第一章 不協和音の依頼
蓮(れん)の世界は、音で満ちていた。彼は「記憶調律師」。人の頭脳という広大な海に潜り、記憶という名の楽譜を読み解く仕事だ。トラウマという軋むような不協和音を和らげ、幸福な思い出という澄んだメロディを際立たせる。クライアントの脳内に広がる風景は、時に嵐の海であり、時に静寂の湖だった。蓮はそのすべてを敬意をもって受け入れ、繊細な指先でタクトを振るうように、記憶の旋律を整えていく。
彼の調律室は、街の喧騒から切り離された静かな場所にあり、壁一面に並ぶ古書の背表紙だけが、時の流れを静かに告げていた。柔らかい間接照明が、磨き上げられたマホガニーの机と、そこに置かれた銀色のヘッドギアを照らし出している。これが、記憶の海への潜行艇だ。
その日、予約もないのにドアベルを鳴らした人物に、蓮は眉をひそめた。しかし、モニターに映し出された顔を見て、彼の表情は一瞬で和らいだ。太陽のような笑顔を浮かべた、湊(みなと)だった。蓮にとって、唯一無二と呼べる親友だ。
「よぉ、蓮。急に悪いな」
革のジャケットをラフに着こなした湊は、まるで自分の家のようにソファにどかりと腰を下ろした。その屈託のない振る舞いが、蓮の心をいつも凪いだ状態に戻してくれる。
「どうしたんだ、急に。何か面白いネタでも見つけたのか?」
蓮はコーヒーを淹れながら尋ねた。湊はフリーのジャーナリストで、常に世界の片隅で起きている不思議な出来事を追いかけている。彼の話は、蓮の静かな日常に鮮やかな色彩と刺激的なリズムを与えてくれるスパイスだった。
しかし、湊の口から発せられた言葉は、蓮が予測したどんな突飛な物語よりも、遥かに現実離れしていた。
「蓮、お前にしか頼めない仕事がある」
湊はコーヒーカップをテーブルに置き、真直ぐに蓮の目を見つめた。その瞳の奥には、いつもの快活な光はなく、深く、昏い湖のような静寂が広がっていた。
「仕事? お前から依頼なんて、初めてじゃないか。どんな記憶だ? 忘れられない失敗談でも美化してほしいのか?」
蓮は努めて明るく返したが、胸に小さなさざ波が立つのを感じていた。
湊はゆっくりと首を横に振った。そして、絞り出すような声で、信じられない言葉を紡いだ。
「俺に関する記憶を、お前の頭から、全部消してほしい」
一瞬、時が止まった。壁の古時計の振り子の音だけが、やけに大きく響く。蓮は、湊が何を言っているのか理解できなかった。冗談だとしても、質が悪すぎる。
「……何を言ってるんだ、湊。そんなことができるわけないだろう。俺の技術は、クライアントのためのものだ。自分自身には使えない。それに、なぜ……」
「できるさ。お前の技術なら」
湊は蓮の言葉を遮った。その声には、有無を言わせぬほどの強い意志が込められていた。
「理由は言えない。だが、これが俺たち二人にとって、最善の選択なんだ。頼む、蓮。俺を、お前の人生から消してくれ」
蓮の世界を構成していた美しいハーモニーが、突然、耳障りなノイズに掻き消された。目の前にいるのは、紛れもなく自分の親友のはずだった。だが、彼の口から発せられた言葉は、蓮の存在そのものを否定する、残酷な不協和音となって鳴り響いていた。
第二章 共有された旋律
「ふざけるな!」
蓮の静かな怒声が、調律室の空気を震わせた。彼がこれほど感情を露わにすることは、湊自身、初めて見たかもしれない。
「理由も言わずに、そんなことができると思うのか? 俺とお前の十年を、無かったことにしろと? お前は、俺の人生の半分そのものなんだぞ!」
蓮の脳裏に、湊との記憶が奔流のように蘇る。
初めて出会った大学のキャンパス。同じマイナーな哲学者を論じて意気投合した日のこと。二人で資金を貯めて旅した、星空が降ってきそうな異国の砂漠。蓮が記憶調律師として独立する際に、誰よりも信じて背中を押してくれたのも湊だった。湊が撮った一枚の写真が、海外のコンテストで賞を取った夜は、朝まで飲み明かした。
それら一つ一つが、蓮という人間を形成する大切な音符であり、湊と共に奏でてきた人生という名の楽曲だった。それを消すなど、自らの魂を削り取ることと同義だ。
「頼むから、理由を話してくれ。何があったんだ? どんな問題だって、二人でなら解決できるだろう」
蓮は懇願するように言った。しかし、湊は頑なに口を閉ざしたまま、ただ悲しそうに微笑むだけだった。その表情が、蓮の心をさらに苛立たせた。
「どうしてなんだ、湊! 俺はそんなに信用できないか?」
「違う。……違うんだ、蓮」
湊の声は微かに震えていた。「お前だから、頼んでいるんだ。お前を、誰よりも信用しているから……」
その言葉は、矛盾していた。信頼しているなら、なぜ真実を話さないのか。蓮の中の混乱は、やがて冷たい諦念に変わりつつあった。湊は、自分には決して踏み込ませない領域に、一人で閉じこもってしまったのだ。
数日間、二人の間には重苦しい沈묵が流れた。蓮は依頼を断固として拒否し、湊は諦めずに毎日調律室を訪れた。かつては笑い声と活発な議論で満ちていたその空間は、今や息の詰まるような緊張感に支配されていた。
ある晩、蓮は一人、アーカイブ室にこもっていた。そこには、これまでに調律したクライアントたちの記憶データが、光の粒子となって保管されている。彼は、自分自身の記憶の海を覗く方法を探していた。湊の言う通り、理論上は可能だった。しかし、それは自らの脳にメスを入れるに等しい危険な行為であり、協会が固く禁じている禁忌の技術だった。
ふと、彼は一つのデータファイルに目を留めた。それは数年前に湊が冗談半分で「いつか俺の記憶も見てみてくれよ。面白い冒険譚が詰まってるぜ」と言って、スキャンだけさせてくれた彼の記憶のインデックスだった。もちろん、中身を覗いたことは一度もない。それは、親友に対する最低限の礼儀であり、信頼の証だった。
だが、今の蓮に、その誓いを守り通す自信はなかった。湊を救いたい。彼の苦しみの根源を知りたい。その一心で、蓮の指は震えながら、湊のファイルに伸びていた。友情という名の旋律を守るために、その旋律を奏でる相手の心を、無断で覗き見るという禁断の行為に手を染めようとしていたのだ。
第三章 砕かれたハルモニア
銀色のヘッドギアを装着し、蓮は意識を集中させた。目標は湊の記憶の海。禁忌を犯す罪悪感が、冷たい金属のように彼の背筋を伝う。だが、もはや躊躇はなかった。湊のあの悲痛な瞳の理由を知るためなら、どんな罰でも受ける覚悟だった。
意識が現実から乖離し、光のトンネルを抜ける。次に目を開けた時、蓮は息を呑んだ。
そこは、湊の記憶の海。彼が想像していたような、冒険と好奇心に満ちた明るい世界ではなかった。空は鉛色の雲に覆われ、穏やかだったはずの海は荒れ狂い、至る所で記憶の島々がガラガラと音を立てて崩落していた。美しいサンゴ礁のように輝いていたはずの楽しい思い出は、黒く変色し、異臭を放っている。
これは一体、何だ……?
蓮は愕然としながら、記憶の海を漂った。そして、一つの巨大な、黒水晶のような島を見つける。そこから、この海の汚染源であるかのように、禍々しい波動が放たれていた。蓮は意を決して、その島に上陸した。
島の中心には、湊自身の意識体が、鎖に繋がれたように膝を抱えて座っていた。彼の周囲には、黒い霧のようなものが渦巻いている。
「湊!」
蓮が呼びかけると、湊の意識体はゆっくりと顔を上げた。その顔は苦痛に歪んでいた。
「来るな、蓮……! ここに来ちゃいけない!」
その時、渦巻いていた黒い霧が形を成し、一つの醜悪な実体となって蓮に襲いかかった。蓮は調律師としての能力で防壁を張るが、その霧はやすやすと壁を透過し、蓮の意識に直接触れようとする。触れられた瞬間、蓮は理解した。この霧の正体を。
それは、病原体だった。極めて稀な、精神に寄生するナノマシンの暴走体。そして、その病の症状は、蓮の想像を絶するものだった。
『クロノス・ファージ』。感染者の脳に寄生し、増殖の過程で、最も親しい人間の記憶を、その相手の脳内から直接消去、あるいは破壊する能力を持つ。つまり、湊が蓮との友情を深めれば深めるほど、病原体は蓮の脳をターゲットとして認識し、湊との記憶だけでなく、蓮自身の人生の記憶全てを無差別に破壊し始めるのだ。
湊は、全てを知っていた。自分の存在が、愛する親友の魂を内側から食い尽くす時限爆弾になっていることを。
彼が蓮に依頼した「自分に関する記憶の消去」。それは、蓮との関係を断ち切るための行為ではなかった。蓮の脳内で自分を「他人」として認識させることで、病原体のターゲットから外し、蓮の世界を守るための、唯一の方法だったのだ。拒絶に見えた行為は、湊が捧げることのできる、最大級の友情の形だった。
「だから……言ったんだ……」
湊の意識体が、か細い声で呟く。
「俺がお前を想えば想うほど、このバケモノはお前を壊そうとする。俺がお前から離れるしかないんだ。お前の世界から、俺という存在が消えれば、お前は助かるんだ……」
真実の重みに、蓮は立っていることさえできなかった。湊は一人で、こんな絶望的な運命と戦っていたのだ。友情を、愛情を、全てを押し殺して。蓮の価値観が、根底から覆された。友情とは、共にいることだけではない。時に、愛する者を守るために、その手から自らを解き放つことでもあるのだ。
荒れ狂う湊の記憶の海で、蓮はただ、滂沱の涙を流した。
第四章 二人のためのレクイエム
現実世界に戻った蓮の頬を、熱い雫が伝っていた。調律室の静寂が、今はひどく胸に痛い。湊が背負っていた孤独と絶望の重さを想うと、呼吸さえ苦しかった。
もう、迷いはなかった。蓮は一つの決断を下した。
翌日、調律室を訪れた湊は、蓮の落ち着き払った様子に驚いた。蓮は静かに告げた。
「お前の依頼、引き受けるよ」
湊の目に、安堵と、それ以上の深い悲しみが浮かんだ。
「……そうか」
「ただし、条件がある」と蓮は続けた。「ただ消すんじゃない。俺の記憶調律師としての、全ての技術を懸ける。お前との記憶を、一つの楽曲として再構築し、俺の記憶の海の、誰にも届かない一番深い場所に封印する」
それは、完全な消去ではなかった。いつか、奇跡が起こって湊の病が癒えた時、再びその封印を解き、失われた旋律を取り戻すための、ささやかな希望の保存。それは、親友の運命に抗うことを諦めないという、蓮の静かな誓いだった。
湊は何も言わず、ただ深く頷いた。彼の瞳から一筋の涙がこぼれ落ちるのを、蓮は見ないふりをした。
最後の調律が始まった。ヘッドギアを装着した蓮の脳内に、湊との十年間の記憶が、走馬灯のように駆け巡る。
大学のキャンパスの桜並木が、春風のアルペジオになる。
砂漠で見た満天の星が、壮大なオーケストラの響きに変わる。
共に笑い合った居酒屋の喧騒が、軽快なパーカッションになる。
交わした約束、他愛ない会話、その全てが音符となり、一つの壮大なシンフォニアへと編み上げられていく。
蓮は、一音一音を慈しむように、その旋律を記憶の深海へと沈めていった。胸が張り裂けそうだった。自らの魂が、一枚一枚剥がされていくような痛み。だが、これは湊を守るための、二人だけの鎮魂歌(レクイエム)なのだ。
そして、ついに最後の音符が、静寂の底へと消えた。
蓮がゆっくりとヘッドギアを外すと、目の前には見知らぬ青年が、不安そうな顔で立っていた。蓮の心には、何かとても大切なものを失ったという、理由の分からない巨大な喪失感だけがぽっかりと空いていた。
蓮は、目の前の青年に向かって、ぎこちなく微笑みかけた。なぜか、彼にそうしなければならない気がした。
「はじめまして。俺は蓮。記憶調律師をやっている。君は……ええと、何か用かな?」
青年は、泣き出しそうな顔を必死でこらえ、震える声で答えた。
「……湊だ。俺の名前は、湊」
二人は、再び「他人」として出会った。
蓮の記憶の奥深く、誰にも聞こえない静寂の海で、今も『湊』という名の、美しくも切ないシンフォニアが静かに流れ続けている。それはいつか再び奏でられる日を夢見る、二人だけの友情の旋律。蓮は、目の前の「湊」という青年に説明のつかない親近感を覚えながら、ここから、また新しい物語が始まるのかもしれないと、ぼんやりと思っていた。