忘却のアンカー
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忘却のアンカー

第一章 触れた記憶の断片

俺には過去がない。物心ついた時から、この腕に巻かれた銀の鎖だけが、俺という存在の唯一の証明だった。名をカイという。そして、奇妙な力がある。「記憶連結者」。誰かと握手すると、その相手が最も強く信頼する人物の記憶が、幻覚となって脳裏に流れ込んでくるのだ。

今日も、また一つ、世界から存在が消えた。

「夫が……夫が、昨日まで確かにそこにいたのに……」

依頼人の女性は、虚空を見つめて震えていた。街で頻発する「霧散現象」。人が忽然と姿を消し、周囲の記憶からも曖昧に薄れていく。俺は無言で彼女の手を取った。冷たい鎖が、彼女の肌に触れる。

――瞬間、世界が反転した。

陽の差すリビング。珈琲の香ばしい匂い。笑い声。ソファに座る男女。だが、男の輪郭は陽炎のように揺らめき、声は水中で響くように掠れている。「大丈夫だよ」と男は言うが、その言葉さえもノイズに掻き消されそうだ。女性の心に映る夫の姿は、必死に繋ぎ止めようとしても、砂の城のように崩れかけている。これが、彼女が信頼する夫の、最後の残滓。

幻覚から戻ると、女性はただ泣いていた。俺は何も言えず、報酬の銀貨を受け取ってその場を去った。背後で、彼女が「夫の……名前は、なんでしたっけ……?」と呟く声が聞こえた。冷たいアスファルトを踏みしめる。この街は、静かな悲鳴で満ちていた。絆が断ち切られる音は誰にも聞こえないが、俺にはその残響が確かに感じられた。

第二章 絆の糸と影

馴染みのカフェの扉を開けると、ベルの音と共に珈琲の香りが俺を迎えた。カウンター席の隅で、リオが手を振っている。彼だけが、記憶のない俺を「カイ」と呼び、友人として隣にいてくれる唯一の存在だった。

「また、霧散の調査か?」

「ああ」

俺はカウンターに腰掛け、リオが差し出したカップを受け取った。湯気の向こうで、彼の心配そうな目が揺れている。

「この街の人間は、昔から『絆の糸』の話をする。人と人を繋ぐ見えない糸だ。その糸が強いほど、互いの存在は確かになる。最近の現象は、その糸が誰かに断ち切られているみたいだ、って」

リオの話は、ただの迷信とは思えなかった。俺が見る記憶の断片は、まさにその「絆」そのものなのだから。

その夜、霧散現象が起きた路地裏を訪れた。湿ったコンクリートの匂い。遠くでサイレンが鳴っている。目を閉じ、意識を集中させると、世界のノイズの中に異質な気配を感じた。それは、まるで陽炎のように揺らめく人型の影。常人には見えないのだろう、誰もその存在に気づいていない。

影が、ふとこちらを向いた。空虚な双眸が俺を捉える。ぞくり、と背筋が凍った。あれが、絆を奪っているのか。俺は一歩踏み出し、影に向かって手を伸ばした。しかし、指先は確かな手応えもなく、冷たい空気を掻くだけだった。影は囁いた。風に掻き消えそうな、悲痛な声で。

「……わすれないで……」

第三章 無形存在の囁き

影――「無形存在」と、俺は心の中で名付けた。彼らの正体を探るため、俺は危険な賭けに出ることにした。自らの能力を使い、彼らが残した思念の残滓に直接連結するのだ。

次の霧散現場で、俺は再び揺らめく影と対峙した。リオの忠告を振り切り、俺は腕の鎖を強く握りしめ、影の胸元――かつて心臓があったであろう場所に、ゆっくりと手を差し入れた。

冷たい、という感覚すらなかった。指先が、底なしの虚無に呑み込まれていく。

――やめて。

――思い出してくれ。

――僕の名前を、呼んで。

脳内に直接、無数の声が流れ込んできた。それは怒りや憎しみではなく、純粋で、あまりにも悲痛な願いの奔流だった。彼らは、かつてこの世界で生きていた人々。誰からも忘れ去られ、絆の糸を全て断ち切られた成れの果て。彼らは存在を取り戻したいのではない。ただ、かつて愛した誰かに、もう一度だけ、思い出してほしかったのだ。その純粋な願いが、他者の絆を羨み、結果として奪う力となってしまっていた。

あまりの情報の奔流に、俺の意識が遠のいていく。これが、忘れられるということの痛みか。俺は、自分の名さえも忘れてしまいそうになった。

第四章 鎖の真実

「――そこまでだ、記憶連結者」

凛とした声が響き、俺は我に返った。目の前に、純白のローブをまとった人物が立っていた。無形存在たちが、その人物を恐れるように後ずさる。

「私は『絆の管理者』。この世界の記憶の調和を保つ者だ」

管理者は言った。世界の記憶容量には限界がある。新たな絆が生まれれば、古い絆は剪定されなければならない。それが世界の法則。無形存在たちは、その剪定によって忘れ去られた者たちなのだと。

「彼らの願いは悲しいが、世界の破滅を防ぐためには必要な犠牲だ。君の能力は、その秩序を乱す」

管理者の冷たい指が、俺の右腕にある記憶の鎖に触れた。その瞬間、鎖が灼熱を帯び、俺の脳を焼き切るほどの光と情報が迸った。

――知らないはずの記憶の洪水。

――誰かと笑い合った夏の日。雪の降る夜に交わした約束。

――そして、徐々に世界から色が失われ、自分の輪郭が薄れていく絶望。

「カイ! しっかりしろ!」

必死に俺の名を呼ぶ、若いリオの声。彼は、消えかかった俺の手を握り、自分の絆の糸を全て、この腕の鎖に繋ぎ止めていたのだ。

「忘れない。俺だけは、絶対に君を忘れない!」

俺は、全てを思い出した。俺自身が、かつて霧散しかけた存在だったこと。リオが、彼の記憶と絆を代償に、俺という存在をこの世に繋ぎ止めてくれていたこと。この鎖は、封印であり、そして、彼がくれた最後の絆そのものだったのだ。

第五章 記憶の器

「……そうか。俺は、君に生かされていたんだな、リオ」

俺の呟きに、駆け寄ってきたリオが息をのむ。管理者は静かに俺を見つめている。無形存在たちは、悲しげに揺らめいている。

もう、迷いはなかった。

「管理者、あなたの言う通りかもしれない。世界には容量がある。だが、忘れられていい記憶なんて、一つもないはずだ」

俺は右腕の鎖を、ゆっくりと解き始めた。カチリ、と最初の輪が外れる。

「カイ、やめろ! それを解いたら、君は……!」

リオの悲痛な叫びが響く。

「俺の能力は、他人の記憶を覗くためのものじゃない。繋ぎ、受け入れるためのものだ。忘れ去られた全ての記憶、これから生まれる全ての記憶、この世界にある全ての絆を、俺が引き受ける」

鎖の輪が一つ、また一つと解かれていく。そのたびに、銀の輪は光の粒子となって霧散し、俺の中に膨大な記憶が流れ込んできた。忘れられた人々の名前、笑顔、愛した風景。無形存在たちが、驚きに目を見開いている。彼らの失われた記憶が、俺の中で再構築されていく。

「俺が、みんなの記憶の器になる」

最後の輪が、リオの指から贈られた最初の輪が、静かに外れた。世界中の絆の糸が、光の奔流となって俺の体に注ぎ込まれる。俺は、この世界の全ての記憶そのものとなった。

第六章 君が信頼した僕

世界は、色を取り戻した。

街角では、忘れられていたはずの家族と再会し、涙を流す人々がいた。陽炎のように揺らいでいた無形存在たちは、確かな輪郭を取り戻し、愛する者の記憶の中に帰っていった。霧散現象は、完全に終息した。

ただ一つ、代償があった。

カイという存在は、この世界の誰の記憶からも消え去った。

膨大な記憶の器となった俺の体は、その重みに耐えきれず、輪郭を失い、透明になっていた。誰にも見えず、誰にも触れることはできない。俺は、この世界を見守る、ただの「記憶」となったのだ。

だが、たった一人。俺の目の前で、リオだけが泣いていた。

「忘れない……忘れないぞ、カイ……!」

彼は、俺の存在を、その心に深く刻みつけていた。彼だけが、俺の最後のアンカーだった。

ありがとう、リオ。

完全に意識が世界に溶け込む、その最後の瞬間。俺の脳裏に、一つの幻覚が鮮やかに映し出された。それは、記憶を失った俺が、この街で初めてリオと握手した時の記憶。

彼の心が、温かい光と共に流れ込んでくる。彼が、その時、最も強く信頼していた人物の姿。

――それは、記憶を失う前の、快活に笑う俺自身の姿だった。

ああ、そうか。君はずっと、俺を信じてくれていたんだな。

微笑みと共に、俺の意識は静かに消えた。世界は救われ、一人の男は永遠に忘れられた。けれど、たった一人の親友の心の中、そして彼が繋ぎ止めたこの世界に、俺の絆は確かに生き続けている。


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