時の膜を紡ぐ者
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時の膜を紡ぐ者

第一章 薄膜の世界

僕、時任湊(ときとう みなと)の目には、世界が少しだけ違って見えている。人々が触れた物や空間には、彼らが過ごした「時間」が、薄い膜となって付着しているのだ。それはまるで、陽光に透ける埃のように、あるいは雨上がりの蜘蛛の巣のように、世界の表面を繊細に覆っている。

僕が営む古道具屋『刻詠堂』は、そんな「時間の膜」で溢れていた。客が持ち込む品々に指を滑らせれば、その厚みや手触り、微かな光沢から、持ち主がどれほど濃密な時を過ごしたかが伝わってくる。喜びに震えた瞬間の膜は絹のように滑らかで、深い悲しみに沈んだ時間のそれは、ざらついた砂のように指先に絡んだ。

僕の傍らには、いつも一つの懐中時計があった。祖父の形見であるその時計は、しかし時間を刻むことはない。代わりに、持ち主を失い、剥がれ落ちた「時間の膜の破片」を、その透明な内部に静かに吸い寄せていた。長い年月をかけて、時計の内部は真珠色の霞のように、少しずつ混濁し始めていた。

近頃、街では奇妙な噂が囁かれていた。「透明化病」。人々が「退屈」を感じ、日常に変化がなくなると、その存在が物理的に薄れていくという。最初は都市伝説の類だと思われていたが、日に日に透き通った体で街を歩く人々の目撃談が増えていった。

そんなある日、僕は市立図書館で、ある女性に目を奪われた。司書の佐伯栞さん。彼女がカウンターで本に触れるたび、そこに付着する時間の膜は、驚くほど均質で、波紋一つない水面のように静かだった。けれど、その静けさの中には、磨き上げられた水晶のような、凛とした美しさが宿っていた。僕は知らず知らずのうちに、彼女が触れた本が纏う、その穏やかな時間の膜に惹きつけられていた。

第二章 剥がれ落ちる昨日

異変に気づいたのは、それから数週間後のことだった。いつものように図書館を訪れた僕は、栞さんが返却された本を棚に戻す姿を見て、息を呑んだ。彼女が触れた本の表紙から、あの水晶のようだった時間の膜が、まるで乾燥した皮膚のように、はらりはらりと剥がれ落ちていたのだ。

それは、僕が初めて見る光景だった。

膜は光の粒子となり、床に落ちる前に掻き消えていく。その後には、何の感情も、何の記憶も宿らない、ただの「物質」としての本が残されるだけだった。

「どうかなさいましたか?」

僕の視線に気づいた栞さんが、小さく首を傾げた。彼女の声はいつも通り穏やかだったが、その輪郭が、ほんの少しだけ揺らいで見えたのは気のせいだろうか。

僕は言いようのない焦燥感に駆られた。この現象は、栞さんだけではなかった。公園のベンチで毎日同じ時間に鳩に餌をやる老人。決まったルートを散歩する犬を連れた主婦。彼らが触れるあらゆるものから、彼らの「昨日」が剥奪されていく。そして、膜を失った人々は例外なく、その存在が日に日に希薄になっていった。まるで、世界が彼らを忘れようとしているかのように。

なぜだ? 誰が、彼らの時間を盗んでいる? 僕は栞さんの姿を追いながら、ポケットの中の懐中時計を強く握りしめた。冷たいガラスの感触だけが、僕の焦りを鎮めてくれる唯一のものだった。

第三章 懐中時計の脈動

その日は、朝から冷たい霧雨が降っていた。図書館の窓際で本を読む栞さんの姿は、ほとんど向こう側が透けて見えそうなくらいに薄くなっていた。彼女の指先がページをめくる。その瞬間、またしても膜が粉雪のように舞い散った。彼女の体が、さらにふっと光に溶ける。

僕は、衝動的に立ち上がった。彼女が読んでいた文庫本が、手から滑り落ちる。床に落ちる寸前、僕はそれを掴み取った。

その刹那だった。

ポケットの中で、懐中時計が心臓のように、どくん、と強く脈打った。熱い。ガラスが燃えるように熱を帯び、内部に溜まっていた真珠色の霞が、激しく渦を巻き始めた。

「あっ……」

栞さんの小さな声が聞こえる。彼女の体は、今にも消えてしまいそうなほど頼りなく揺らめいていた。

助けたい。その一心で、僕は懐中時計を握ったままの手で、掴んだ文庫本に強く触れた。すると、信じられないことが起きた。時計から溢れ出した光の奔流が、僕の腕を伝い、本の表紙へと流れ込んでいく。剥がれ落ちていたはずの時間の膜が、まるで逆再生の映像のように、本の表面に再び定着していくのだ。

そして、栞さんの体が、ほんの少しだけ、色を取り戻した。

僕は悟った。彼女たちの時間を奪っていたのは、外部の何かではなかった。彼ら自身だったのだ。変化を恐れる心。予測できない未来から目を逸らし、傷つくことも、狂喜することもない、安全で平坦な「現在」に留まろうとする無意識の自己防衛。それが、感情の詰まった重たい「過去」という名の膜を、自らの手で剥がしていたのだ。

第四章 静かなる選択

僕は、震える声で栞さんにすべてを話した。僕に見える世界のこと。時間の膜のこと。そして、彼女自身が、自らの過去を拒絶していることを。

「僕なら、あなたの時間を元に戻せるかもしれない」

僕は懐中時計を彼女に見せた。その内部では、今しがた放出した分の霞が減り、代わりに栞さんのものだった光の粒子が穏やかに漂っている。これが、治療の鍵になる。

しかし、栞さんは静かに首を振った。その表情は、絶望ではなく、むしろ安堵に満ちていた。

「ありがとうございます、時任さん。でも……いいんです、このままで」

彼女の声は、霧雨のように優しく響いた。

「もう、何も期待しなくていい。誰かにがっかりされることも、自分が傷つくこともない。毎日、同じ時間に起きて、同じ道を歩いて、同じ本に触れる。この、何も起こらない毎日が、私には……とても、楽なんです」

衝撃だった。良かれと思って伸ばした手は、彼女が望んだものではなかった。僕が「取り戻すべきだ」と信じていた豊かな感情の記憶は、彼女にとってはただの「重荷」でしかなかったのだ。

他の人々も同じだった。僕は数人の「透明化病」の患者に接触を試みたが、彼らは皆、穏やかな笑みを浮かべて治療を拒んだ。変化という名のノイズがない、静かで安全な世界。それこそが、彼らがたどり着いた幸福の形だった。

第五章 共存する時間

世界は、僕が思うよりもずっと早く、その新しい姿に適応していった。街には、光にかざすと輪郭が揺らぐ「透明な人々」が当たり前のように存在するようになった。彼らは過去を捨て、永遠に続く穏やかな「現在」を生きている。誰と争うこともなく、ただ静かに、そこにいる。

僕はもう、懐中時計を使って誰かの時間を無理に戻そうとは思わなかった。それは僕のエゴでしかなかったのだと、ようやく理解したからだ。

『刻詠堂』の古びた扉を開け、今日も仕事にかかる。客が置いていった古い万年筆に触れると、指先に伝わってくるのは、作家が苦悩した夜のざらつきと、物語を書き上げた瞬間の、弾けるような喜びの膜だった。痛みも、喜びも、怒りも、愛しさも、すべてが複雑に絡み合った、濃密な時間の層。

ああ、これだ。

この、ままならない感情の起伏こそが、僕が「生きている」証なのだ。

窓の外では、透き通った体の栞さんが、いつものように図書館へと向かって歩いている。彼女の微笑みは薄いが、確かにそこにある。彼女が選んだ平穏もまた、一つの尊い生き方なのだ。

僕はポケットから懐中時計を取り出し、窓から差し込む夕陽にかざした。その内部で渦巻く、無数の人々の失われた過去の破片。それはもう、誰の元にも返されることはない。

この時計は、僕が背負っていく、愛おしくも切ない物語たちの墓標だ。

僕は、透明な人々と、濃密な膜を纏った人々が共存するこの世界で、生きていく。それぞれの時間が、それぞれの形で輝くことを、ただ静かに見守りながら。

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