姿見。

「管理人さん」

「はい?」

「あの鏡、あんなに曇っていましたっけ」

僕は指差した。

磨き上げられた鏡面であるはずの場所に、黒い煤のようなモヤがかかっている。

自分の顔が映るはずの位置が、どす黒く塗りつぶされている。

老婆は不思議そうに鏡を覗き込み、そして僕を見た。

その瞳には、憐れみのような色が混じっていた気がした。

「香月さん、鏡はピカピカですよ? 今朝拭いたばかりですから」

「……え?」

もう一度見る。

黒いモヤは消えていた。

ただ、僕の顔色が死人のように青白いことだけが、鮮明に映っている。

「……すみません。疲れているみたいだ」

「無理なさらないでね。あんなことがあったばかりなんだから」

「あんなこと?」

問い返そうとしたが、老婆はすでに背を向け、モップを動かし始めていた。

僕は逃げるようにエレベーターに乗り込む。

部屋に戻り、三つの鍵をすべて施錠する。

金属音が重く響いて初めて、肺の空気を入れ替えることができた。

リビングを見渡す。

完璧だ。

白で統一された家具。高さ順に並んだ洋書。リモコンはテーブルの縁と並行に、ミリ単位のズレもなく整列している。

埃一つないフローリングは、モデルルームのように輝いている。

この秩序だけが、僕の精神を繋ぎ止めるアンカーだった。

キッチンで水を飲もうとした時だった。

コップを持つ手が止まる。

冷蔵庫に貼っていたメモ。

『クリーニング 土曜まで』と書かれた付箋の隣。

そこには、マグネットで留められた写真があったはずだ。

風景写真か、あるいは誰かのスナップか。内容は思い出せない。

だが、確かにそこには長方形の色彩があった。

今は、ない。

ただ、マグネットだけが、白い扉にへばりついている。

「……近づいている」

背筋に冷たいものが走る。

メニューが消えた。

鏡が曇った。

そして今、家の中まで「欠落」が侵入してきた。

僕はリビングへ戻り、ソファに座り込む。

ふと、壁紙の継ぎ目が目に入った。

完璧に貼られた真っ白なクロスの端が、ほんの少し捲れ上がっている。

指で押さえて直そうとした。

その時、捲れた隙間から、強烈な熱気が噴き出した気がした。

ヒュウ、と風を切る音と共に、鼻をつく異臭。

古い油と、焦げた髪の毛の匂い。

「っ!」

慌てて手を引っ込める。

指先を見ると、煤で真っ黒に汚れていた。

恐る恐るもう一度壁を見る。

そこには、ただ白い壁紙があるだけだ。汚れなどない。

幻覚か?

いや、違う。僕の手指には、確かに黒い粉が付着している。

この部屋の「白さ」の下に、何かが埋まっている。

ズズッ、と何かが引きずられるような音が、廊下の奥から聞こえた。

音の発生源は、突き当たりの納戸だ。

第三章 焦熱の記憶

深夜二時。

部屋の空気は粘度を増し、呼吸するたびに肺が重くなる。

僕は廊下の前に立っていた。

突き当たりにある納戸。

入居してから一度も開けたことのない、「開かずの間」。

不動産屋は物置だと言っていたし、僕もそのつもりでいた。中には段ボールが詰まっているだけだと。

だが今、ドアの隙間から、赤い光が漏れているように見える。

明滅する赤。

そして、パチ、パチという、爆ぜる音。

『開けるな』

本能が警鐘を鳴らす。

このドアの向こうには、僕の「完璧な世界」を根底から覆す毒が詰まっている。

しかし、体は勝手に動いた。

知らなければならない。

あのメニューにあった空白も、鏡の曇りも、壁紙の下の煤も、すべての答えがここにある。

僕は冷たいドアノブを握りしめた。

回す。

錆びついた金属が悲鳴を上げ、ドアが開く。

熱風。

顔の皮が縮むほどの熱波が、僕を襲った。

「うわッ……!」

僕は腕で顔を覆い、後ずさる。

そこは、納戸ではなかった。

焼け落ちた子供部屋だ。

黒く炭化した柱。

熱でドロドロに溶解したプラスチックの塊――かつてロボットの玩具だったもの。

天井は抜け落ち、夜空ではなく、コンクリートの梁が肋骨のように剥き出しになっている。

「な、なんだこれは……ここは僕のマンションだぞ……?」

足を踏み入れる。

靴の裏で、ガラス片か炭がジャリジャリと砕ける音がした。

その音は、鼓膜ではなく、脳の奥にある記憶の蓋を直接叩き割った。

――熱い! 熱いよ母さん!

七歳の僕の絶叫が、頭蓋骨の中で反響する。

そうだ。あの日。

僕が隠れて火遊びをした、ライターの青い炎。

カーテンに燃え移った火は、生き物のように壁を這い上がり、瞬く間に「幸せな家」を飲み込んだ。

僕は足元の灰の中に、四角いものを見つけた。

奇跡的に焼け残った、一枚の写真フレーム。

ガラスは割れ、中の写真は茶色く変色している。

拾い上げようとして、指先が触れた瞬間。

ジッ、と肉が焼ける音がした気がした。

「あつッ!」

手を引っ込めるが、視線は写真に吸い寄せられたままだ。

そこに写っているのは、笑顔の父と母。

そして真ん中の子供――僕の顔だけが、黒い焦げ跡で焼き切れている。

鼻腔を満たすのは、ゴムの焼ける悪臭と、肉の焼ける甘い匂い。

それらが嘔吐感と共に喉元までせり上がる。

「違う……僕は、一流企業に勤めて、高級マンションに住んで……完璧に、暮らしているんだ……」

呟く声が震える。

視界が歪む。

目の前の「焼け跡」と、背後の「白い廊下」が混ざり合う。

僕はずっと、この廃墟に住んでいたのだ。

ボヤを起こし、両親を失い、親戚をたらい回しにされた果てに住み着いた、安アパートの薄汚れた一室。

その惨めな現実を、脳が拒絶した。

薄汚れた壁を「白」と認識し、煤けた臭いを「コーヒーの香り」に変換し、孤独を「高潔な静寂」だと錯覚して。

だが、限界だった。

綻びはメニューの空白から始まり、ついにこの焦げた真実を暴き出した。

僕は膝から崩れ落ちる。

灰まみれの床に手をつき、むせ返るような煤の匂いを吸い込んだ。

「……そうだ。全部、僕が燃やしたんだ」

僕は震える手で、足元の灰を一掬いした。

手帳を開く。

最後のページに、その灰を擦りつける。

白かったページが、汚く、黒く、取り返しのつかない色に染まっていく。

最終章 灰色のコーヒー

朝、鳥の声で目が覚めた。

カーテンの隙間から差し込む光は、埃の中を斜めに切り裂いている。

体を起こすと、ベッドのスプリングがギシギシと不快な音を立てた。

見渡す部屋に、あのモデルルームの面影はない。

壁紙はヤニと煤で黄ばみ、所々剥がれ落ちている。

高さ順に並んでいたはずの本は、古本屋で買った安いペーパーバックが無造作に積まれているだけだ。

床には綿埃が転がり、テーブルの上の「完璧な配置」のリモコンは、ただの薄汚れたプラスチックの塊だった。

「……寒い」

僕は掠れた声で呟いた。

暖房の効いた快適な空間など、どこにもない。

隙間風が足元を冷やしている。

キッチンへ向かう。

シンクには洗い残しの皿が数枚。

僕は棚からマグカップを取り出した。

縁が大きく欠け、茶渋のこびりついた白いカップ。

昨日はこれを「ビンテージの逸品」だと思い込んでいた気がする。

やかんで湯を沸かし、インスタントコーヒーの粉を溶かす。

香りは薄く、どこか金属臭い。

一口啜る。

泥水のように苦く、そして温い。

「不味いな……」

カップを置く手が震え、茶色い飛沫がテーブルに散った。

拭こうとも思わなかった。

この染みこそが、今の僕にお似合いだ。

手帳がテーブルの隅に置かれている。

分厚く膨らんだ革表紙。

中には、ゴミとガラクタと、灰が挟まっているだけ。

それが僕の人生のすべてだった。

「標本」なんて高尚なものじゃない。ただのゴミ溜めだ。

コンコン、とドアがノックされた。

「香月さん? 家賃の件だけど、今日払えるのかい?」

管理人の、少し刺々しい声。

昨日の優しい老婆の声とは似ても似つかない。

あれもまた、僕の都合の良い妄想だったのだろう。

「……今、行きます」

僕は立ち上がる。

膝が重い。体中が鉛のように気怠い。

心臓のあたりが、焼け焦げたようにヒリヒリと痛む。

この痛みは、消えないだろう。

美しい世界はもう二度と戻らない。

あるのは、薄汚れて、寒くて、臭くて、面倒な日常だけだ。

僕は欠けたカップに残ったコーヒーを、一気に喉に流し込んだ。

ザラついた粉が舌に残る。

その不快さを噛み締めながら、僕はドアノブに手をかけた。

AIによる物語の考察

1. 登場人物の心理
主人公・香月は、過去の火事と両親の死というトラウマから逃避するため、脳内で「完璧な日常」を創造し、自己欺瞞に陥っていた。「欠落」は、その虚構の世界が現実の圧力で崩壊していく過程であり、記憶再生への抵抗と苦悩を表す。

2. 伏線の解説
メニューの焦げた匂いや壁紙の熱気、納戸の赤い光は、抑圧された火事の記憶の具現化。管理人の言葉や鏡の変調は、香月の精神状態と現実との乖離を暗示し、物語終盤でアパートの薄汚れた現実が露呈する予兆となる。

3. テーマ
本作は、自己欺瞞と、過去のトラウマから目を背ける危険性を問う。完璧な世界は脆く、真実から逃げ続ける限り現実は蝕まれ、最終的に虚構が崩壊し、痛みを伴う現実と向き合うしかなくなる、という普遍的なテーマを描く。
この物語の「続き」を生成する

あなたのアイデアをAIに与えて、この物語の続きや、もしもの展開を創作してみましょう。

0 / 200
本日、あと...

TOPへ戻る