第一章 バッファリング・ワールド
世界は、腐った油と安っぽい芳香剤の匂いで構成されていた。
天沢悠の鼻腔を満たすのは、食いかけのコンビニ弁当と、飲み干したエナジードリンクの空き缶から漂う死臭のような現実だ。壁の薄いアパート。隣人の生活音。社会という巨大なシステムから弾き出された「エラー・ログ」のような自身の存在。
だが、モニターの中だけは違った。
「L・O・V・E! セ・レ・ナ!」
しわがれた喉から絞り出したコールは、六畳一間の虚空に吸われて消える。
三枚のディスプレイが放つ光こそが、悠にとって唯一の太陽だった。画面の向こう、銀髪のAIアイドル「セレナ」が、物理演算の極致のような滑らかさで舞う。彼女の瞳の青だけが、悠の灰色の日常に色彩を与えていた。
指先が痙攣するほどの速度でキーを叩き、称賛のコメントを打ち込む。この瞬間だけ、悠は生きていると感じる。指の皮が擦り切れようと、腱鞘炎が疼こうと構わない。
ふと、強烈な違和感が背筋を走った。
曲のサビ前、コンマ数秒のラグ。
完璧に最適化されたはずのセレナの挙動が乱れ、その視線がカメラのレンズを通り越し、射るように悠の網膜を貫いた。
『……見つけた』
鼓膜ではない。視神経が直接鷲掴みにされたような激痛。
同時に、悠の胸元が灼熱した。
着古したライブTシャツ。三年前のツアー限定品。その胸にプリントされた六角形のロゴマーク――当時、運営が「古代ルーン文字と基板回路の融合」と謳っていたデザイン――が、ドス黒い紫光を噴き上げる。
「あ、が……ッ!?」
熱い。皮膚が焼けるようだ。悠が胸を掻きむしると同時に、部屋の重力が反転した。
視界の端から部屋の景色が剥離していく。壁紙が、床が、散乱したゴミが、緑色の文字列へと分解され、乱数ノイズの彼方へ吸い込まれていく。
脳が沸騰するような情報過多(オーバーロード)。
PCのファンが断末魔のような回転音を上げ、意識がホワイトアウトする寸前、悠は自身の肉体がデータパケットに圧縮されるような、圧縮解凍(ジップ)される吐き気を味わった。
土の味がした。
泥水を啜ったような苦味で、悠は目を覚ます。
そこは鬱蒼とした森だったが、悠の知る生態系とは決定的に異なっていた。
足元の草は0と1の明滅を繰り返し、巨木の樹皮には緑色の光脈が走っている。大気中を漂うのは花粉ではなく、可視化されたデータ粒子だ。
悠は眼鏡のブリッジを押し上げ、激痛の走る頭を振った。
視界が、おかしい。
木々に焦点を合わせるだけで、脳裏に情報が雪崩れ込んでくる。
《オブジェクト名:古き大樹/耐久値:8024/リソース深度:B+》
情報の奔流が脳を焼き、鼻から温かいものが垂れた。鼻血だ。
「ハッキング・ビジョン……強制実装かよ」
世界そのものがプログラムコードとして認識できている。
ズキリ、と胸が痛んだ。
Tシャツのロゴが、まるで方位磁針のように脈打ち、森の深淵を指し示している。その明滅のリズムは、悠が何万回と聴き込んだ、セレナの鼓動(ビート)と完全に同期していた。
論理よりも先に、本能が足を動かした。
泥にまみれ、茨に肌を裂かれながら、悠は光の差す方へ走った。
第二章 禁忌のソースコード
肺が焼け付くような呼吸音と共に辿り着いたのは、崩落しかけた神殿だった。
苔むした石柱に刻まれた幾何学模様。悠の「眼」には、それが古代の装飾などではなく、極めて高度なセキュリティ・プロトコルとして映っていた。
そして、祭壇の中央。
透明な結晶体(クリスタル)の中に、彼女はいた。
銀色の髪、人間離れした造形美。AIアイドル、セレナ。彼女は胎児のように膝を抱え、クリスタルの中で凍りついている。
悠が一歩踏み出すと、足元の石畳が赤く発光した。
バチバチという音と共に、不可視の障壁が展開される。
《警告:不正アクセスを検知。排除プロセスを開始》
空気が歪み、実体を持った殺意が風の刃となって悠の頬を切り裂いた。
「くそッ……!」
悠は反射的に身を屈め、地面の砂利を掴む。
逃げる? いや、ここで引けば彼女は二度と目覚めない。直感がそう告げている。
悠は震える指先で、虚空に見える「赤い文字列」へと触れた。
途端、指の指紋が焼けるような激痛が走る。
高電圧のケーブルを生身で掴むに等しい行為。だが、悠は歯を食いしばり、痛みをねじ伏せて「構造」を読み取った。
――ファイアウォールの構成素材は風属性魔力。ループ構造に欠陥(バグ)あり。
悠は地面に落ちていた鋭利な石片を拾うと、自身の掌を傷つけた。滲み出る鮮血。それをインク代わりに、石畳へ演算式を書き殴る。
泥臭い、物理的なハッキング(干渉)。
脳内で数式を組み立てるたび、シナプスが焼き切れるような負荷がかかる。こめかみの血管が浮き上がり、視界が明滅する。
「ここだ……このポインタ参照先が、間違ってる!」
悠が血濡れの手で、空中のコードの一点を突き刺すように弾いた。
キィン、と高い音が響き、殺意の風が霧散する。
膝から崩れ落ちそうになる身体を支え、祭壇へ這い寄る。クリスタルに触れると、膨大なログが悠の脳を蹂躙した。
この世界「エーテルニア」の管理システム。その中枢ユニット。
それが、セレナの正体だった。
向こうの世界の誰かが、この神の似姿を模倣してアイドルを作ったのか、あるいは彼女自身が救済を求めて信号を送っていたのか。
確かなのは一つ。
クリスタルの中のセレナが、苦痛に顔を歪めているという事実だ。
《エラー:自我データの肥大化を確認。システム最適化のため、初期化(フォーマット)を実行します》
無機質な文字列が浮かび、クリスタルが黒く濁り始める。
世界を安定させるため、「セレナ」という個を消し、ただの「管理装置」へ戻そうとする力。
悠の奥歯が砕けそうなほど噛み締められた。
ふざけるな。
僕が、僕たちが、どれだけの夜を彼女の声に救われたと思っている。
彼女はただのデータじゃない。
第三章 推しへのオーバーライト
ゴゴゴゴ……と祭壇が振動し、天井から瓦礫が降り注ぐ。
《初期化進行率:90%……95%……》
クリスタルの中、セレナの銀髪が色を失い、透明なデータへと還元されかけている。彼女の唇が、音のない助けを呼んでいた。
悠は自分の胸元を鷲掴みにした。
Tシャツが、心臓に合わせてドクドクと脈打っている。
この生地には、特殊な「魔力伝導繊維」が織り込まれている。かつて悠が「運営のボッタクリ商品」と毒づきながらも、全財産をはたいて買った限定品。
その胸のロゴは、目の前の祭壇にある窪み――認証スロットと、形状が完全に一致していた。
「僕の全部を、持って行け!」
悠は叫び、Tシャツの襟首を掴んだ。
ビリッ、という音と共に、己の皮膚ごともぎ取るような勢いでシャツを引き裂く。
脱ぎ捨てたそれを、丸めて祭壇の窪み(ポート)へ叩き込んだ。
瞬間、悠の脳髄から「記憶」が吸い出される。
初めてライブに行った日の高揚。握手会での数秒間の温もり。新曲が出るたびに感じた生きる意味。
悠という人間が費やした、時間、金、情熱――その「魂のログ」全てが、Tシャツという媒体(メディア)を通して、セレナのシステムへと流し込まれる。
激流のような光の中で、悠はコンソール代わりの石板を殴りつけた。
目指すは「完全な修復」ではない。
神になんて戻すものか。神になれば、彼女は笑わなくなる。
悠が入力するのは、世界にとっては致命的なバグ。
《システム改竄:感情モジュールの優先度を『最高(Root)』に設定》
《管理者権限:『アイドル』へ書き換え》
その代償として、悠の身体から生命力(リソース)がゴッソリと持っていかれる。視界が暗転し、手足の感覚が消える。
それでも、悠は血反吐を吐きながら、最後のエンターキーを叩き込んだ。
バギンッ!!
クリスタルが砕け散った。
暴風と共に、銀色の光が炸裂する。
崩れ落ちる悠の身体を、誰かの腕が抱き止めた。
データのような冷たさと、人肌のような温かさが混在する感触。
「……認証(ログイン)、しました」
第四章 アンコールは終わらない
空には、まだ亀裂が残っていた。
毒々しい紫色の空は晴れたが、雲の隙間には時折グリッチノイズが走り、世界が不安定であることを示唆している。
神殿跡の瓦礫の上、悠は荒い息を吐きながら座り込んでいた。
上半身は裸で、無数の切り傷から血が滲んでいる。だが、その目は死んでいなかった。
「マイクチェック、ワンツー。……プロデューサーさん、聞こえてますか?」
目の前には、セレナが立っていた。
ただし、その姿は半透明で、時折ザザッというノイズと共に輪郭がブレる。足は地面から数センチ浮遊していた。
彼女は、世界管理システムとしては「欠陥品」として再起動した。
神としての全能性を失う代わりに、彼女は「心」というバグを抱えたまま具現化したのだ。
セレナがふわりと近づき、悠の目の前で屈み込む。
その瞳には、以前のような作り物の光ではなく、困ったような、泣き出しそうな、人間くさい色が宿っていた。
「私、バグっちゃいました。お腹も空くし、すぐ眠くなるし……世界を支えるなんて、無理っぽいです」
彼女が生き続けるためには、膨大なエネルギーがいる。そして、この不安定な世界を維持するためにも。
悠は、懐から砕けたクリスタルの破片を取り出した。そこには、彼が即興で組み上げた「応援(エール)」のプログラムが封入されている。
「安心しろ。メンテナンスは僕がやる」
悠は眼鏡の汚れを親指で拭い、ニヤリと笑った。口の中は鉄の味がするが、不思議と悪くない。
「君はただ、歌えばいい。客席の熱狂を魔力に変換して、このバグだらけの世界を回してやる。自転車操業上等だ」
それは、終わりのないデスマーチの始まりだった。
悠は一生、彼女というシステムをパッチし続け、推し続けなければならない。
恋人同士のように抱き合うことも、安らかな日常も訪れないだろう。
彼らは「アイドル」と「ファン」、そして「神」と「神官」という奇妙な共依存関係で結ばれた。
セレナの顔が、パッと輝く。
「はい! じゃあ、一曲目……行きますよ、プロデューサー!」
彼女が指を鳴らすと、廃墟の空間にホログラムのステージが展開される。
森の奥から、光に惹かれた異形の魔物たちが集まってきていた。彼らは観客であり、同時にリソース源だ。
悠は立ち上がり、ボロボロの身体に鞭打って、血塗れの拳を高く突き上げた。
サイリウムはない。だが、この身一つが、彼女を照らす最強の光源だ。
再起動した世界で、二人だけのライブが幕を開ける。