第一章 錆びついた雨
空が吐瀉物のような雨を降らせている。
肌にまとわりつく、黒く、粘り気のある雫。それが頬を伝うたび、俺の心臓は不整脈のように早鐘を打った。
手の中にある真鍮の羅針盤が、熱を帯びて痙攣している。
かつて黄金に輝いていた盤面は黒く酸化し、針は定まらないまま、痙攣するように一点を指そうともがいていた。
「リアム、濡れるわよ」
廃ビルの影から伸びた手が、俺の肩を引く。
エララだ。雨に濡れた赤い髪が、血のように頬に張り付いている。
彼女の指先が俺の腕に触れた瞬間、周囲の雨音がわずかに遠のいた。叩きつけるような豪雨が、霧雨へと変わる。
俺たちの呼吸が合うと、世界が静かになる。
だが、今の静寂はひどく脆かった。
「カインの反応は?」
エララが短い呼気と共に問う。俺は羅針盤を強く握りしめ、視線を上げた。
街の中心、かつて白亜の塔と呼ばれた場所が、今は巨大な肉腫のような黒い蔦に覆われている。
「……あそこだ」
俺の喉が引きつる。
羅針盤の針が、狂ったように塔を指しては逸れ、また指し示す。拒絶と誘引。
「あいつ、本当に俺たちを裏切ったのか?」
俺が呟いた途端、空が裂けるような轟音を上げた。
紫電が走り、足元の水溜まりが沸騰したように跳ねる。
俺の疑念が、そのまま空の怒りとなって顕現したかのようだ。
「疑わないで」
エララが俺の胸倉を掴み、強く揺さぶる。
彼女の瞳もまた、恐怖に揺れていた。
「カインが裏切るはずがない。あの塔を見て。あんなに歪んでる。あいつは今、たった一人で何かと戦ってるのよ」
エララの言葉に、俺の中の疑念がわずかに晴れる。
同時に、雷鳴が遠ざかった。
世界の機嫌は、俺たちの信頼ひとつで変わる。それを理解していても、不安という毒は抜けきらない。
俺は羅針盤をポケットにねじ込んだ。
指先に触れる冷たい金属の感触だけが、唯一の現実だった。
「行こう。ガルドが先行してるはずだ」
俺たちは泥濘の中へ飛び出した。
靴底に絡みつく泥は、まるで死者の手のように重く、俺たちを引きずり込もうとしていた。
第二章 泥濘の記憶
崩壊した塔の内部は、臓腑の中のような生温かい悪臭に満ちていた。
鉄錆と、腐った果実が混じり合った匂い。
足元には、かつての栄華を思わせる瓦礫が散らばっている。だが、それらはすべて黒い粘液に覆われ、原型を留めていない。
「ッ……!」
突如、脳髄を直接掴まれたような圧力が襲った。
俺はとっさに口元を押さえる。
『来るな……! 僕を、見ないでくれ……!』
声ではない。
空間そのものが軋み、悲鳴を上げている。
カインの拒絶だ。その波動が強まるたび、壁を這う蔦が脈打ち、棘を逆立てる。
「カイン!」
俺は叫びながら、瓦礫の山を駆け上がった。
ホールの中心。
黒い茨の繭に半ば飲み込まれた男の姿があった。
カイン。
だが、俺の知る彼ではなかった。
頬は削げ落ち、肌は土気色に変色し、両目は虚ろに白濁している。彼自身が、この悪夢の核となっていた。
「リアム、あれを!」
エララが叫ぶ。
カインの足元に、泥にまみれた紙片が散らばっている。
俺は茨の攻撃を躱し、一枚を拾い上げた。
診療記録の切れ端だ。
インクが滲み、判読できるのはわずかな単語のみ。
『進行性……蝕』
『……隔離を推奨』
『……親しい者の記憶を……怪物へ……』
紙を持つ俺の手が震える。
カインがここへ姿を消す直前、いつも右手をポケットに隠していたことを思い出した。
彼は知っていたのだ。自分が壊れていくことを。
「う、あぁぁぁッ!!」
カインが絶叫する。
茨が鞭のようにしなり、俺の頬を裂いた。熱い痛みが走る。
それでも俺は、彼の懐へと踏み込んだ。
「視せろ、カイン! お前が何を隠しているのか!」
俺は自身のこめかみに指を突き立てた。
能力の強制発動。
脳の血管が焼き切れるような激痛が走り、鼻から温かい液体が溢れ出す。
視界が反転する。
色彩が溶け、カインの視ていた世界が俺の脳内に雪崩れ込んでくる。
(暗い部屋。自分の手が醜く変色していく恐怖)
(鏡に映る自分が、リアムの喉を食いちぎる幻覚)
(震える手で書き殴ったメモ。『あいつらを傷つける前に、僕が消えなければ』)
(孤独。寒さ。誰にも触れられない絶望)
「……っぐ、あ……!」
俺は膝をついた。
あまりの情報の濁流に、嘔吐感がこみ上げる。
こいつは裏切ったんじゃない。
俺たちを守るために、自らこの悪夢の棺桶に入ったんだ。
俺たちが「悪夢」を見なくて済むように、自分一人ですべての汚濁を飲み込んで。
「……馬鹿野郎……」
俺は血と泥にまみれた顔を上げた。
視線の先で、カインが怯えた子供のように身を縮こまらせている。
第三章 欠けたガラス玉
「離れろ! 僕はもう、カインじゃない! ただの怪物だ!」
カインの慟哭と共に、黒い霧が俺を吹き飛ばそうとする。
エララが剣で霧を払うが、密度が濃すぎて刃が通らない。
「どきな、もやしっ子ども!」
ドォォォン!!
壁が爆ぜた。
粉塵の中から、巨大な盾を構えた大男が飛び出してくる。
ガルドだ。
「遅えよ!」
「道が混んでてな! 他の連中は外で雑魚掃除だ!」
ガルドは豪快に笑うと、盾を地面に突き刺し、カインから放たれる漆黒の奔流を受け止めた。
盾がきしむ音が響く。
「リアム! 行け! 今のうちにカインの目を覚まさせろ!」
「無茶言うな! どうやって!」
俺は叫び返すが、足はすでに動いていた。
ガルドの背中を足場にし、高く跳躍する。
カインを守る茨の檻。その隙間へ、身体をねじ込む。
棘が全身に食い込む。
皮膚が裂け、服が赤く染まる。
だが、痛みのおかげで意識は鮮明だった。
カインの胸元。
そこに、古びた革紐で吊るされた「何か」が光っている。
俺は血まみれの手を伸ばし、それを掴んだ。
指先に触れたのは、安っぽい、欠けたガラス玉だった。
瞬間、俺の脳裏で火花が散った。
カインの記憶ではなく、俺自身の失われた記憶が、強烈な色彩を持って蘇る。
――雨上がりの路地裏。
十歳の俺たちは、泥だらけだった。
地主の家の窓ガラスを割ってしまい、逃げ込んだ狭い隠れ家。
震える俺の前に立ち、大人たちの怒号から庇ってくれたのはカインだった。
『大丈夫だ、リアム。僕がやったって言えばいい』
『でも……』
『僕らは二人で一つだろ? 片方が無事なら、それで勝ちなんだよ』
そう言って彼は、ポケットからこのガラス玉を取り出し、半分に割ったのだ。
『ほら、これがお守りだ』と笑って。
「……思い出したぞ、カイン」
俺はガラス玉を握りしめたまま、カインの痩せこけた身体を抱きしめた。
彼の体温は氷のように冷たい。
「お前はいつだってそうだ。いいとこ取りしやがって」
「リ、アム……? 汚れる、離れろ……!」
「汚れる? 上等だろ!」
俺は叫んだ。喉が裂けても構わない。
「泥棒扱いされた時も! 野犬に追われた時も! 俺たちはいつも泥だらけだったじゃねえか!」
カインの身体が硬直する。
「お前が怪物になるなら、俺も怪物になってやる。一人で綺麗に死ねると思うな!」
俺はポケットから、対になる「欠けたガラス玉」を取り出した。
ずっと持っていたのに、その意味を忘れていたガラクタ。
二つの欠片を合わせる。
カチリ。
小さな音が、轟音の鳴り響く塔の中で、奇跡のように鮮明に響いた。
「あ……」
カインの瞳から、白濁した色が消えていく。
同時に、彼を縛っていた黒い茨が、砂のように崩れ落ち始めた。
俺たちの羅針盤が共鳴する。
不吉な振動ではない。心臓の鼓動のような、力強く、温かいリズム。
「リアム……ごめん、僕……」
「謝るな。ただ、おかえりって言わせろ」
カインの身体から力が抜け、俺の腕の中に崩れ落ちた。
最終章 羅針盤の指す方へ
雨が止んだ。
だが、雲一つない青空が広がったわけではない。
分厚い雲の隙間から、夕暮れのような鈍い黄金色の光が差し込んでいるだけだ。
悪夢は去ったが、世界は傷ついたままだった。
瓦礫の山も、腐敗した臭気も、魔法のように消えたりはしない。
俺の腕の中で、カインは静かに目を閉じていた。
その胸は、もう動いていない。
けれど、その表情からは苦痛の色が消え、昔の悪戯小僧のような穏やかさが戻っていた。
「……馬鹿な野郎だ、最後まで」
ガルドが盾を枕に座り込み、鼻をすする。
エララは何も言わず、カインの冷たくなった額にそっと触れた。
悲しみがないと言えば嘘になる。
胸の奥が抉り取られたように痛い。
だが、不思議と涙は出なかった。カインが命を削って守り抜いたこの世界で、泣いている時間などないと思えたからだ。
「見て」
エララが空を指差す。
雲の切れ間から注ぐ光が、塔の足元に溜まった泥水を照らしている。
汚れた水面が、光を受けて黄金色に輝いていた。
まるで、あの日の路地裏で見つけたガラス玉のように。
俺は羅針盤を取り出した。
針はもう震えていない。
北でも南でもなく、ただ「前」を――俺たちが歩むべき未来を、静かに指し示していた。
「行こう」
俺はカインの身体をガルドに背負わせ、立ち上がった。
完全無欠のハッピーエンドなんてない。
俺たちの現実は、いつだって泥と傷跡にまみれている。
それでも。
「カインが見たかった景色を、俺たちが創るんだ」
俺たちは歩き出す。
泥濘んだ地面を、一歩ずつ踏みしめて。
その足跡は深く、決して消えることはないだろう。