忘却の玻璃(はり)
第一章 蝕むぬくもり
俺の指先は呪いだ。触れた者の『最も大切な記憶』を根こそぎ奪い、我が物としてしまう。奪った記憶は魂の糧となるが、それは同時にゆっくりと腐敗し、やがて俺自身を蝕む猛毒へと変わる。生き永らえるには、新たな記憶で毒を上書きし続けるしかない。友情も、愛情も、俺にとってはただの延命措置。皮肉なことに、誰かと深く繋がるほど、俺はその相手の最も価値ある部分を破壊し続けるのだ。
「アッシュ、顔色が悪いぞ」
向かいに座るカイが、心配そうに眉を寄せた。窓から差し込む夕陽が、彼の柔らかな髪を黄金色に染めている。俺がこの世で唯一、心を許せる親友。そして、俺が最も罪深く、その魂を蝕んでいる相手。
「大丈夫だ。少し、腹が減ってるだけ」
嘘だった。心の中で、古い記憶が腐り落ちる嫌な臭いが満ちている。限界が近い。カイは俺の嘘を見抜いたように、静かに微笑むと、テーブル越しにそっと右手を差し出した。
「俺の一番なんて、いくらでもくれてやる。お前が生きるために必要なら、なにも惜しくないさ」
その言葉はいつも、覚悟を決めた聖者のように穏やかで、俺の胸を鋭く抉る。俺は震える指でその温かい手に触れた。瞬間、奔流のように彼の記憶が流れ込んでくる。初めて自転車に乗れた日の高揚感、コンクールで入賞した時の誇らしさ。どれも温かい記憶だ。だが、どこか薄っぺらい。カイほどの男の『最も大切な記憶』が、本当にこんなありふれた輝きのはずがない。胸に提げた古びたガラスペンダントが、奪った記憶に呼応して、ぐらりと不気味に揺れた。
第二章 存在しないはずの残光
その夜、俺は悪夢にうなされた。カイから奪った記憶の奔流の中で、ありえない光景を見たのだ。
夕焼けに染まる秘密基地。幼い俺と、幼いカイ。そして、もう一人。カイによく似た、少し年上の少年がいた。カイの兄、リオ。彼は俺たちが知り合うずっと前に、事故で死んだはずだった。
『このペンダントが、俺たち三人の絆の証だ!永遠に、な!』
快活に笑うリオ。彼の手には、俺が今も身につけている『共鳴のガラスペンダント』と同じものが三つ。それを俺とカイの首にかけ、互いの友情を誓い合う。そんな記憶、あるはずがない。この世界では、『真の絆』が砕ければ、その間に存在した時間そのものが、あらゆる記憶から完全に消滅するのだ。リオの死によって、彼との絆は砕け散ったはずだった。
翌日、俺はカイを問い詰めた。「お前の記憶の中に、お前の兄さんがいた。俺たち三人が、一緒にいたんだ」。カイは一瞬、息を呑み、悲しげに目を伏せた。
「何言ってるんだ、アッシュ。兄さんは、僕らが友達になるよりずっと前に死んだじゃないか。…疲れてるんだよ」
彼の瞳は、頑なに真実を拒んでいた。だが、その視線がほんの一瞬、俺の胸で揺れるペンダントに注がれたのを、俺は見逃さなかった。お前は、何かを隠している。
第三章 共鳴する虚偽
真実が知りたい。たとえこの身が滅ぶとしても。俺は禁忌を犯す覚悟を決めた。カイの記憶の、さらに深淵へ。彼の魂の核へ、この呪われた力で潜っていく。
再びカイの手に触れた時、俺は意識を集中させた。表層の偽りの記憶を突き抜け、もっと深く、もっと暗い場所へ。胸のペンダントが悲鳴のような甲高い音を立て、激しく明滅を始めた。ガラスの中に宿った無数の記憶が渦を巻き、俺の精神を食い破ろうとする。
耐えろ。ここで潰えるわけにはいかない。
そして、見つけた。古びた書斎。机の上には一冊の日記。それは、リオのものだった。ページをめくっていたのは、まだ少年期のカイ。彼の震える指先が、ある一文をなぞっていた。
『アッシュの力は、触れた者の記憶を奪う。だが、もしそれが『真の絆』を結んだ相手だったなら? その力は絆の結晶を内側から汚し、やがて腐らせてしまうだろう。友情が深まるほど、彼は友を蝕むことになる』
息が止まった。カイは、知っていたのだ。俺の能力の本当の恐ろしさを。日記を持つ彼の肩が、絶望に小さく震えていた。
第四章 砕けた真実
記憶の奔流は、クライマックスへと加速する。俺は、全ての答えが待つ最後の光景へと引きずり込まれた。
兄の死後、悲しみに暮れるカイが一人、あの秘密基地にいた。その手には、美しく光り輝く物理的な『絆の結晶』が二つ握られている。一つは、俺とカイの間に生まれたばかりの小さな結晶。そしてもう一つは、俺とリオの間に結ばれていた、大きく、力強い輝きを放つ結晶だった。
「ごめん、アッシュ…ごめん、兄さん…!」
嗚咽しながら、カイは叫んだ。
「でも、こうするしかないんだ! アッシュの友情は本物だ! その力が、いつかアッシュ自身を苦しめる前に…! この友情を、本物として守るために!」
次の瞬間、カイは己の手で、俺とリオの『絆の結晶』を強く握りしめ、砕いた。世界が断末魔を上げるような軋みを立て、結晶は光の塵となり、俺とリオの間に存在したはずの時間そのものが、世界から剥がれ落ちていく。
意識が現実へと引き戻される。目の前には、静かに微笑むカイがいた。だが、彼の体は足元から淡い光の粒子となって、少しずつ霧散し始めている。彼が俺に捧げ続けていた『偽りの大切な記憶』は、彼の存在そのものを削って作り出した、あまりにも優しい嘘だったのだ。
「やめろ…」俺の声は掠れていた。「カイ、お前、ずっと…!」
「やっと、本当の記憶を渡せるな、アッシュ」
彼の体が透き通っていく。
「これが…俺の、たったひとつの、一番大切な記憶だ」
消えゆくカイが、最後の力で俺の頬に触れた。流れ込んできたのは、腐敗する毒ではない。温かく、切なく、そしてあまりにも愛おしい、カイと過ごした全ての時間が凝縮された、真実の光だった。
「やめろ! カイ! 消えるな! お前がいない世界なんて、意味がないんだ!」
俺の絶叫は、虚しく響くだけだった。
「ありがとう、アッシュ…僕の、たった一人の、親友」
その言葉を最後に、カイは完全に消滅した。
第五章 ただ、君の痛みを
世界から、カイ・レンフィールドという人間が存在した痕跡は、綺麗さっぱり消え失せた。誰の記憶にも、彼の名はもうない。ただ、俺の魂の中にだけ、彼は生きている。
胸に提げた『共鳴のガラスペンダント』は、初めて濁りのない、清らかな光を放っていた。それは、カイと、リオと、俺、三人の『真の絆』が決して消えない証。
もう、他者の記憶を奪う必要はない。カイが遺してくれたたった一つの真実の記憶が、俺の心を永遠に満たしているから。それは決して癒えることのない傷跡であり、呪いではなく祝福として刻まれた、愛おしい痛みだ。
俺は空を見上げる。そこには、カイが最後に見ていたのと同じ、どこまでも優しい青が広がっていた。俺はこれから、君のいない世界で、君との記憶だけを抱いて生きていく。