第一章 無味の卵焼き
俺、桐谷朔(きりたにさく)の舌は、呪われている。
他人の作った料理を口にすると、作り手の強烈な記憶が奔流となって流れ込んでくるのだ。それは甘美な恋の味だったり、どす黒い嫉妬の味だったり、あるいはどうしようもなく退屈な日常の味だったりする。フードライターという職業を選んだのは、皮肉としか言いようがない。俺は料理そのものの味を、もう十年以上まともに味わったことがない。ただ、他人の人生の断片を咀嚼し、当たり障りのない言葉に変換して糊口をしのいでいるだけだ。
だから、あの定食屋の暖簾をくぐったのも、単なる仕事の一環だった。再開発の波に取り残されたような、煤けた商店街の片隅。ガラス戸を引くと、カラン、と乾いた鈴の音が鳴った。煮物の匂いと、年季の入った木の匂いが混じり合う。客は俺一人。カウンターの向こうで、背中の丸まった老婆が、黙って布巾で徳利を磨いていた。
「日替わり、ひとつ」
老婆は無言で頷くと、ゆっくりと厨房に消えた。やがて運ばれてきたのは、焼き魚に、ほうれん草のおひたし、豆腐とワカメの味噌汁、そして、ほかほかと湯気の立つ白米。ありふれた、何の変哲もない定食だ。だが、問題は小鉢に添えられた一切れの卵焼きだった。
俺はまず、焼き魚に箸をつけた。途端に、口の中にじわりと塩辛い潮の香りと共に、無骨な漁師の記憶が広がった。夜明け前の凍える甲板、網を引き上げる腕の痺れ、港に戻った時の安堵感。うん、まあまあの人生だ。次に味噌汁をすする。これは味噌屋の若旦那の記憶か。創業百年の看板を背負うプレッシャーと、恋人との些細な喧嘩の味がした。
いつも通りの儀式だ。俺はため息をつき、最後に残った卵焼きを摘まんだ。鮮やかな黄色が、薄暗い店内で妙に存在感を放っている。口に運び、噛み締めた瞬間、俺は息を呑んだ。
味が、しない。
いや、物理的な味はある。ほんのりとした出汁の風味と、優しい卵の甘み。だが、そこに付随するはずの「記憶の味」が、まったく存在しないのだ。それは完全な無味、無臭、無色。まるで、生まれたての赤ん坊の魂に触れたかのような、純粋な空虚。あるいは、全ての情報を消去されたハードディスクのような、静謐な無。
こんな経験は初めてだった。どんなに無感動な人間が作った料理でも、そこには必ず何かしらの記憶の痕跡――昨日見たテレビ番組の感想や、夕飯の献立への悩みといった、些細なノイズがまとわりついているものだ。しかし、この卵焼きには、それらが一切ない。
「あの……」
俺は思わず、カウンターの向こうの老婆に声をかけた。老婆――千代さんと表札にあった――は、静かに顔を上げる。深い皺の刻まれた顔。その瞳は、凪いだ湖面のように穏やかだった。
「この卵焼き、すごく……不思議な味がしますね」
俺の曖昧な言葉に、千代さんはただ、ふっと口元を緩めただけだった。その微笑みは、肯定とも否定ともつかないまま、静かに店の空気へと溶けていった。
その日から、俺の日常に、この寂れた「食事処ちよ」へ通うという、新しい習慣が加わった。無味の卵焼きの謎を解き明かすために。
第二章 過去の味、未来の不在
店に通い始めて二週間が経った。俺は千代さんの作る様々な料理を味わった。豚の生姜焼きからは、彼女が若かりし頃、初めて夫に手料理を振る舞った時の、はち切れそうな恋心が。筑前煮からは、子供たちが巣立っていった日の、寂しさと誇りが入り混じったほろ苦い記憶が。どの料理も、千代さんの生きてきた長い年月の味がした。それは、慎ましくも愛情に満ちた、温かい記憶のタペストリーだった。
だが、卵焼きだけは違った。何度食べても、あの不思議な「無味」のままなのだ。それはまるで、彼女の人生の物語から、そのページだけがごっそりと抜け落ちているかのようだった。
俺自身の能力は、幼い頃に発現した。母の作るハンバーグから、父ではない別の男への思慕の味を感じ取ってしまったあの日から、俺の世界は歪んだ。俺の言葉が引き金となり、両親は離婚した。俺は人の心に土足で踏み入る怪物なのだと、そう自覚した。以来、他者との間に分厚い壁を築き、誰の人生にも深入りしないよう生きてきた。他人の記憶を味わうことは、俺にとって祝福ではなく、他人のプライバシーを暴く暴力に他ならなかった。
だから、千代さんの卵焼きの「無」は、俺にとって一種の救いですらあった。そこでは、俺の呪われた舌は無力化される。ただ純粋に、料理の味だけを感じられる……いや、違う。これは単なる無ではない。何か、もっと根源的な意味を持つ「無」のような気がしてならなかった。
ある雨の日、客はまた俺一人だった。店の隅のテレビが、淡々と天気予報を伝えている。俺はいつものように日替わり定食を頼み、最後に卵焼きを残していた。
「千代さん」
俺は、カウンター越しに声をかけた。
「千代さんの料理は、いつも優しい味がしますね。たくさんの思い出が詰まっている」
千代さんは、洗い物をしていた手を止め、静かに振り返った。
「思い出、ねぇ……」
老婆は小さく呟き、窓の外の雨に目を細めた。
「長いこと生きてりゃ、嫌でも溜まっていくもんだよ」
「でも、この卵焼きだけは、いつも味がしないんです。あなたの記憶が、何も感じられない」
言ってしまってから、しまった、と思った。あまりに踏み込みすぎた質問だ。俺の能力を知らない彼女にとっては、意味不明な戯言にしか聞こえないだろう。
しかし、千代さんは驚いた様子もなく、ただ静かに俺を見つめていた。その深い瞳が、まるで俺の秘密のすべてを見透かしているかのように。
「あんた、面白い舌を持ってるんだねぇ」
千代さんはそう言うと、ふわりと笑った。
「そりゃあ、味なんてしないさ。だってあそこには、まだ何もないんだから」
「……何もない?」
「そうだよ。過去が、ないんだ」
千代さんの言葉は、まるで禅問答のようだった。俺の混乱をよそに、彼女はゆっくりと語り始めた。その声は、雨音に溶けるように、静かで、そしてどこか懐かしむような響きを帯びていた。
第三章 未来の約束
「うちの主人はね、亡くなる前の数年間、少しずついろんなことを忘れていきました。アルツハイマーっていう、病気でね」
千代さんは、カウンターの隅に飾られた、色褪せた一枚の写真を指差した。そこには、はにかむように笑う千代さんと、その肩を優しく抱く、人の良さそうな男性が写っている。
「自分の名前も、私の顔も、だんだん分からなくなっていった。でもね、不思議なことに、卵焼きだけは『うまい、うまい』って、毎日嬉しそうに食べてくれたんですよ」
彼女の声は震えていなかった。むしろ、愛おしいものを語るかのように、穏やかだった。
「主人は、昨日卵焼きを食べたことも、その前の日に食べたことも、全部忘れちまう。だから、主人にとって、毎日の卵焼きは、いつも初めて食べる『ごちそう』だったんです」
俺は息を呑んだ。目の前の光景が、ぐにゃりと歪む。千代さんの言葉が、俺の脳髄に直接染み込んでくるようだった。
「だからね、私が卵焼きを作る時、そこに込めていたのは、過去の思い出じゃなかったんですよ」
千代さんは、俺の目をまっすぐに見て言った。
「私が込めていたのは、『明日もまた、あなたのために美味しい卵焼きを作るからね』っていう、未来への約束だけだったの」
未来。
その一言が、雷のように俺を打ち抜いた。
俺の能力は、作り手の「記憶」、つまり「過去」を味わうものだ。だから、過去の蓄積が一切ない、純粋な未来への祈りや約束だけが込められた料理は、「無味」に感じられたのだ。それは空虚なのではなく、まだ何も描かれていない、真っ白なキャンバスだった。まだ誰のものでもない、明日という名の希望そのものだった。
俺は、自分の能力を、そして世界を、根本的に誤解していた。
人は過去だけでできているわけじゃない。失われた記憶の向こう側で、千代さんは夫のために未来を焼き続けていた。味のしない卵焼きは、記憶を失った夫と、それでも明日に希望を繋ごうとした妻との、最も純粋で、最も切実な愛の対話だったのだ。
俺はこれまで、他人の過去を盗み見ては、その人を分かった気になっていた。この人はこんな苦労をしたのか、あの人はこんな喜びを知っているのかと。だが、それは人間の半分しか見ていなかったに過ぎない。人が本当にその人であるのは、背負った過去によってではなく、これから向かおうとする未来によって形作られるのかもしれない。
「主人が亡くなってからも、癖みたいなもんでね。卵焼きを作る時は、つい、明日のことを考えちまうんだよ。明日も良い日でありますように、ってね」
千代さんはそう言って、また柔らかく笑った。その笑顔には、深い悲しみを乗り越えた者だけが持つ、圧倒的な優しさと強さが宿っていた。俺は、その笑顔の前で、ただ立ち尽くすことしかできなかった。
第四章 新しい舌
数日後、俺は一本の記事を書き上げた。それは、いつものような店の情報や料理の評価を羅列したものではなかった。「食事処ちよ」という小さな店の、卵焼きにまつわる物語。料理に込められた、過去ではなく未来への想いについて綴った、個人的なエッセイだった。自分の呪われた能力を、初めて、誰かを傷つけるためではなく、誰かの人生の尊さを伝えるために使った。書き終えた時、胸の中に温かい何かが込み上げてくるのを感じた。
記事が掲載された雑誌が発売されてから、一週間ほど経った頃。俺は再び店の暖簾をくぐった。店内には、以前にはなかった活気があった。数組の客が、楽しそうに食事をしている。俺に気づいた千代さんが、カウンターの空いている席にそっと湯飲みを置いてくれた。
「記事、読んだよ。なんだか、気恥ずかしいねぇ」
千代さんは、少し照れたように言った。
「でも、ありがとう。あんたのおかげで、主人も喜んでると思うよ」
俺は何も言えず、ただ首を横に振った。
しばらくして、定食を平らげた俺の前に、千代さんが黙って小皿を置いた。そこには、湯気の立つ、黄金色の卵焼きが一切れ。
「さ、お食べよ」
促されるまま、俺はそれを口に運んだ。
そして、世界が変わった。
それは、もはや「無味」ではなかった。舌の上に、ふわりと、陽だまりのような温かい味が広がった。それは、感謝の味だった。俺への、「ありがとう」という、言葉にならない想いの味だった。そして、そこには微かな激励の味も混じっていた。「あんたも、前を向いてお生きよ」という、優しいエールの味が。
過去の記憶ではない。今、この瞬間に生まれた、千代さんから俺への、温かい想いそのものだった。
俺の目から、一筋の涙がこぼれ落ちた。塩辛い雫が、卵焼きの甘さと混じり合う。
「……ごちそうさまでした」
絞り出した声は、震えていた。
「すごく、美味しかったです」
俺の舌は、まだ呪われているのかもしれない。これからも、望まない他人の過去を味わい続けるのだろう。だが、もう絶望はしない。俺は知ってしまったからだ。この舌が、過去だけでなく、未来へ向かう人々の温かい祈りや希望をも感じ取れることを。
店を出ると、西の空が茜色に染まっていた。俺の日常は何も変わらない。明日もまた、どこかの店で、誰かの人生の断片を味わうのだろう。しかし、俺が世界から受け取る「味」は、もう決して同じではない。
これからは、過去の味に絶望するのではなく、未来の味を探して生きていこう。まだ誰も味わったことのない、希望という名の味を。俺は、夕暮れの商店街を、少しだけ胸を張って歩き始めた。