第一章 幻肢痛とガラスの羅針盤
雨上がりのアスファルト。
立ち昇る湿った匂いに、鼻腔の奥がツンとする。
僕は眉間を揉んだ。
眩しすぎるのだ、この世界は。
交差点を行き交う人々。
その胸元には、無数の「光」が溢れている。
恋人たちが灯す、蜂蜜のようにとろけた黄金色。
老夫婦が醸す、熾火のような静かな深紅。
『真の友情の輝き(ソウル・グロウ)』。
僕、アトラスの網膜にだけ映ってしまう、魂の絆だ。
美しく、そして残酷なほどに五月蠅い。
「……いない」
雑踏のど真ん中で、僕は立ち尽くした。
左腕が痛む。
肘から手首に走る、ケロイド状の火傷痕。
かつて友人と縁が切れるたびに刻まれた、絆の断裂音。
だが、今の痛みは古傷じゃない。
心臓の真裏が、アイスピックで抉られるような喪失感だ。
「すみません」
信号待ちの学生に声をかける。
「銀髪の男を見ませんでしたか? カイという名前なんですが」
学生はイヤホンを外し、怪訝な顔をした。
「カイ? 誰ですそれ」
「僕の親友です。背が高くて、いつも片耳にピアスを……」
「知りませんね。人違いでしょ」
学生は気味悪そうに去っていった。
五十人目。
全員が同じ反応だ。
世界中のあらゆるデータベースから、カイの記録は消滅した。
写真も、戸籍も、SNSのアカウントさえも。
残っているのは、僕の記憶だけ。
そして、かつて彼と僕の間にあった、太陽を直視したような強烈すぎる『光』の残像。
「っ……!」
ポケットの中で、ガラスが熱を持った。
慌てて取り出す。
『残光のコンパス』。
カイが消えた場所に落ちていた、歪な結晶体だ。
普段は死んだ魚の目のように白濁している。
だが今、ガラスの中の針が狂ったように回転していた。
チリ、チリ、チリ……。
指先に伝わる微振動。
脳裏に、不意に既視感がフラッシュバックする。
――先月、落ちてきた鉄骨が、僕らを避けて地面に突き刺さった時。
――先週、絶対治らないと言われた病が、一晩で完治した時。
――昨夜、宝くじがまた当選した時。
『なぁアトラス。最近、俺たち怖いくらいツイてないか?』
カイの不安げな声が蘇る。
コンパスの針がピタリと止まった。
北ではない。
地図にも載っていない、都市の最果てを指している。
僕は走り出した。
第二章 静寂の海岸線
息を切らし、地下鉄とバスを乗り継ぐ。
コンパスの針は、僕が近づくにつれて赤く発光し、熱を帯びていく。
市街地を抜けた。
工場の廃墟群を越えた。
その先で、世界から「音」が消えた。
風は吹いているのに、ススキが揺れる音がしない。
カモメが口を開けているのに、鳴き声が届かない。
「忘れられた海岸」。
都市計画から見放された、瓦礫と不法投棄の墓場。
ジャリ、ジャリ。
僕の足音だけが、不自然に響く。
波打ち際へ出た瞬間、僕は息を飲んだ。
「……そこか」
海面の上、数メートルの空中に、世界が「バグ」を起こしている場所があった。
空間がモザイク状に歪んでいる。
その裂け目の向こう側に、琥珀に閉じ込められた虫のように、彼がいた。
「カイ!」
駆け寄ろうとして、見えない壁に弾かれる。
バチィッ!
「ぐっ……!」
指先が焦げる匂い。
だが、僕は構わず歪みを叩いた。
「カイ、起きろ! そこにいるんだろ!」
半透明の膜の向こうで、カイが薄く目を開けた。
口が動く。声は聞こえない。
けれど、直接脳内にノイズ混じりの思念が流れ込んでくる。
『……ラス……来るな……』
『思い出せ……俺たちの……幸運の、代償を……』
ドクリ。
心臓が跳ねた。
脳裏に、カイの姿と共に「警告」の記憶が溢れ出す。
――僕らが揃うと、確率論が崩壊する。
――僕らの『絆』が強すぎて、因果律が悲鳴を上げている。
世界は、システムのエラーを修正しようとしたのだ。
二人の輝きが許容量(キャパシティ)を超えたから、片方を「異物」として次元の狭間へ廃棄した。
『俺を……忘れろ……』
カイの悲痛な思念が響く。
『お前が俺を強く想うほど……その『絆』が引力になって、世界はお前を守るために、俺を遠くへ弾き出す』
「そんな理屈があるかよ!」
僕は叫んだ。
「仲が良すぎることが罪だって言うのか! 僕の記憶がある限り、お前は戻れないって言うのか!」
『そうだ……だから、行ってくれ。アトラス』
カイが、諦めの笑みを浮かべた。
最期に見た、あの優しい笑顔のままで。
『俺なんかいなかった。そう思えば、お前は助かる』
コンパスが焼きごてのように熱くなり、掌を焦がしていく。
忘れる?
この痛みを? 彼を?
そうすれば、僕は平穏な日常に戻れるのか?
「ふざけるな……」
僕はギリ、と奥歯を噛み締めた。
涙で視界が歪む。
その滲んだ景色の中で、一つの「解」が浮かび上がった。
第三章 雨の匂いと缶コーヒー
解決策は、一つだけある。
僕は目を閉じ、深く息を吸い込んだ。
潮風の匂いが、ふと、あの日の雨の匂いに変わった気がした。
――記憶が、鮮明に蘇る。
三年前の梅雨。
安アパートの軒下。
土砂降りの雨宿り。
『ほらよ、あったけーぞ』
カイが放って寄越した、120円の微糖缶コーヒー。
受け取った時の、指先が痺れるような熱さ。
『お前さ、その眼、辛くないのか?』
『え?』
『人の本音とか、縁とか見えちまうんだろ。俺なら発狂するね』
カイはプルタブを開けながら、苦笑して言った。
『お前がもし普通だったら、もっと気楽にバカやれたかもな』
スチール缶の鉄の味。
雨に混じる埃っぽいアスファルトの匂い。
カイの着ていた安物の柔軟剤の香り。
『……でもまあ、お前はお前だもんな』
あの日、彼が隣にいてくれた温度。
くだらない冗談で笑い合った、あの一瞬の空気の振動。
(ああ、忘れたくない)
(全部、全部、僕の宝物なのに)
胸が張り裂けそうだ。
けれど、この「執着」こそが、彼をあそこに縛り付けている鎖なのだ。
僕が「観測」しているから、世界はエラーを吐き続ける。
なら、僕が観測者を辞めればいい。
「カイ」
僕は目を開けた。
空間の歪みに向かって、コンパスを掲げる。
「お前の言う通りにするよ」
『……アトラス?』
「僕の『眼』を代償にする」
僕は静かに宣言した。
「この光を見る能力。そして――カイに関する全ての記憶を、このコンパスごと砕く」
『やめろ! それじゃお前は……!』
「お前を助けるためじゃない」
僕は笑った。
涙がボロボロと溢れて、不細工な顔になっていただろうけど、精一杯の強がりで笑った。
「僕が、普通になりたいだけだ。……お前が言ったんだろ? 普通ならよかったのにって」
右手に、ありったけの力を込める。
コンパスが悲鳴を上げた。
さよなら、僕の半身。
さよなら、世界で一番眩しい光。
「バイバイ、カイ」
パリンッ。
硬質な音が、静寂の海岸に響き渡った。
ガラス片が飛び散り、キラキラと舞う。
その瞬間、世界から急速に「色」が抜けた。
黄金の輝きも、深紅の温もりも、全てが灰色の景色へと溶けていく。
激痛が走った。
腕の古傷が焼けるような熱を持ち、そして急速に冷えていく。
カイの顔が。
名前が。
雨の日のコーヒーの味が。
砂の城が波にさらわれるように、サラサラと崩れ落ちていく。
(嫌だ、忘れたくない)
(君の笑顔も、その声も)
(忘れたく、ない……)
視界がホワイトアウトする。
最後に見たのは、次元の裂け目から吐き出される、美しい銀色の光の粒だった。
第四章 はじめまして、親友
「――お客様、ご注文は?」
「え?」
顔を上げると、カフェの店員が不思議そうに僕を見ていた。
「あ、すみません。ブラックコーヒーを」
僕は慌ててメニューを指差した。
昼下がりのカフェ。
窓の外は穏やかな晴天だ。
ふと、自分の左腕をさする。
何もない。ただの肌だ。
けれど、なぜかそこにあったはずの「何か」を探してしまう。
胸にぽっかりと穴が開いたような感覚。
大事な仕事を終えたような、それとも、致命的な忘れ物をしたような。
カラン、とドアベルが鳴った。
一人の青年が入ってくる。
銀色の髪。切れ長の目。
どこか近寄りがたい雰囲気だが、不思議と目が離せなかった。
彼は店内を見回し、僕と目が合った瞬間に立ち止まった。
ドクン。
心臓が、早鐘を打った。
理由なんてわからない。
ただ、魂が叫んだ気がした。
彼もまた、僕を見て立ち尽くしている。
まるで、砂漠でオアシスを見つけたような、切羽詰まった表情で。
僕たちは初対面のはずだ。
名前も知らない。何をしている人かもわからない。
僕はただの平凡な学生で、彼はただの他人だ。
なのに。
涙が出そうなほど、懐かしい。
彼は迷うように一歩踏み出し、僕のテーブルの前に立った。
「……あの、ここ、いいですか?」
ぶっきらぼうな声。
でも、その指先は微かに震えている。
僕は自然と口角が上がるのを感じた。
この手を、二度と離してはいけない。
根拠のない確信が、僕を突き動かす。
「ああ、どうぞ」
僕は椅子を引いた。
「奇遇ですね。僕も今、誰かと話したい気分だったんです」
「……へえ。気が合いますね」
彼が座ると同時に、テーブルの下で何かが落ちた音がした。
拾い上げると、それは小さなガラスの欠片だった。
どこかの工芸品の破片だろうか。
ゴミ箱に捨てようとして、僕はふと手を止めた。
テーブルの陰で、誰にも気づかれないほど微かに。
そのガラス片が、温かな黄金色の光を明滅させているように見えたからだ。
「綺麗だ……」
無意識に呟き、僕はそれをそっとポケットにしまった。
そして、目の前の彼に向かって手を差し出す。
「僕はアトラス。君は?」
彼は少し驚いた顔をして、それから今日一番の、少年のような屈託のない笑顔を見せた。
「カイだ。……よろしくな、アトラス」
交わした握手の熱。
掌から伝わるその体温だけが、僕たちの新しい物語の始まりを告げていた。