第一章 記憶の葬儀屋
脳髄を焦がすような匂いがした。
それは古い電化製品がショートした時のオゾン臭に似ていて、それでいてどこか、腐った果実のような甘ったるさを含んでいる。
僕は眉間のシワを指で押し広げながら、コンソールの『消去(デリート)』キーを叩いた。
「……作業完了。感情係数、正常値へリセット」
モニターの中で、波形が凪いだ海のように静まり返る。
クライアントの老婆は、これでまた一つ、亡くなった夫への執着を捨て去った。
悲しみと一緒に、彼と過ごした日曜日の午後の陽だまりさえも。
「良い仕事だね、湊(みなと)。君はまるで、感情の外科医だ」
背後で所長が笑う。
称賛の言葉だが、僕には『記憶の葬儀屋』という皮肉にしか聞こえない。
西暦204X年。
トラウマケアのために開発された記憶編集技術(メモリー・エディット)は、今やただの精神整形手術に成り下がっていた。
「次の依頼です」
タブレットに通知が走る。
僕は気だるげに画面をスワイプし――そして、呼吸を忘れた。
『依頼人:不明(ID破損)』
『対象データ:破損した10年前の夏』
『報酬:君が失った"真実"』
添付されていたサムネイル画像。
それは、画質の粗い、青空と入道雲。
そして、逆光で顔の見えない少年が、こちらに手を伸ばしている写真だった。
喉の奥が引きつる。
知らないはずの画像だ。
僕は他人の記憶を何千と処理してきた。
なのに、なぜ。
この画像の匂いを、僕は知っているのだろう。
サイダーの炭酸が弾ける音。
アスファルトの熱気。
そして、錆びた鉄の味。
「……受諾します」
指が震えていた。
僕は自分自身の本能が鳴らす警鐘を無視して、ヘッドギアを深く被った。
視界が暗転し、意識が電子の海へとダイブする。
第二章 陽炎のタイムカプセル
蝉時雨が、耳をつんざくほどに響いていた。
目を開けると、そこは教室だった。
埃っぽいカーテンが風に揺れ、西日が机に長い影を落としている。
黒板には『夏休みまであと3日』の文字。
「よお、遅いじゃんか」
声がした。
心臓が早鐘を打つ。
窓際の席、机に腰掛けて逆光を背負った少年。
「……ハル?」
口をついて出た名前。
そうだ、ハルだ。
遥(はるか)。僕の幼馴染。
けれど、おかしい。
僕の記憶にあるハルは、高校卒業と同時に海外へ行き、疎遠になったはずだ。
こんな、胸が締め付けられるような懐かしさを覚えるはずがない。
「湊、お前さ。また難しい顔してる」
ハルが笑って、放り投げてきたものを僕は反射的に受け取った。
冷えた缶コーラ。
水滴が掌に落ち、冷たさがリアルに伝わる。
「これは……シミュレーションじゃないのか?」
「いいや。これはお前のストレージの奥底にあった、未解凍のアーカイブだよ」
ハルが机から飛び降りる。
スニーカーが床を叩く音が、やけに重く響いた。
「湊、お前はずっと逃げてる。自分の才能を使って、自分の心にメスを入れたんだ」
「何を言ってるんだ」
「思い出せよ。俺たちが最後に交わした約束を」
ハルが歩き出す。
教室のドアを開けると、そこには廊下ではなく、真っ白な光が広がっていた。
「来いよ。痛いけど、必要な痛みだ」
僕は躊躇い、そして踏み出した。
光の向こう側。
そこには、僕が『無かったこと』にした夏が広がっていた。
海岸沿いの道路。
二人乗りの自転車。
僕の背中に押し付けられたハルの体温。
『なぁ湊、もし俺がいなくなったら、お前どうする?』
風切り音に混じって、ハルの声が聞こえる。
『馬鹿なこと言うなよ』
『もしもの話だよ。……俺がいなくなっても、お前は絶対、自分の記憶をいじるなよ』
『は? なんだよそれ』
『約束だ。悲しくても、辛くても、それが俺たちが生きた証拠なんだから』
記憶の中の僕は笑い飛ばしている。
けれど、現在の(ダイブしている)僕は、涙が止まらない。
この後の展開を知っているからだ。
このカーブを曲がった先。
信号無視のトラック。
金属音。
視界を覆う赤。
「やめろ……!」
僕は叫んだ。
記憶の再生を止めようと、強制終了コードを脳内で叫ぶ。
だが、止まらない。
自転車が宙を舞う。
衝撃が来るはずの瞬間、ハルが僕を突き飛ばした。
アスファルトに叩きつけられる僕。
そして、鉄の塊に呑み込まれていくハル。
「あ、あぁ……ああああ!」
第三章 ノイズに隠れた真実
世界がノイズ混じりに明滅する。
記憶が壊れかけているのではない。
僕が、思い出したくなくて、必死に拒絶しているのだ。
瓦礫の中で、ハルはまだ息をしていた。
僕は這いつくばって彼に近づく。
血の匂いが、あの甘ったるい腐臭と重なる。
「……湊、無事か?」
掠れた声。
自分の体が半分潰れているのに、こいつは僕の心配をしている。
「なんで、なんでだよハル!」
「約束……守れよ……」
ハルの手が、僕の頬に触れる。
その手は冷たく、そして優しかった。
「忘れるな。……俺を、無かったことにするな」
そう言って、ハルの手が落ちた。
その瞬間、僕の世界は一度死んだ。
記憶の再生が飛ぶ。
場面は病院のベッド。
生き残った僕は、精神崩壊の寸前だった。
喪失感に耐えられず、医師に泣きついたのだ。
『この苦しみを消してください』
『ハルの死を、ただの"疎遠になった過去"に書き換えてください』
僕は、自分の才能の最初の被験者になった。
ハルの死をトリミングし、彼を「海外に行った友人」へと編集(リライト)した。
ハルとの最期の約束を破って。
「……最低だ」
現実世界(ラボ)の僕が、ヘッドギアの中で嗚咽を漏らす。
僕は、彼が命を賭けて守ろうとした僕自身(メモリー)を、自分の安寧のために切り刻んだのだ。
「やっと、思い出したな」
ノイズの向こうから、ハルの声がした。
目の前の風景が、夕暮れの教室に戻る。
無傷のハルが、また机に座って笑っている。
「ハル……これ(依頼)は、お前が仕組んだのか?」
「俺が生前、お前のサーバーに残しておいた時限式のウイルスだよ。お前がいつか、記憶操作の技術者になって、自分の記憶まで消しちまう予感がしたからな」
ハルは予言者か。
それとも、ただ単に僕のことを知りすぎていたのか。
「湊。悲しみはバグじゃない。機能(仕様)だ」
ハルが僕の前に立つ。
「悲しいってことは、それだけ大事だったってことだろ。
それを消すってことは、俺たちが過ごした時間まで否定することになるんだぜ」
「でも……痛いんだ。お前がいない世界で息をするのが、苦しいんだよ」
「知ってる。でも、その痛みがお前のアンカーになる。お前が道を踏み外さないための」
ハルの身体が、足元から光の粒子になって崩れ始めた。
プログラムの稼働時間が終わるのだ。
「待てよ、行くなよ!」
「もう行かなきゃ。……なぁ湊。今回の依頼、報酬は『真実』だったけど」
ハルは悪戯っぽく笑った。
あの頃と変わらない、少年のような笑顔で。
「追加報酬をやるよ」
ハルが僕の胸を指差す。
「俺は、お前の中で生きてる。データじゃなくて、痛みとして。
だから、もう二度と、俺を殺すなよ」
光が弾けた。
最終章 永遠のバックアップ
「……システム、切断」
ヘッドギアを外すと、ラボの冷たい空気が汗ばんだ肌を刺した。
頬を伝う液体が、顎から膝へと落ちる。
「湊くん? どうしたんだ、アラートが鳴りっぱなしだったぞ」
所長が慌てて駆け寄ってくる。
「エラーですか? バグですか?」
「いいえ」
僕は涙を拭わずに、モニターを見つめた。
そこには『復元完了』の文字が表示されている。
「バグを、修正しただけです」
僕はキーボードを叩き、あるコマンドを入力した。
『保護(ロック)』。
復元された「ハルの死」という記憶に、二度と編集ができないよう、最強のプロテクトをかける。
心臓が痛い。
息をするたびに、ハルがいない喪失感が胸をえぐる。
まるで、心臓に焼きごてを当てられたようだ。
けれど、この痛みこそが、ハルだ。
この痛みが続く限り、ハルは僕と共にいる。
「所長」
「ん?」
「今日は早退します。……久しぶりに、サイダーが飲みたくなったんです」
僕は立ち上がり、ラボの出口へと向かう。
背後で、完了したジョブのログが流れていく。
外に出ると、夏の空が広がっていた。
あの日のように青く、高く、残酷なまでに美しい。
僕は空を見上げ、深く息を吸い込んだ。
肺いっぱいに満ちる熱気と、消えない痛みを抱きしめて。
「……暑いな、ハル」
誰もいない隣に向かって、僕は初めて、心からの笑顔で呟いた。
風が吹き抜け、街路樹がざわめく。
それはまるで、彼が「ああ」と答えた時の、微かな吐息のように聞こえた。