残照の糸、あるいは未来への手向け
第一章 鈍色の痛み
視界に映るすべてが、私の神経を逆撫でする。
曇天の下、交差点を行き交う人々。彼らの腹の底から伸びる無数の「線」が、臓物のように絡み合い、脈動している。私、アリス・ヴィアトリクスにとって、他者同士を結ぶ情動の結合——「絆」は、可視化された暴力だ。
誰かと誰かが笑い合うたび、黄金色の管が太り、別れ話に縋るカップルの間では、腐った肉のような赤黒い繊維が悲鳴を上げて千切れ飛ぶ。
「……吐き気がする」
私は口元を押さえ、路地裏の煉瓦壁に背を預けた。他人の感情の濁流が、視神経を焼き切ろうとしている。だが、真に私を蝕んでいるのは、外界の喧噪ではない。懐の中、肋骨のすぐ下で熱を発している「記憶の残照石」だ。
死んだはずの親友、レイラ。彼女と私を繋ぐ、かつては輝ける鋼鉄のようだった太いラインが、今は壊疽を起こしたように黒ずみ、ドロドロと溶解し始めている。
この石が脈打つたび、世界が軋む。
街頭ビジョンには、ノイズ混じりのニュース速報が流れていた。
『原因不明の認知障害が拡大中。肉親の顔を忘却する事例が多発し——』
世界中の絆が、何者かに喰われている。レイラとの絆を維持しようとする私のエゴが、この世界の許容量を超え始めているのだと、本能が告げていた。
「レイラ……そこにいるの?」
視界の端で、腐りかけた黒いラインの先端が、亡霊の手招きのように揺らめいた。指し示された先は、街外れの時計塔。私は石を握りしめた。手のひらが焼け焦げるような熱さを感じながら、私は駆け出した。
第二章 蝕まれる現在
時計塔への石畳を走る。肺が焼けつく。だが、それ以上に恐ろしい現象が、私の目前で起きた。
馴染みの花屋の前を通り過ぎようとした時だ。店先に立つ老女と目が合った。昨日まで、私にパンを焼いてくれた優しい人。私たちの間には、細くとも確かな、銀色の糸が紡がれていたはずだった。
だが、私が駆け寄ろうとした瞬間——老女の胸元から伸びていた私への認識の糸が、ジュ、と音を立てて白煙となり、蒸発した。
「え……?」
老女は私を見た。そして、路傍の石ころを見るような無関心さで、ふいと視線を逸らした。
足が止まる。世界から、私の存在が削り取られた。
過去の亡霊であるレイラを追うほどに、現在進行形の私を構成する「他者との縁」が、物理的に消滅していく。認識の摩滅。存在の希釈。
郵便配達員も、顔見知りの警官も、すれ違うたびに私への糸が焼け切れ、他人以下の「背景」へと堕ちていく。
世界中から忘れ去られる恐怖で、足が竦む。
それでも、懐の石が「来て」と叫ぶように熱を放つから、私はもつれる足で時計塔の螺旋階段を這い上がった。
最上階、吹きさらしの展望台。そこには誰もいない。ただ、床に転がるもう一つの石が、私の石と共鳴し、空中に不確かな像を結んでいた。
ノイズの海に浮かぶ、レイラの姿。
彼女は泣いていた。
『ごめん、アリス。もう、限界みたい』
言葉は途切れ途切れで、ラジオの周波数が合わない時のように歪んでいる。
『私たちが……強く結びつきすぎたせいで、周りの光を……全部、吸い尽くしちゃう』
レイラの像が、苦しげに胸を押さえる。彼女の身体から伸びる黒い管が、世界中の空へ根を張り、人々の絆を養分として吸い上げているのが見えた。
『私が……栓になる。この穴を塞ぐには、私ごと消すしかないの』
第三章 永遠の別離と再生
「ふざけないで!」
私は叫び、レイラの像に手を伸ばしたが、指先は空虚な光を掻いただけだった。
『アリス、お願い。あなたの手で、切って』
私の手の中で、二つの石が重なり合い、臨界点の高熱を発する。
選択肢は二つ。
このままレイラを繋ぎ止めるか。そうすれば、私は彼女を取り戻せるかもしれないが、代償として世界中の人々は「愛」や「友情」という概念を脳から焼却され、孤独な獣として生きることになるだろう。
あるいは、ここで断ち切るか。世界は救われる。だが私は、二度とレイラの声を聞くことも、その温もりを思い出すよすがさえも失う。完全なる、永遠の孤独。
「できない……私には、あなたしかいないのに!」
嘔吐感が込み上げる。胃液が喉を焼き、視界が涙で滲む。花屋の老婆の、あの冷え切った瞳が脳裏をよぎる。現在のすべてを敵に回しても、過去を愛し続ける覚悟が、私にあるのか。
レイラとの絆は、私の命綱だった。それを自ら切断することは、酸素ボンベを捨てて深海へ潜るに等しい。
『アリス。手放すことは、裏切りじゃない』
レイラの声が、最後に一瞬だけ鮮明に響いた。
『空いた場所には、必ずまた、何かが宿るから』
手が震える。全身が拒絶し、歯の根が合わない。それでも私は、石を握る指に渾身の力を込めた。
指の骨が軋む。私の魂の一部を、引きちぎる痛み。
「……っ、あぁぁぁぁッ!」
断末魔のような叫びと共に、私は石を砕いた。
乾いた破砕音が、鼓膜を劈いた。
閃光はない。ただ、私とレイラを繋いでいた黒い管が、ブチブチと不快な音を立てて千切れ、宙に霧散していく。
同時に、私の中からレイラの気配が——質量を持った「親友」の感覚が、ごっそりと抜け落ちた。
風が吹き抜ける。
世界を覆っていた黒い根が枯れ落ち、街の色彩が暴力的なまでに鮮やかに戻ってくる。灰色だった人々の胸元に、再び有象無象の光が灯り、結び直されていくのが見えた。
私の手の中には、砕けた石の粉だけが残っていた。
胸の真ん中に、風が通り抜けるほどの巨大な空洞が開いている。痛くはない。ただ、寒い。絶対的な喪失が、そこにあった。
私はふらつく足で、手すりに寄りかかった。
眼下には、何事もなかったかのように日常を取り戻した街が広がっている。誰も私を知らない街。レイラのいない世界。
階段の下から、人影が現れた。
息を切らして上がってきたのは、見知らぬ少女だった。彼女は不思議そうに、涙で顔をぐしゃぐしゃにした私を見つめている。
彼女の胸元から、糸は伸びていない。
私に向けられたのは、好意でも敵意でもない、ただの「興味」という名の不確かな視線。
「大丈夫ですか?」
少女がおずおずと声をかけてくる。
その声はレイラのものではない。私の傷を埋めるには、あまりにも他人的で、頼りない響きだった。
それでも。
私は顔を上げ、強張った背筋を無理やり伸ばした。胸の空洞が冷たい風に晒され、ヒリついている。この寒さと共に、私は生きていくのだ。
「……ええ」
私は掠れた声で答え、震える足で、少女のいる見知らぬ明日へと、一歩を踏み出した。