星屑のレクイエム
第一章 隣人のシンフォニー
隣の部屋から聴こえてくるピアノの旋律は、私の心を直接撫でるような、甘く切ない響きを持っていた。世界的ピアニスト、カイ。彼がこの古びたアパートの隣室に越してきたのは、三ヶ月前の月の綺麗な夜だった。画面の向こうの偶像が、壁一枚隔てた隣人になった日から、私の世界は静かに狂い始めた。
私の体質は、呪いにも祝福にも似ていた。特定の対象への“純粋すぎる強い想い”が臨界点を超えると、相手の記憶の断片が、真夜中の夢となって私の中に流れ込むのだ。カイへの想いは、憧憬と祈りが入り混じった、あまりにも純粋な結晶だった。そして、最初の夢を見た。彼が幼い頃に愛した、ミルクをたっぷり入れた紅茶の香り。その温かさが、私の舌の上に現実のように蘇った。
しかし、その夢と同じ週、テレビのインタビューで彼は朗らかに笑った。「最近、物忘れがひどくて。昔好きだった紅茶の味さえ、思い出せないんです」。その瞬間、私の背筋を冷たい何かが走り抜けた。私の腕で眠る、古びた手作りの星型ブレスレットが、微かに、本当に微かに光を帯びたことに、私はまだ気づかなかった。
第二章 欠けたメロディ
流れ込む記憶は、日増しに鮮明さと重みを増していった。夕暮れの公園のブランコ。古いアップライトピアノの鍵盤を、小さな指が懸命に叩く音。そして、いつも隣には、顔の見えない誰かがいた。その誰かと交わす、あどけない笑い声。それはカイが失くした、あまりにも温かい時間だった。
その記憶の洪水とは裏腹に、現実のカイは、神々しいまでの輝きを放っていた。彼の奏でる音楽はより完璧になり、世界は彼を『現代の奇跡』と讃えた。だが、私は知っていた。スーパーで買い物かごを手に立ち尽くす彼を。自分の好きな野菜の名前を思い出せず、困惑したように眉を寄せる姿を。彼は、私の抱く『理想の偶像』へと変貌する代償に、人間としてのささやかな記憶を、一枚、また一枚と剥がされているのだ。
ある夜、アパートの廊下で彼とすれ違った時、カイが不意に足を止めた。
「君のそのブレスレット…」
彼の視線が、私の腕にある星に注がれていた。
「どこかで、見たような気がするんだ」
私は心臓が凍りつくのを感じ、咄嗟に袖で腕を隠した。彼の腕にも、同じデザインの、しかし輝きを失ったブレスレットが巻かれているのを、私は見てしまった。彼の星は、記憶の空白を刻むかのように、ひどく色褪せていた。
第三章 約束のアリア
決定的な記憶は、嵐の夜に訪れた。それは夢ではなく、灼けつくような幻覚だった。
雨に濡れた公園。泣いている小さな私。そして、そんな私の前に立つ、泥だらけの少年時代のカイ。彼は自分の腕から星のブレスレットを外し、私の手に握らせた。
『泣かないで。僕が、世界で一番輝く星になってみせる。君が空を見上げた時、いつでも僕を見つけられるように』
『ほんと…?』
『うん。だから、君は僕の一番のファンでいて。約束だ』
――ああ、そうだ。顔の見えなかった“誰か”は、私だったのだ。
私は部屋を飛び出し、隣のドアを叩き壊さんばかりに叩いた。ドアを開けたカイは、新曲の譜面を前に憔悴しきっていた。
「思い出せないんだ。この曲に込めたはずの、一番大切な想いが…」
涙が溢れて止まらなかった。私は叫んだ。
「私が奪ったの!あなたの記憶は、全部私が!あなたが私の『理想』になるために、あなたはあなた自身との約束を、私との思い出を、捨てていたのよ!」
震える手で、自分のブレスレットを彼の前に突き出す。カイは、自分の腕に巻かれた色褪せた星と、私の腕で眩い光を放つ星を、交互に見つめた。二つの星が共鳴し、閃光が迸る。彼の瞳に、失われた全ての風景が、奔流となって蘇っていくのが見えた。
第四章 二人だけのフーガ
「…ミオ」
何十年ぶりに呼ばれた名前は、掠れていたが、紛れもなく彼の声だった。全ての記憶を取り戻したカイは、ただ静かに泣いていた。偶像の仮面が剥がれ落ち、そこには傷つき、迷っていた一人の青年がいるだけだった。
「思い出したよ。僕は、君にもう一度会いたくて、君に見つけてほしくて…ただそれだけで、ピアノを弾いていたんだ」
世界からの喝采も、名声も、彼にとっては道標に過ぎなかった。たった一人に届けるための、あまりにも遠い道のり。その過程で、彼は法則に囚われ、目的そのものを見失っていたのだ。
彼は私の手を取り、固く握りしめた。
「もう、誰かのためのピアノは弾かない。世界が僕を忘れてもいい。これからは、君のためだけに」
その言葉は、残酷な法則からの解放を意味した。彼が『偶像』であることをやめた瞬間、私の身体を蝕んでいた存在の希薄化が、ぴたりと止まった。
最後のコンサートの後、カイは世界から姿を消した。人々は彼の音楽を惜しんだが、やがてその記憶も時の流れに薄められ、いつしか伝説になった。
今、私の隣の部屋からは、誰に聞かせるでもない、ただ優しく温かいピアノのメロディが聴こえてくる。それは、かつて小さな公園で約束を交わした、二人のためだけのフーガ。私は窓辺に立ち、腕に輝く星をそっと握りしめる。世界が忘れた本当の光を、私だけが知っている。それで、よかった。