第一章 玉座の嗚咽
指先が冷たい金属に触れた刹那、世界が裏返った。
地下収蔵庫特有のカビ臭い静寂が弾け飛び、鼻腔を焼くような鉄錆の臭いが充満する。
いや、違う。これは血だ。
むせ返るような鮮血と、排泄物の臭い。
「……ひっ、ああ……来るな、来るなあっ!」
耳をつんざく絶叫。
鼓膜がびりびりと震える。歴史の教科書で語られるような、威厳に満ちた朗々たる声ではない。
喉の奥から汚らしく絞り出された、情けない命乞い。
視界の歪みが収束すると、そこは豪奢な謁見の間だった。
けれど、玉座に座る者はいない。
その足元、最高級の絨毯にしがみつき、小刻みに痙攣している老人が一人。
股間が濡れている。
これが、あの『建国の賢帝』?
大陸を平定し、百年の平和を築いた英雄の真実なのか。
「時野さん? おい、時野!」
肩を強く揺すられ、私は現実に引き戻された。
肺の中の空気を一気に吐き出し、膝をつく。
目の前には、同僚の榊が心配そうに顔を覗き込んでいた。
「また『発作』か? 唇、真っ白だぞ」
「……平気。ちょっと、立ちくらみしただけ」
額に滲んだ脂汗を袖口で乱雑に拭い、私は手元の遺物――皇帝が愛用したとされる短剣――から指を引き剥がした。
心臓が肋骨を内側から叩いている。
あれは間違いなく、皇帝の残留思念だ。
私の呪いじみた能力、『感情共鳴』。
遺物に触れるだけで、そこに焼き付いた過去の情動を、我がことのように追体験してしまう。
「で、どうだった? この短剣から、賢帝陛下の崇高なビジョンでも受信できたか?」
榊が半分呆れたように、口の端を吊り上げる。
彼は私の能力を「感受性が強すぎるゆえの幻覚」だと思っている。
訂正する気はない。
「霊能者」として崇められるより、「神経質な変人」として扱われるほうが、この職場では生きやすい。
「……いいえ。何も」
私は息を吐くように嘘をついた。
あんな惨めで、滑稽な絶望。口が裂けても言えない。
「それより榊さん。この箱の隅にある、これ……何ですか?」
短剣が収められていた木箱。その内張りのビロードが裂けた隙間に、何かが埋もれていた。
ピンセットで慎重につまみ上げる。
真鍮製の、古びたペンダントだった。
中央には親指ほどの小さな砂時計が嵌め込まれている。
「ああ、それか。目録には『未鑑定の装飾品』とだけある。ガラクタだよ。ほら、砂も詰まってる」
榊の言う通りだった。
砂時計の中の赤い砂は、重力に逆らうように上部のガラス球に張り付き、一粒たりとも落ちてこない。
まるで、時間がそこで凍結されたかのように。
美しい、と思った。
あの汚れた悲鳴とは対照的な、静謐な佇まい。
私は吸い寄せられるように、そのガラス面に指を触れた。
ドクン、と。
心臓の鼓動が跳ねた。
短剣の時とは違う。
泥のような恐怖ではない。
もっと鋭く、熱く、胸を焼き尽くすような――
『祈り』だ。
視界が白熱する。
私は、自分の体が研究室の床へ崩れ落ちていく感覚さえ置き去りにして、その熱量の中へとダイブした。
第二章 崩落する空
焦げた匂いがする。
目を開けると、そこは終わりの風景だった。
空が、割れている。
比喩ではない。紫色の天蓋に巨大な亀裂が走り、そこからどす黒い何かが――星を食らうイナゴの大群のような影が、滝のように溢れ出している。
大地は悲鳴を上げて砕け、見渡す限りの伽藍が炎に包まれていた。
『あ、あ……あぁ……!』
足元で、誰かが腰を抜かしている。
あの老人だ。賢帝だ。
彼は半狂乱で首を振り、己が招いた破滅から目を背けようと顔を覆っている。
『下がっていてください、陛下』
凛とした、鈴を転がすような声。
だが、そこには鋼の響きがあった。
私の目の前に、一人の騎士が立っていた。
銀色の鎧は無惨に砕け、半身は血に濡れている。
長く美しい銀髪も煤と埃にまみれ、それでも彼女は、背後の愚かな王を守るように仁王立ちしていた。
彼女の顔は、歴史書のどこにも載っていない。
肖像画も、石像も、名前すらも。
この時代の記録は「空白の百年」と呼ばれ、内乱があったとしか記されていないはずだ。
なのに、なぜ。
世界が崩れゆくこの地獄で、彼女だけがこんなにも鮮烈に輝いて見えるのか。
彼女の胸元で、あの砂時計のペンダントが激しく脈打っている。
「……誰?」
私の唇が動いた。
声になるはずがない。私はただの傍観者、時を超えた幻影なのだから。
けれど、彼女は振り返った。
戦場の轟音の中で、正確に、私と視線を合わせた。
『ごめんなさい』
唇の動きだけで、彼女はそう言った。
その瞳が、悲しげに揺れる。
彼女には見えているのだ。この凄惨な光景を覗き見ている、未来の私が。
彼女は剣を捨てた。
震える手で、首元のペンダントを握りしめる。
『こんなものを見せてしまって、ごめんなさい』
彼女の声が、直接脳髄に響く。
鼓膜ではない。魂が共鳴している。
彼女は、迫りくる空の亀裂を見上げた。
もう、剣でどうにかできる段階ではない。
世界は終わる。彼女も、皇帝も、この星も。
『でも、これしかないの』
彼女は砂時計を首から引きちぎった。
華奢な指が白くなるほど強く、強く握りしめる。
爪が掌に食い込み、血が滲む。
「やめて」
私は無意識に手を伸ばしていた。
何をしようとしているのか、理屈ではわからない。
けれど、本能が叫んでいる。
それをすれば、彼女自身が砕け散ってしまうと。
彼女は泣きそうな顔で、けれど聖母のように微笑んだ。
『お願い。彼を、英雄にしてあげて』
彼女は、砂時計を逆さまにした。
カチリ。
世界が噛み合う音がした。
次の瞬間、彼女の輪郭が砂のように崩れ始めた。
指先から、髪の先から、サラサラと赤い砂になって、空の亀裂へと吸い込まれていく。
「いやっ! 行かないで!」
私は彼女の腕を掴もうとした。
けれど私の手は、舞い散る砂を虚しくすり抜けた。
『あなたたちが生きる未来が、幸せでありますように』
最期の祈りが、風に溶ける。
彼女の体が完全に崩れ去り、その奔流が時間を、空間を、因果そのものを強引にねじ曲げていく。
視界が赤く染まる。
彼女の命の色で、世界が塗り替えられていく。
第三章 共犯者の夜明け
ガタッ。
椅子が倒れる音で、私は我に返った。
自分のデスク。見慣れたパソコンの画面。
点滅するカーソル。
「時野さん? 大丈夫か、すごい勢いでキーボード叩いてたけど」
入り口で、榊がコーヒーカップを片手に目を丸くしている。
私は荒い息を繰り返しながら、画面上の文字を見つめた。
そこには、私が無我夢中で打ち込んだ「告発文」があった。
『建国の賢帝の真実』
『世界を滅ぼしかけた愚王と、歴史から消抹された騎士について』
『ペンダントの砂時計が示す、時間遡行の痕跡』
指先が震えている。
右手に握りしめられたペンダントは、氷のように冷たかった。
中の砂は、サラサラと下へ落ちている。
止まっていた時間が、彼女の犠牲を糧に動き出したのだ。
世界は救われた。
彼女の存在そのものを代償にして、破滅の事実は「なかったこと」にされた。
残ったのは、賢帝という虚構の英雄だけ。
許せない。
こんなの間違っている。
彼女の名誉を取り戻さなければ。真実を白日の下に晒さなければ。
それが、目撃者である私の義務だ。
私は「送信」ボタンにマウスカーソルを合わせた。
これを学会のデータベースに一斉送信すれば、歴史は覆る。
国中が大騒ぎになるだろう。
私たちのアイデンティティは根底から揺らぎ、混乱が訪れるかもしれない。
でも、それが正義だ。
「……ふう。今日のコーヒーは特に美味いな」
不意に、榊が窓際で伸びをした。
「見てみろよ時野さん。昨日の嵐が嘘みたいに、いい空だ」
つられて、私も窓の外を見た。
雲ひとつない青空。
街路樹が風に揺れ、通りを歩く人々の笑い声が微かに聞こえる。
平和だ。
あくびが出るほど、平和で、退屈で、愛おしい日常。
「……ねえ、榊さん」
「ん?」
「もし、この平和な景色が……誰かの残酷な犠牲の上に成り立っている嘘っぱちだとしたら、どうする?」
榊はコーヒーをすすり、少し考えてから肩をすくめた。
「さあな。でも、俺はこの退屈な毎日が結構気に入ってるよ。嘘でも幻でも、今日こうして時野さんとコーヒーが飲めるなら、その『誰か』に感謝するかな。……真実を暴いてこの空が曇るくらいなら、俺は騙されたままでいい」
彼の何気ない言葉が、鋭い楔となって私の胸に刺さった。
『あなたたちが生きる未来が、幸せでありますように』
消えゆく彼女の、最後の願い。
私が真実を暴けば、彼女が命がけで守ったこの「退屈な幸せ」を、私の手で壊すことになる。
彼女は、名誉なんて欲しくなかったのだ。
ただ、この青空を守りたかっただけ。
私は画面に向き直った。
カーソルは「送信」の上で点滅している。
視界が滲んだ。
喉の奥が熱くなり、嗚咽を噛み殺す。
私は震える指でマウスを動かし、ウィンドウの「×」をクリックした。
『保存しますか?』
『いいえ』
画面から文字が消えた。
彼女の生きた証が、またひとつ、闇に葬られた。
「……そうね。私も、この景色が好きよ」
私は立ち上がり、ペンダントを白衣のポケット深くに押し込んだ。
「あれ、その砂時計どうするんだ? やっぱり何か曰く付きか?」
「ううん。ただの、壊れたおもちゃだったわ」
私は榊に向かって微笑んだ。
鏡を見なくてもわかる。今の私は、きっと上手く笑えている。
秘密という名の共犯関係を結んだ、大人の顔で。
ポケットの中で、硬い感触が太ももに押し当たる。
ずしりと重い。
たった数グラムの金属とガラスの塊が、まるで世界の全てを詰め込んだように重い。
指先でそっと撫でる。
ガラス越しに伝わる微かな振動。
砂が一粒落ちるたび、私の心臓も同じリズムで脈を打つ。
ザラッ、ザラッ。
それは彼女が削り落とした命の音だ。
この音が続く限り、私は忘れない。
歴史書には一行も記されない、孤独な英雄のことを。
私はポケットの重みを抱きしめながら、眩しすぎる青空を見上げた。