【元原稿タイトル】: 空白のインクが滲むとき
第一章 死の安息
路地裏のアスファルトが、濡れた犬のような臭気を放っている。
黄色い規制テープが雨風に叩かれ、神経質な音を立てていた。
その内側で、男が宙に浮いている。
いや、首を吊って、重力に引かれているだけだ。
足元には蹴り倒されたパイプ椅子。典型的な自殺現場。
「下がってな。また現場でぶっ倒れられたら、報告書の枚数が増える」
刑事の久我が、レインコートの襟を立てながら吐き捨てる。
彼が吐き出した紫煙が、頭上を旋回する監視ドローンの赤いレンズを一時的に曇らせた。
「……いいえ、見ます」
私は久我の背中をすり抜け、遺体に近づく。
胃の腑がねじれるような悪寒。
視界の端がチカチカと明滅する。私の脳が、他人の『情動』を受信する合図だ。
通常、死の間際にあるのは『恐怖』という名の冷たい泥か、『後悔』という焼けつく炎だ。
その濁流に飲み込まれないよう、私は足の親指に爪を立てる。
震える指先が、男の冷え切った革靴に触れた。
(え……?)
身構えていた衝撃は来なかった。
代わりに流れ込んできたのは、陽だまりのような温もり。
そして、母の羊水に浮かんでいるかのような、絶対的な『安堵』。
《ああ、やっと終わる。やっと、この窮屈な幸福から解放される》
男の唇は動いていない。
だが、その皮膚に残った残留思念が、歓喜の歌を歌っていた。
「……笑ってる」
私の呟きに、久我が怪訝そうに眉を寄せる。
「ハヅキ、幻覚でも見たか? こいつの顔を見ろ。苦痛に歪んでる」
久我は端末を操作し、検死AIのログを弾き出した。
「借金苦による発作的自殺。ストレス係数は規定値をオーバー。記憶クラウドの履歴も真っ黒だ」
「じゃあ、この『幸福感』はどこから来るんですか?」
「幸福? こいつにか?」
久我は鼻で笑い、ドローンを見上げた。
「市民幸福度は常に調整されている。不幸を感じすぎる前に、ナノマシンが脳内麻薬を分泌する手筈だ。……まあ、こいつの場合はシステムが間に合わなかったんだろうがな」
違う。
これは脳内麻薬による陶酔じゃない。
もっと澄んだ、理性的な『救済』の感覚だ。
私は眩暈をこらえ、男の胸元に視線を這わせる。
ワイシャツの胸ポケット。
そこだけ雨に濡れたように、黒く滲んでいる箇所があった。
インクの染み?
いや、深淵のような黒だ。
ふらつく足でさらに近づこうとした瞬間、強烈なノイズが脳を貫いた。
男の記憶が、何者かに物理的に『食い破られて』いる。
「ハヅキ!」
久我の怒声が遠のく。
意識がブラックアウトする寸前、私は男の思考の残滓を掴んだ。
《インク壺を……満たせ……》
第二章 記されざる言葉
覚醒は、錆びた味とともにやってきた。
自室のソファ。口の中に血の味がする。気絶した拍子に唇を切ったらしい。
頭痛薬をラムネのように噛み砕き、私は机に向かう。
そこには、両親の唯一の遺品である『アンティークのインク壺』と、分厚い日記帳が鎮座している。
日記帳を開く。
どのページも、雪原のように白い。
幼い頃から何度試しても、ここに文字が乗ることはなかった。
だが、今の私には、あの死体の男から流れ込んできた『鍵』がある。
彼の最期の感情。あの異常なほどの『安堵』。
私は目を閉じ、記憶の中の感覚を反芻する。
死への憧憬。解放への渇望。
その強烈な情動を、指先から日記帳へと流し込む。
「……見せて」
私の特殊能力――サイコメトリーは、物体に残った思念を読むだけではない。
私の感情を触媒に、隠された『過去』を現像する。
ドクン、と心臓が跳ねた。
白紙のページが、波打つように歪む。
文字ではない。
映像が、脳内に直接投影される。
『執筆者の視点』だ。
ペンを走らせる父の手。震えている。
机の端で、母が泣き声を殺している。
《ハヅキには、知らせてはいけない》
父の思考が、私の脳に響く。
《この街の幸福は、記憶の改竄によって保たれている。悲しい記憶は夜の間に削除され、楽しい記憶だけがループ再生される。……だが、俺たちは気づいてしまった》
父の手が、インク壺にペンを浸す。
そのインクは黒ではない。
虹色に輝く、流体金属のような液体。
《この『記憶溶媒』に、俺たちの真実を封じ込める。いつか、誰かがこの壺を割り、世界に真実を拡散してくれることを願って》
映像の中の父が、日記の隅に走り書きをする。
それは、都市の地下深くに眠る、廃棄されたデータセンターの座標だった。
幻視が途切れる。
私は荒い息を吐きながら、現実のインク壺を手に取った。
空っぽに見えるこの壺の底には、両親が命を削って抽出した『真実の記憶データ』が、揮発性の液体となって眠っている。
壺はずっしりと重く、冷たかった。
まるで、凝縮された両親の涙のように。
私はコートをひっつかみ、雨の街へと飛び出した。
第三章 解放者の正体
指定された座標は、都市の再開発から見放された『D-404区画』の地下だった。
旧時代のサーバー音が、亡霊の呻き声のように響いている。
冷却水の腐った臭い。
その最奥に、一人の老人が佇んでいた。
白衣を着たその男は、私の足音を聞いても振り返らない。
ただ、巨大なモニターに映る『幸福度グラフ』を見つめていた。
「待っていたよ。ハヅキ君」
老人の声は、枯れ木が擦れ合うように乾いていた。
「あなたが、私の両親を殺したの?」
「人聞きが悪いな。私は彼らの願いを叶えただけだ。……『解放者』としてね」
老人がようやくこちらを向く。
その瞳には、狂気も悪意もない。
あるのは、底なしの慈悲だけだった。
それが一番、恐ろしい。
「君の両親は、真実の重さに耐えきれず壊れかけていた。だから私が、彼らの記憶を壺に移し、空っぽにしてあげたのだ。死という安らぎと共に」
「ふざけないで! それはただの殺人よ!」
「そうかな? 君も感じているはずだ。生きることの苦痛を」
老人が一歩、近づく。
空気が重くなる。
「君の能力は呪いだ。他人の汚い感情が流れ込み、休まる時がない。……辛いだろう?」
図星だった。
毎晩の悪夢。人混みでの吐き気。
頭痛薬なしでは眠れない夜。
「私なら、君を楽にしてあげられる。その能力も、両親を失った悲しみも、すべて消してあげよう。真っ白なキャンバスに戻るんだ」
老人の手が、私の頬に触れる。
その手からは、驚くほど温かい波動が伝わってきた。
(楽に、なりたい……)
その誘惑は、死の安らぎよりも甘美だった。
もう、誰の悲鳴も聞かなくていい。
何も知らず、ただ笑って暮らせる世界。
私の手が、無意識にインク壺を差し出そうとする。
老人が微笑む。
その笑顔は、死んだ父の笑顔に重なって見えた。
「さあ、渡しなさい。そうすれば、永遠の平穏が――」
永遠の、平穏。
何も感じない心。
誰も愛さず、誰も憎まない、のっぺらぼうな日々。
(……それは、生きていると言えるの?)
脳裏に、久我の不機嫌な顔が過った。
雨の日の、泥のような臭いが蘇る。
胸を締め付ける、両親への思慕。
痛み。苦しみ。喪失感。
それら全てが、私という輪郭を形作っている。
「……嫌」
私はインク壺を抱きしめ、後ずさる。
「何?」
「痛みも、悲しみも……全部、私が私であるための部品よ! あんたに綺麗に掃除されてたまるもんですか!」
私はインク壺を高く振り上げた。
「やめろ! その中身が揮発すれば、都市の記憶管理システムが汚染されるぞ!」
老人の顔から慈悲が消え、焦燥が浮かぶ。
「汚染上等。……ざまあみろ!」
私は渾身の力で、壺を床に叩きつけた。
パリンッ!
硬質な音が地下室に響き渡る。
割れた壺から溢れ出したのは、インクではない。
虹色に発光するナノマシンの霧だ。
霧は瞬く間に空調ダクトへ吸い込まれ、都市の空へと拡散していく。
モニターの『幸福度グラフ』が、乱高下を始めて警告音を鳴らした。
「ああ……世界が、悲しみで満ちてしまう……」
膝をつく老人を見下ろし、私は言った。
「いいえ。世界が、正気に戻るだけよ」
第四章 螺旋の先へ
世界は劇的には変わらなかった。
暴動も起きなければ、革命も起きない。
ただ、静かな『変化』が浸透しただけだ。
街頭ビジョンのニュースキャスターが、原稿を読み間違えて顔をしかめるようになった。
SNSには「今日は最悪な気分だ」という書き込みが、削除されずに残るようになった。
人々は、理由もなく涙が出る夜を迎え、それを自分の感情として受け入れ始めた。
カフェのテラス席。
灰色の空の下、久我が不味そうにコーヒーを啜っている。
「どうも最近、調子が狂う」
久我は眉間の皺を揉んだ。
「昔の事件の夢を見るんだ。解決したはずの事件で、俺がミスをして人が死ぬ夢だ。……今まで、そんな記憶はなかったはずなんだがな」
それは、システムによって隠蔽されていた、久我の本当の記憶だろう。
後悔という棘。
「辛いですか? その夢」
私が訊ねると、久我は少し考えてから、短く息を吐いた。
「いや。胸糞は悪いが、妙に腑に落ちる。俺はそんなに出来た刑事じゃねえからな。失敗の記憶がある方が、背負ってるものがしっくりくる」
久我はタバコを取り出し、火をつけた。
その横顔は、以前よりも疲れて見えたが、人形のようなツルツルした表情ではなく、人間らしい陰影があった。
「そうですね」
私は手元のスマホを見る。
『解放者』の老人は行方不明。地下施設は水没処理された。
だが、空気中にはまだ、微細な『真実のインク』が漂っている。
私の頭痛は治らない。
これからも、他人の悲しみや怒りを受信し続けるだろう。
でも、それでいい。
「行こうか、ハヅキ。またヤマだ」
「はい、久我さん」
席を立つ。
雲の切れ間から、頼りない陽光がアスファルトを照らしていた。
それは、誰かに調整された完璧な光ではなく、雨上がりの、少し埃っぽい匂いのする現実の光だった。
私はコートのポケットに手を入れる。
そこには、砕けたインク壺の欠片がひとつだけ入っている。
指先に走る鋭い痛みを確かめて、私は雑踏の中へと歩き出した。