時を超える螺旋の書

時を超える螺旋の書

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第一章 禁忌の古写本

湿気を帯びた古書店の奥、黴と紙の匂いが混じり合う薄暗がりに、高瀬悠真はいつも吸い寄せられるように足を踏み入れる。歴史の塵が堆積した空間で、彼は忘れ去られた物語の残滓を探す考古学者のようだった。その日、彼は普段なら見向きもしないような、飾り気のない木箱に無造作に放り込まれた一冊の古写本に目を留めた。表紙は色褪せ、題名すら判読できない。しかし、なぜかその本から、彼の内奥に響く微かな呼ぶ声が聞こえた気がした。

手に取ると、ずっしりとした重みが手のひらに伝わる。和紙は厚く、墨の香りが微かに漂う。しかし、ページを繰るうちに、悠真の眉間にしわが寄った。それは、幕末の動乱期、特に桜田門外の変に関する記述が中心のようだったが、随所に不可解な空欄や、奇妙な幾何学模様、さらにはまるで現代の半導体回路図を思わせるような複雑な記号が描き込まれていたのだ。

「……奇妙だ」悠真は独りごちた。専門とする幕末史の知識が、この古写本の奇妙さを一層際立たせる。特に、安政七年三月三日の記述。雪が降りしきる江戸城桜田門外での襲撃事件は、水戸浪士らの周到な計画と、井伊直弼の油断が重なった悲劇として知られている。だが、この古写本には、こう書かれていた。

「井伊大老は、襲撃を予期せぬかのように、しかし――」

そこで文章が途切れている。その後の数行が、墨で塗りつぶされているのだ。だが、その墨の下には、微かに別の文字が透けて見え、それは既存のどの史料にもない、衝撃的な内容を示唆しているようだった。悠真は息を呑んだ。まるで、歴史の表舞台とは異なる、もう一つの真実が隠されているかのような予感に、全身の血が騒ぎ出した。この古写本は、単なる異説や偽書ではない。もっと深遠な、禁忌の扉を開く鍵なのではないか。彼の歴史学者の魂が、抗いがたい謎の誘惑に囚われていた。

第二章 時間の残響

悠真は古写本を抱えて自宅に戻ると、その晩から解読作業に没頭した。手元の資料、文献、そして彼自身の膨大な知識を総動員し、古写本の奇妙な記号と格闘する。書斎の蛍光灯の下、時間はあっという間に過ぎ去り、カップ麺の空容器が山をなした。眠気も空腹も忘れ、彼は謎の深淵へと沈み込んでいった。

幾何学模様は、当初こそ意味不明だったが、特定の古代文字の組み合わせと周波数を変えた光を当てることで、異なる図形が浮かび上がることが分かった。それはまるで、時間の流れを図式化した「螺旋」のようであり、その中心には「修正点」と記された箇所があった。そして、その図形の周囲には、現代の量子力学や情報科学で用いられるような専門用語が散りばめられていた。「時間軸の収束」「因果律の変動」「観測者効果」……。

悠真の心臓は、激しく脈打った。古写本は、ただの歴史書ではない。これは、時間を超えた何者かが、過去を「改変」したことを示唆する記録なのではないか? 背筋を冷たいものが走った。歴史修正。それはSFの世界の話だ。だが、この古写本に書かれていることは、あまりにも具体的で、そして恐ろしいほどに「現実」を帯びていた。

そして、最大の発見は、古写本の裏表紙だった。何気なくページを撫でたその時、指先に微かな凹凸を感じた。慎重に表紙を剥がしてみると、そこには細い文字で、こう記されていた。「修正完了。目的:R-307」。その文字は、特定の紫外線ライトを当てた時だけ、青白い光を放ちながら浮かび上がる特殊なインクで書かれていた。

「R-307……?」

悠真は全身の血の気が引くのを感じた。それはまるで、現代の化学記号のような、あるいは研究機関のコードのような響きを持っていた。この古写本の持ち主は一体何者なのか。何のために歴史を「修正」したのか。そして、「R-307」とは、一体何を意味するのか。謎は深まるばかりだが、その先にある真実が、悠真自身の存在をも根底から揺るがしかねないという、漠然とした恐怖が彼を襲い始めていた。古書の紙の匂いが、今や、何か得体の知れないものの囁きのように感じられた。

第三章 運命の修正点

「R-307」の謎を追う悠真は、古写本の記述と、既成の幕末史を徹底的に比較検証した。すると、桜田門外の変だけでなく、薩長同盟の締結に至るまでの経緯、さらには大政奉還に至る細部にまで、微妙な「ズレ」が存在することを発見した。それは単なる記録の相違というより、まるで誰かが歴史の歯車に意図的に介入し、その軌道をわずかに変えたような痕跡だった。

そして、彼は古写本の最終ページに、小さな隠しポケットがあることを発見した。そこには、薄い、しかし驚くほど精密に作られた金属板が収められていた。金属板には、まるで生き物のようにうねる複雑なパターンが刻まれており、それは、まさしく「DNAの螺旋構造」を示していた。さらにその隣には、「R-307」という記号と、そのDNAパターンが「ある特定の人物」のものであることを示す、詳細なバイオメトリックデータが記されていた。

そのデータに示された特徴は、ある個人の遺伝子配列が、未来の特定の「事象」を引き起こすための重要な鍵であることを示唆していた。そして、その「事象」が起こるために、幕末のあの歴史修正が必要だったのだと、古写本は雄弁に語っていた。悠真の呼吸が止まった。彼の心臓は、まるで時限爆弾のように、激しく鳴り響いていた。

彼は震える手で、自身の遺伝子情報が記録された個人研究の資料を取り出した。以前、興味本位で解析し、保管していたものだ。金属板のパターンと、自身のDNA配列を照合する。一瞬、世界が静止したかのように感じられた。

「……まさか」

金属板に刻まれたDNAパターンは、驚くべきことに、悠真自身のものと酷似していた。いや、酷似どころではない。それは、彼が持つ特定の遺伝的特徴を、完璧に捉えていたのだ。「R-307」とは、彼のDNAコードの一部であり、彼の存在そのものだった。

桜田門外の変は、井伊直弼が暗殺されたとされる事件だが、古写本に記された真実は違った。大老は未来からの情報によって襲撃を予期し、身代わりを立てて密かに脱出。その直弼が、後の歴史の陰で、ある技術の開発に間接的に関わり、それが「R-307」の持つ遺伝子と結びつくことで、未来の大きな「分岐点」が生み出された。悠真という存在が生まれるための、壮大な歴史の改変劇。

彼のこれまでの人生、歴史観、そして自己存在の根拠が、音を立てて崩れ去った。自分は、歴史修正によって生み出された、この世に本来存在するはずのない人間なのか? 彼が今まで学んできた全ての歴史は、嘘の上に築かれたものだったのか? 書斎の壁に飾られた幕末の志士たちの肖像が、まるで嘲笑っているかのように見えた。古写本から放たれる微かな光が、悠真の瞳に映り、その深部に絶望の影を落としていた。

第四章 未来への啓示

絶望の淵に立たされた悠真は、数日間、食事も喉を通らず、眠ることもできないでいた。自身の存在が、未来からの計画的な改変によって生み出されたものだと知った衝撃は、あまりにも大きかった。自分は、誰かの都合の良いように作られた、ただの駒なのか?

しかし、古写本はまだ全てを語っていなかった。最後のページには、さらに奥深く、慎重に隠された手記が挟まれていた。それは、歴史修正者自身の、後悔と、それでも悠真の誕生を望んだ切実な理由が記されたものだった。

「私は、未来から来た者である。時の流れを歪め、歴史に介入するという禁忌を犯した。しかし、人類は遠い未来において、自らの手で破滅の道を辿る運命にあった。その破滅を回避する唯一の鍵が、高瀬悠真、貴方の遺伝子の中にあることを、未来の解析が示していたのだ。」

手記は続いた。悠真の持つ遺伝子には、未来の環境変動に適応し、新たなエネルギー源を生み出す可能性を秘めた特異な能力が宿っているという。その能力が発現するためには、特定の環境と、特定の歴史的背景が必要であり、そのために幕末の修正が行われたのだと。歴史修正者は、自らの行為が倫理的に許されないと知りながらも、未来の人類を救うために、苦渋の決断をしたのだった。そして、悠真への深い謝罪と、未来への希望を託す言葉で手記は締めくくられていた。

窓の外では、夜が明け、朝陽が書斎に差し込み始めていた。埃の舞う光の中で、悠真は古写本を再び手に取った。もはや、この本は彼にとって、単なる歴史の異説を記したものではなかった。それは、彼の存在意義であり、未来への重い責任を突きつける、啓示の書だった。

彼は、自分が「歴史修正の産物」であるという事実を、もはや呪うことはなかった。むしろ、その重みを自らの使命として受け入れようとしていた。幕末の志士たちが、荒れ狂う時代の中で、未来への希望を抱き、命を賭して道を切り開いたように、悠真もまた、自らの存在を「未来を創るための選択」として受け止めた。

彼は古写本をそっと閉じた。紙のざらつき、インクの滲み、そしてそこに秘められた時の流れの重みが、手のひらから彼の心へと直接伝わってくるようだった。歴史は、単純な因果律で成り立つものではない。過去、現在、未来が、複雑な螺旋を描きながら、互いに影響し合っている。その螺旋の、まさに「修正点」に自分がいる。悠真は、自らの内に秘められた可能性と、未来への責任を胸に、静かに立ち上がった。彼の瞳には、過去の影ではなく、確かな未来の光が宿っていた。

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