響の残響、沈黙の未来
第一章 塵の囁きと耳鳴り
俺、響(きょう)の世界は、常に音で飽和している。
カフェのテーブルに置かれた古びた新聞。そのインクが滲んだ活字に視線を落とした瞬間、世界は反転する。カップを置く音も、隣の席の男女のひそひそ話も、窓の外を走る路面電車の走行音も、すべてが彼方へと遠ざかる。代わりに、鼓膜の内側で、いや、脳の芯で直接、数千、数万の音が奔流となって溢れ出すのだ。
『市庁舎、陥落せり』――その見出しが印刷された瞬間の、輪転機のけたたましい咆哮。インクの焦げる匂い。記事を書いた記者の、荒い息遣いと万年筆が紙を引っ掻く音。そして、市庁舎前で勝利を叫ぶ革命軍の怒声と、崩れ落ちる瓦礫の轟音。それら全てが、一瞬にして俺の中に流れ込み、混ざり合い、一つの巨大な耳鳴りとなって俺の意識を蝕む。
これが俺の能力であり、呪いだ。文字を認識するたび、その文字が記された瞬間のすべてを追体験してしまう。人々は、大気中に漂う『歴史の塵』を呼吸することで過去と繋がっているという。だが俺は、その塵の核に直接触れてしまう。
だから、俺は人と目を合わせられない。本を読むときは、厚い手袋が手放せない。会話は、常に途切れ途切れだ。相手の言葉の背後で、その言葉が由来するであろう過去の哲学者や詩人たちの声が、大合唱を始めるからだ。俺の人生は、他人の過去の残響に覆い尽くされていた。
近頃、奇妙な現象が頻発していた。『時間の澱』。あまりにも語られなくなった歴史が、塵から澱へと凝結し、その時代の記録ごと物理的に消滅する現象だ。図書館の書架から忽然と本が消え、地図から街の名前が失せる。人々は、まるで最初からそんなものが存在しなかったかのように、その記憶すら失っていく。まるで世界が、自らの過去を静かに、そして着実に喰らっているかのようだった。
第二章 途切れた凱歌
「響くん、君にしか頼めない」
王立古文書館の白石館長は、皺の刻まれた顔を曇らせて言った。彼の前に置かれていたのは、ガラスケースに収められた一枚の羊皮紙。『大調和時代の宣言書』。百年前、永きにわたる大戦を終結させ、平和な時代を築いたとされる、歴史上最も輝かしい記録の一つだ。
「この宣言書が、薄れ始めている。周辺の記録から、徐々に……」
『時間の澱』の兆候だった。俺は頷き、手袋を外すと、冷たい汗が滲む指先でそっとガラスケースに触れた。宣言書の、流麗なカリグラフィーで書かれた最初の文字に意識を集中する。
――瞬間、世界が鳴動した。
割れんばかりの民衆の歓声。天を衝くように鳴り響く教会の鐘。高らかに吹き鳴らされるファンファーレ。宣言を読み上げる初代大統領の、希望に満ちた力強い声が、俺の頭蓋に直接響き渡る。肌を撫でる風は、紙吹雪と人々の熱気を運び、太陽の光が目に眩しい。完璧な、祝福に満ちた音の洪水。歴史の教科書が伝える、理想の瞬間そのものだった。
だが、宣言の最後の言葉が紡がれ、民衆の喝采が最高潮に達した、まさにその時。
ブツッ。
古い録音テープが途切れるような、不快なノイズ。そして、完全な『無音』。まるで、壮大な交響曲のフィナーレの直前で、指揮者が突然心臓発作でも起こしたかのような、不自然極まりない断絶。音の洪水は唐突に止み、そこにはただ、空虚な静寂だけが残された。
俺は息を呑んだ。『時間の澱』は、記憶が薄れることで起こる自然現象のはずだ。こんな風に、まるで誰かが意図的に録音を消去したかのような、鋭利な断絶などあり得ない。
第三章 音のない墓標
あの『断絶』の正体を突き止めなければならない。俺は過去の消失記録を洗い直し、奇妙な共通点にたどり着いた。消滅した歴史的建造物の跡地や、記録が失われた図書館の中心には、必ずと言っていいほど、一つの物体が残されている。
『沈黙の石碑』。
政府の厳重な保管施設。その最深部に、それは安置されていた。闇そのものを切り出したかのような、漆黒の石板。表面は滑らかで、文字一つ、模様一つ刻まれていない。俺は監視の目を盗み、その冷たい石肌に震える指先で触れた。
能力が発動しない。
何の音も聞こえなかった。石が切り出された山の風の音も、これを運んだ人々の声も、設置した者の息遣いも。何もかもが、この石碑の前では無に帰していた。しかし、それは単なる『無音』ではなかった。俺の能力がこれまで経験したことのない、圧倒的な質量を持った『沈黙』が、精神に直接流れ込んでくる。それは、大声で叫んでも、その声が音になる前に空間に吸い尽くされてしまうような、絶対的な虚無。何かが存在した場所から、その存在ごと根こそぎ抉り取られた後に残る、痛みを伴う静寂だった。
胸が締め付けられ、呼吸が苦しくなる。これは、自然に生まれた静けさではない。意図的に、暴力的に、音が殺された後の静寂だ。これは、歴史の墓標なのだ。
第四章 ガラスの未来
石碑から手を離そうとした、その瞬間だった。俺の能力が、これまで感じたことのない力で暴走を始めた。『沈黙』が、俺の内なる音の奔流を逆流させ、時空の壁を破壊したのだ。
視界が白く染まり、意識が浮遊する。
次に目を開けた時、俺はガラスと光で出来た、幾何学的な都市の空中に立っていた。争いも、貧困も、憎しみもない。人々は穏やかな表情で歩いているが、その瞳には何の光も宿っていなかった。笑う者も、泣く者もいない。まるで精巧に作られた自動人形のようだ。彼らは、『歴史の塵』を含まない、濾過され尽くした純粋な空気を吸っている。
『――ようこそ、調停者』
声が響いた。男でも女でもない、無機質な声。未来の人類が作り上げた、歴史を管理する統合思念体、あるいは最終兵器。それが、俺に直接語りかけていた。
『我々は、悲劇の連鎖を断ち切った。過去の過ち、憎しみ、戦争……そのすべての根源となる歴史を消去することで、完全なる調和を実現したのです』
『意図的な沈黙』の正体。それは、未来からの介入だった。彼らは『沈黙の石碑』をアンカーとして過去に打ち込み、不都合な歴史を『時間の澱』として強制的に消滅させていたのだ。
『大調和時代は、新たな悲劇の火種でした。故に、消去対象と判断された。あなたには、我々の偉業を見届ける権利がある』
その声は、微塵の疑いもなく、自らの正義を語っていた。感情を失った、完璧な未来。それが、彼らの目指した理想郷だった。
第五章 少女の絶叫
俺の意識は、再び保管施設の冷たい床の上へと引き戻された。目の前には、相変わらず黙したままの石碑がある。未来の声が、再び脳内に響く。
『選択の時は来た、調停者よ。その石碑を破壊すれば、我々の介入は停止する。だが、それは人類が再び血塗られた歴史を繰り返すということだ。愚かな過ちを、悲劇を、未来永劫に。あるいは、石碑をそのままにすれば、歴史の浄化は完了し、我々の完璧な未来が確定する』
どちらを選んでも、待っているのは悲劇だ。血と涙に濡れた歴史か、感情を失った虚無の未来か。
俺は、混乱する頭で必死に記憶を手繰り寄せた。『大調和時代の宣言書』から聞こえた、あの音。あの『断絶』の直前に、確かに何かがあった。歓声とファンファーレの隙間を縫って、鼓膜の奥にかすかに届いた、何か。
もう一度、全神経を集中させる。記憶の深淵に潜り、あの瞬間を再生する。
――聞こえた。
それは、初代大統領の演説を遮るように響いた、か細く、しかし凛とした声だった。
「偽りの平和だ!」
群衆の中から叫んだ、名もなき一人の少女の声。
「犠牲の上に築かれた平和に、何の意味がある! 私たちの痛みを、忘れるな!」
その声は、歓声にかき消される寸前、鋭利なノイズと共に断ち切られていた。これだ。これこそが、未来が最も消し去りたかった『不都合な真実』の残響。大調和時代の輝かしい光の裏にあった、語られることのない影。その痛みの記憶こそが、彼らの完璧な未来を否定する、たった一つの音だった。
第六章 沈黙に刻む音
俺は、ガラス張りの未来都市と、そこで無表情に行進する人々を幻視する。同時に、百年前の広場で、たった一人で真実を叫んだ少女の、涙に濡れた瞳を幻視する。
どちらも、救いなどない。
だが、選ばなければならない。
俺はゆっくりと立ち上がり、再び『沈黙の石碑』に両手を置いた。破壊でも、放置でもない。俺が選ぶのは、第三の道。
「聞こえるか、未来」
俺は呟き、自らの能力を、その存在のすべてを解放した。俺の身体が、内側から発する光で淡く透け始める。
革命前夜のパリの喧騒を。市庁舎前で勝利を叫んだ男の声を。大調和の偽りを告発した少女の絶叫を。そして、俺がこれまで聞いてきた、人類が紡いできた無数の喜び、悲しみ、怒り、愛……その全ての音を、俺は自らの命を触媒として、この『沈黙の石碑』に刻み込んでいく。
完璧な静寂ではない。痛みを伴う記憶こそが、俺たち人間が人間である証なのだと。たとえそれが、悲劇を繰り返す愚かな道だとしても、感情を失った人形になるよりは、遥かにいい。
身体が光の粒子となって崩れていく。意識が薄れゆく中、俺は最後に一つの音を聞いた。
それは、果てしなく遠い未来。ガラスの都市で、誰かが偶然この石碑に触れる音。そして、初めて『歴史の音』を聞いたその人物が、忘れていたはずの感情を取り戻し、その頬に一筋の涙を伝わせる、微かな、微かな残響だった。