第一章 売買される色彩
路地裏の湿った空気が、換気扇を通して地下室へと流れ込んでくる。
カイトは作業用ゴーグルを額にずらし、ピンセットで摘まんだ「それ」を光にかざした。
琥珀色に輝く、小さなガラス片のような結晶。
他人の記憶だ。
「純度は高いな。これなら金になる」
独り言がつい口をつく。
ここは『メモリー・ショップ』。
忘れたい悲劇を売り、煌びやかな他人の幸福を買う場所。
カイトはこの街で、非合法な記憶の修復師として生計を立てていた。
安物のパイプ椅子が軋む音がして、カイトは視線をドアに向けた。
「……どうぞ、開いてますよ」
重たい鉄扉がゆっくりと押し開けられる。
立っていたのは、場違いなほど仕立ての良いスーツを着た男だった。
整った顔立ちだが、どこか表情が抜け落ちている。
男は雨に濡れた肩を払おうともせず、真っ直ぐにカイトを見つめた。
「あなたが、カイトさんですね」
「名前は伏せてるはずだが。まあいい、客なら座れ」
男はレンと名乗った。
レンは懐から一枚の小切手を取り出し、作業机の上に置いた。
そこに書かれた桁数に、カイトは眉をひそめる。
「何の依頼だ? 殺し以外なら何でもやるが」
レンは薄く笑った。
その笑顔は、練習して作ったようにぎこちない。
「探してほしいんです」
「何を」
「私の、一番大切な記憶を」
カイトは鼻で笑った。
「記憶喪失か? 医者に行けよ」
「いいえ、違うんです」
レンは胸元を押さえた。
「穴が開いているんです。ここに。あるはずの感情が、すっぽりと抜け落ちている。誰かがいたはずなんです。私の人生を変えるような、誰かが」
カイトは溜息をつき、再びゴーグルを目に当てた。
「厄介な仕事になりそうだ」
第二章 脳内の廃墟
「少し痛むぞ」
カイトはレンのこめかみに電極のプラグを差し込んだ。
モニターに波形が走り、ノイズ混じりの映像が浮かび上がる。
記憶のダイブ。
カイトの意識は、レンの脳内にある情報の海へと潜行した。
(……綺麗なもんだ)
レンの記憶領域は整理されていた。
成功したビジネス、豪華な食事、称賛の声。
色彩豊かな記憶が並んでいる。
だが、カイトの「共感覚」が違和感を捉えた。
記憶には色がある。
喜びは黄色、怒りは赤、悲しみは青。
しかし、レンの記憶の中心には、巨大な「無色」の空洞があった。
まるで、そこだけ世界が切り取られたかのような断絶。
「なんだ、これ……」
カイトはその空洞の淵に立った。
通常の忘却ではない。
人為的に切除された痕跡だ。
しかも、非常に精巧な手口で。
「おい、レン。聞こえるか」
現実世界のカイトが問いかける。
『はい、聞こえます』
「あんた、過去に記憶を売ったことがあるな? それも、相当デカいやつを」
『いいえ……記憶にありません』
「だろうな。売ったという事実ごと、消されている」
カイトは空洞の底を覗き込んだ。
そこには、微かに残る「残り香」のような光の粒が漂っていた。
カイトはその光に触れた。
指先から、強烈な「熱」が伝わってくる。
それは、友情という名の、燃えるような緋色だった。
(……待てよ)
その緋色に、カイトは既視感を覚えた。
他人の記憶のはずなのに、なぜかカイト自身の胸が締め付けられる。
「アクセス・コード解析……発信源を特定する」
カイトはキーボードを叩き、その切除された記憶の行方を追った。
データは、都市の地下にある巨大な「記憶集積所(アーカイブ)」を指し示していた。
だが、その取引記録のIDを見た瞬間、カイトの手が止まった。
そのIDは、カイト自身が昔使っていた、裏アカウントのものだった。
第三章 過去からの請求書
「どうしました?」
プラグを抜くと、レンが不安げに尋ねてきた。
カイトは無言で立ち上がり、部屋の奥にある古い金庫を開けた。
埃を被ったその中には、一つの古びたメモリー・カプセルが転がっていた。
ラベルには何も書かれていない。
だが、カイトだけには見える。
そのカプセルから漏れ出す、懐かしくも痛々しい緋色の光が。
「見つかったのか。あんたが探していたものが」
カイトはカプセルをレンの前に置いた。
「これが、私の……?」
「再生してみるか? ただし、覚悟しろよ。見たくない現実かもしれない」
レンは迷わず頷いた。
カイトはカプセルを再生機にセットし、プロジェクターのスイッチを入れた。
空中にホログラムが展開される。
映し出されたのは、十数年前の風景。
雨漏りのするアパート。
二人の少年がいた。
一人はベッドに寝たきりの、痩せこけた少年。
もう一人は、泥だらけの顔で笑う、目つきの鋭い少年。
『大丈夫だ、レン。必ず金は作る』
映像の中の鋭い目つきの少年が言った。
『手術を受ければ助かるんだろ? 俺に任せろよ』
『でも、カイト……そんな大金……』
ベッドの少年――幼い頃のレンが、涙目で友人の服を掴む。
『お前が死ぬくらいなら、俺は何だって売ってやるさ』
場面が切り替わる。
裏路地の闇医者。
幼いカイトが、椅子に座っている。
『本当にいいのかい? 坊や。「一番大切な記憶」を摘出すれば、君の人格の一部は欠損する。二度と、彼との絆は思い出せなくなる』
闇医者の冷徹な声。
カイトは震える手で、膝を握りしめていた。
『構わねぇよ。あいつが生きてるなら、俺が忘れたって……あいつが覚えててくれりゃ、それでいい』
『契約成立だ』
閃光。
映像が途切れる。
部屋に、重苦しい沈黙が落ちた。
プロジェクターのファンが回る音だけが響く。
カイトは煙草を取り出し、震える手で火をつけた。
煙を吐き出し、天井を仰ぐ。
思い出した。
なぜ、自分がいつも何かが欠けていると感じていたのか。
なぜ、この仕事を始めたのか。
失った「何か」を埋めるために、他人の記憶に触れ続けていたのだ。
第四章 空白を埋めるもの
「……そうか」
レンの声が震えていた。
レンの目から、一筋の涙が零れ落ちる。
「私は、あなたに命を救われた。その代償として、あなたは私を忘れた」
「俺だけじゃない。お前も、手術の後遺症か何かで、俺のことを忘れたんだろうな」
カイトは苦笑した。
「皮肉なもんだ。互いに忘れちまって、再会したのがこんな薄暗い店とはな」
レンは立ち上がり、カプセルを強く握りしめた。
「戻しましょう。これをあなたの中に。そうすれば、私たちはまた……」
「よせ」
カイトはレンの手首を掴んだ。
「それはお前の記憶だ。俺が売ったのは、『俺の中にあるお前との記憶』だ。それを戻せば、取引は無効になる」
「え?」
「記憶の売買契約は絶対だ。俺があの時受け取った金で、お前は命を繋いだ。もし記憶を戻せば、因果律が狂う。お前の今の成功も、命さえも、どうなるか分からん」
これは嘘だ。
そんなオカルトじみた法則はない。
ただ、カイトは怖かった。
この美しい「自己犠牲」の記憶を取り戻してしまえば、今の薄汚れた自分が、過去の純粋だった自分に押し潰されてしまう気がした。
それに、レンには今の輝かしい人生がある。
薄汚い記憶屋の友人など、不要だ。
「じゃあ、どうすればいいんですか! 私は、命の恩人を、親友を、忘れたままでいろと言うんですか!」
レンが初めて声を荒らげた。
その必死な形相は、映像の中の幼い頃のレンと重なった。
カイトは吸い殻を灰皿に押し付け、ゆっくりと立ち上がった。
そして、カプセルをレンの手から取り上げると、床に叩きつけた。
パリーン、という乾いた音が響く。
琥珀色の光が霧散し、空気に溶けて消えていく。
「あっ……!」
レンが息を呑む。
「過去なんて、ただのデータだ」
カイトはレンの肩に手を置いた。
「空白は、埋めるもんじゃない。新しく描くもんだ」
レンが呆然とカイトを見る。
カイトはニヤリと笑った。それは、映像の中の少年と同じ、不敵で、温かい笑みだった。
「俺の名前はカイト。記憶の修復師だ。あんたの名前は?」
レンは数秒の間、瞬きを繰り返した。
やがて、その瞳に、かつてないほど鮮やかな光が宿る。
「……レンです。経営コンサルタントをしています」
「そうか。レン、いいスーツ着てんな。一着どうだ? 俺に似合うやつを見繕ってくれよ」
「……ええ。きっと、高くつきますよ」
レンの顔に、ぎこちなさのない、心からの笑顔が浮かんだ。
雨はいつの間にか上がっていた。
地下室の扉を開けると、濡れたアスファルトが街のネオンを反射して、まるで宝石箱のように輝いていた。
二人は並んで、光の中へと歩き出した。
失われた記憶の色よりも、今ここにある世界の方が、ずっと鮮やかだった。