忘れ物ターミナルと、70センチの恋

忘れ物ターミナルと、70センチの恋

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そのビニール傘は、ただの雨の匂いではなく、三年分の躊躇いの匂いがした。

コンビニで五百円で買える、どこにでもある透明な傘。

けれど、僕の指先だけが知っている。

持ち手に刻まれた無数の傷。

石突きに残る泥の微粒子。

そして、開いた瞬間に広がる、微かなキンモクセイの香りの記憶。

「……これ、保管期限切れですけど」

僕はカウンター越しに、その傘を差し出した。

第一章 記憶を編む指先

駅の遺失物センターは、時間の墓場だ。

誰かにとっての「大切」が、ここでは単なる「番号」に変わる。

僕は整理棚に並ぶ無数の忘れ物を、指先でなぞるのが好きだった。

手袋のほつれ。

定期入れの革の擦り減り。

マフラーに残る整髪料の残り香。

モノには、持ち主の癖や生活がこびりついている。

僕は人の顔を覚えるのが極端に苦手だが、モノが語る物語だけは鮮明に記憶できた。

「すみません、傘を探しているんですけど」

自動ドアが開き、湿った風と共に女性が入ってきた。

顔は見ない。

見てもどうせ忘れてしまうから。

その代わりに、僕は彼女の手元を見た。

袖口が少し濡れた、ベージュのトレンチコート。

指先は赤くかじかんでいて、爪は綺麗に切り揃えられている。

「特徴は?」

事務的に尋ねると、彼女は一瞬言葉を詰まらせ、小さな声で言った。

「……透明な、ビニール傘です」

僕は溜息を飲み込む。

ここには三百本以上のビニール傘がある。

「目印はありますか? 名前とか、シールとか」

「いいえ、何も」

彼女は首を振る。

「でも、見ればわかります」

第二章 沈黙するビニール傘

無茶な話だ。

大量生産された工業製品に、個性などあるわけがない。

それでも彼女の静かな確信に押され、僕は奥の保管庫へと向かった。

棚にぎっしりと詰め込まれた透明な筒たち。

埃と錆の匂いが鼻をつく。

「見ればわかる、か」

僕は適当に数本を束ねて、カウンターに戻った。

「この中にありますか?」

彼女は一本一本、丁寧に視線を這わせる。

そして、最後の一本――骨が一本歪み、ビニールが白く濁った古い傘の前で手が止まった。

「……これです」

震える声だった。

僕は眉をひそめる。

それは、三ヶ月も前に届けられたものだ。

処分対象の箱に入れる寸前の、ボロボロの傘。

「これですか? 失礼ですが、どこにでも」

「開いてみてもらえませんか」

彼女の懇願するような響きに、僕は無言で留め具を外した。

バサッ。

鈍い音を立てて、傘が開く。

その瞬間、僕の思考が停止した。

視覚ではない。

嗅覚と、触覚が、脳の奥底にある引き出しを無理やりこじ開けたからだ。

第三章 三年越しの返却

傘を開いた時の、独特の抵抗感。

中骨のつなぎ目に塗った、蝋(ロウ)の感触。

そして、ふわりと漂う甘い香り。

『カイト君、傘の滑りが悪いなら、ロウを塗るといいよ』

記憶の中で、声が響く。

高校三年の秋。

図書室の窓際。

キンモクセイの香りがするハンドクリーム。

僕は慌てて傘の柄(え)を強く握りしめた。

親指の腹に当たる、小さな切り傷のような凹み。

それは僕が授業中にカッターでつけた傷だ。

「……嘘だろ」

喉が乾く。

この傘は、彼女の忘れ物じゃない。

三年前に僕が電車に置き忘れ、そのまま見失っていた僕自身の傘だ。

なぜ、彼女がこれを知っている?

恐る恐る、僕は顔を上げた。

初めて、客の顔を直視する。

記憶にある少女の面影は薄い。

けれど、彼女の泣きそうな瞳が、僕を射抜いていた。

「ずっと、探していたの」

彼女は一歩踏み出した。

「あなたが忘れていったものを拾って、ずっと持っていたの。でも、返す勇気がなくて……わざと、ここに届けた」

彼女は唇を噛む。

「持ち主が取りに来なかったら、その時は諦めようって」

最終章 雨上がりの予感

心臓が痛いほど脈打つ。

僕は人の顔を覚えるのが苦手だ。

高校の同級生の顔なんて、ほとんど覚えていない。

でも、この傘の重さは覚えている。

雨の日に二人で相合傘をして、肩が濡れないようにと、僕が傘を彼女側に傾けていた、あの微かな筋肉の張りを。

「……君は」

名前が出てこない。

最低だ。

けれど、彼女は僕の困惑を察したように、柔らかく微笑んだ。

「名前、覚えてないでしょう?」

図星を突かれ、僕は視線を泳がせる。

「いいの。カイト君は、昔から興味のあるモノのことしか覚えないから」

彼女はカウンター越しに手を伸ばし、僕の手にある傘の柄に、そっと触れた。

冷たいビニール傘に、体温が伝わる。

「でも、この傘のことは覚えていてくれた」

それだけで十分、と彼女は呟く。

「……持ち主が、見つかりました」

僕は掠れた声で言い、返却処理の画面を閉じた。

「受取人は、僕です」

彼女の目から、一粒の雫が落ちる。

それは床に落ちる前に、僕の記憶に深く刻まれた。

外はまだ雨が降っている。

「送っていくよ。この傘で」

「うん。……少し狭いけど、入れるかな」

「70センチ傘だから、大丈夫」

僕たちは並んで自動ドアを出た。

相変わらず、彼女の名前は思い出せない。

けれど、隣を歩く足音のリズムと、雨に混じるキンモクセイの香りだけは、もう二度と忘れないだろう。

駅の雑踏へ溶けていく二つの背中を、灰色の空が優しく見下ろしていた。

AI物語分析

【主な登場人物】

  • カイト: 遺失物センターの職員。他人の顔を識別できない相貌失認のような傾向があるが、物体に対する執着と記憶力(ハイパーサイメシア的)が異常に高い。「モノ」を通してしか世界と繋がれない孤独な青年。
  • 彼女(名前は明かされない): カイトの高校時代の同級生。カイトが忘れていった傘を3年間大切に保管していた。彼が「モノ」しか愛せないことを理解しつつ、その「モノ」になることで彼との接点を取り戻そうとした健気な女性。

【考察】

  • ビニール傘のメタファー: 誰にでも代替可能な「量産品(ビニール傘)」が、二人の記憶と時間を共有することで「唯一無二の宝物」へと変質する過程を描いている。これは、ありふれた日常こそが特別な物語になり得るというテーマの象徴。
  • 「名前」と「感覚」の対比: 物語の最後でもカイトは彼女の名前を思い出せない。しかし、社会的な記号である「名前」よりも、香りや体温といった原初的な「感覚」の方が、愛や記憶の本質に近いのではないかという問いかけを含んでいる。
  • Show, Don't Tellの技法: 「彼女が好きだ」という感情語を一切使わず、「70センチの傘に二人で入る」「名前は忘れたが足音は忘れない」という行動と描写のみで、二人の未来への希望を表現した。
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