いいねの残響、あるいは透明な心臓
第一章 希薄な輪郭
僕の体は、他人の承認欲求で出来ている。
誰かがスマートフォンの冷たい画面をなぞり、ハートのアイコンをタップする。その瞬間、世界のどこかで微かな熱が発生する。それは「見てもらえた」という安堵と、「もっと見られたい」という渇望が混ざり合った、甘く粘り気のあるエネルギーだ。僕は、その余剰分を無意識に吸い込んで生きている。まるで、光合成をする植物のように。
この街では、万物の存在が「いいね」の総量に左右される。多くの「いいね」を集めた人間や建物は、その輪郭をくっきりと世界に刻みつけ、強固な実体を持つ。カフェの窓から見える広場の人気インフルエンサーは、まるで上質なインクで描かれた絵画のように鮮明だ。彼が笑うと、その場の空気までが明るく色づく気がする。一方で、「いいね」の少ない者は、水彩絵の具が滲んだように輪郭が曖昧になる。彼らの声は風に溶け、その肩に触れようとしても、指は淡い霧を掻くように空を切る。
そして、いいねがゼロになれば、消える。誰の記憶にも残らず、はじめから存在しなかったかのように。
だから人々は渇く。スマートフォンの通知音を、自らの存在を肯定する心音のように聞きながら、絶えず他者の承認を求め続ける。僕もまた、そのシステムの恩恵を受ける寄生生物に過ぎない。誰かが「いいね」を押すたびに、僕の体には温かい蜜が流れ込み、存在が維持されるのだ。
しかし、最近どうも体の調子がおかしい。エネルギーを吸収するたびに、胸の奥にガラスの破片が突き刺さるような、冷たい痛みが走るのだ。ある夜、月明かりの下でシャツをめくってみると、心臓の真上あたり、肋骨のすぐ下に、指先ほどの大きさの透明な結晶が生まれているのを見つけた。それは氷のようにつめたく、硬質で、内部には虹色の光が幽閉されているかのように揺らめいていた。まるで、誰かの涙が凍りついた化石のようだった。
結晶が育つにつれて、僕の中から何かが失われていくのを感じていた。昨日見た映画に感動したはずなのに、その感情の色彩が思い出せない。道端で咲く花を見ても、かつて感じたはずの「美しい」という心の震えが、どこか遠い世界の出来事のように感じられた。
そんなある日、雑踏の中で僕はひとりの女性とすれ違った。彼女の存在は、まるで古いフィルムのように少しだけ輪郭が揺らいでいた。人々が必死に保とうとする鮮明さから、自ら一歩引いているような、そんな危うさと静けさが同居していた。彼女の周りだけ、時間の流れが違うように思えた。僕は、その希薄な存在感にどうしようもなく惹きつけられていた。
第二章 無印のスケッチブック
彼女を探し出すのに、そう時間はかからなかった。街の外れにある、忘れられたような路地裏で、彼女は「物忘れ堂」という名の古道具屋を営んでいた。サラ、と彼女は名乗った。
店内は、「いいね」の評価軸からこぼれ落ちたモノたちで満ちていた。持ち主から忘れられ、輪郭がぼやけかけた椅子。誰にも聞かれることのなくなったレコード。それらは、今にも概念の海に溶けてしまいそうなほど曖昧だったが、一つ一つが声なき物語を内包しているようで、不思議な存在感を放っていた。
「みんな、消えるのが怖いのよ」
棚の上の埃をそっと指で拭いながら、サラが言った。彼女の声もまた、少しだけ霞がかっていた。
「だから、必死に叫ぶの。『私を見て』『私はここにいる』って。でも、見てもらうために用意された顔は、本当の顔じゃない。そうやって、みんな少しずつ自分を失っていく」
僕は、彼女の静かな瞳に見つめられ、思わず胸の結晶のことを打ち明けた。他者の承認欲求を吸って生きていること、そしてそれが感情を蝕む結晶になっていることを。
サラは驚きもせず、ただ静かに頷くと、店の奥から古びた一冊のスケッチブックを持ってきた。表紙には何も書かれていない、ただの革張りの本だ。
「これは、無印のスケッチブック。この世界が『いいね』に支配されるずっと前に、ある絵描きが使っていたものらしいわ」
彼女がページをめくると、そこには評価を待たない、ただ描きたいという衝動だけで描かれたであろう、自由で力強い線描きの絵があった。描かれているのは風景のようでもあり、人の顔のようでもあった。輪郭は定まらず、見るたびに形を変える。そこには、「いいね」を押す機能も、その痕跡を辿る機能もない。
「この絵は、誰にも承認されない。だから、永遠に完成しないし、永遠に消えることもない。ただ、変化し続ける可能性だけがここにある」
サラがそう言ってスケッチブックを僕に手渡した。その革の表紙に指が触れた瞬間だった。
第三章 結晶の真実
激しい奔流が、僕の体を貫いた。それは「いいね」の甘いエネルギーとは全く違う、荒々しく、純粋な創造のエネルギーだった。スケッチブックに宿っていた「未承認の可能性」が、僕の体内に逆流してきたのだ。
「ぐっ……!」
声にならない呻きが漏れる。胸の結晶が悲鳴を上げるように軋み、急激に成長を始めた。氷の蔓が血管を伝って伸びるように、透明な結晶が腕へ、足へ、そして首筋へと広がっていく。耐え難いほどの激痛。だが、それよりも恐ろしかったのは、僕の内部で起こっている変化だった。
サラへの淡い想い。彼女の店の、古びた木の匂いに対する愛着。自分の存在への不安。そういった感情のすべてが、急速に色を失い、遠のいていく。まるで、水に溶けていく絵の具のように。
しかし、感情を失うのと引き換えに、僕の知覚は異常なほど研ぎ澄まされた。世界が、その本当の姿を僕に見せ始めたのだ。
見えた。人々から放たれる無数の光の糸が。それは「いいね」という名の承認欲求の糸であり、他者に絡みつき、その存在を「安定」という名の檻に閉じ込める呪縛だった。人々は互いを縛り、縛られることで、消滅の恐怖から逃れていたのだ。
そして、僕は理解した。この胸の結晶の正体を。これは、人々が安定した実体と引き換えに捨て去ったものたちの残滓だ。「変化する自由」「創造する可能性」「評価を恐れない魂」。それら本質的な輝きを、人々は自ら切り離し、結晶化させ、世界に捨てていた。僕は、そのゴミを栄養にして生きてきたに過ぎなかった。
その時、街の広場から悲鳴が上がった。さっきまで鮮明な輪郭を誇っていたインフルエンサーが、急な「いいね」の減少に耐えきれず、その姿を崩し始めていた。彼の体はデジタルノイズのように歪み、叫び声は意味のない音の羅列と化していく。その恐ろしい光景を目の当たりにした人々は、パニックに陥り、さらに強く、狂ったように互いへ「いいね」を送り始めた。世界のシステムが、その限界を迎え、悲鳴を上げているのが分かった。
第四章 概念の海へ
僕の体は、ほとんどが透明な結晶に覆われていた。心臓の鼓動はもう聞こえない。僕はもはや人間ではなく、世界の真実を映すだけの、冷たい鏡となっていた。感情はない。だが、純粋で絶対的な理解だけが、そこにあった。
サラが僕の前に立っていた。彼女の輪郭が悲しみに揺れているのが分かった。言葉はもう出ない。僕はただ、彼女の心に直接語りかけた。
『僕は行く。この連鎖を、断ち切るために』
彼女は涙をこらえ、胸に抱いた「無印のスケッチブック」をさらに強く握りしめた。それが、彼女の答えだった。
僕は街の中心、最も多くの「いいね」が交錯する広場へと歩を進めた。結晶化した足が地面を打つたび、カラン、と無機質な音が響く。人々が恐怖と混乱の中で放つ、膨大な承認欲求のエネルギーが僕に殺到する。だが、僕はそれを、ただ拒絶した。
自らの実体化を放棄する。存在の輪郭を、自ら手放す。
僕の体が、内側から淡い光を放ち始めた。結晶の体がゆっくりと光の粒子へと変わり、風に乗り、拡散していく。その瞬間、世界を覆っていた無数の「いいね」の糸が、ぷつり、ぷつりと音を立てて切れ始めた。
呪縛から解放された人々の輪郭が、ほんの少しだけ揺らぎ、曖昧になる。それは消滅の予兆ではなかった。変化の始まりだった。固定されていた笑顔が崩れ、困惑、怒り、そして涙といった、忘れられていた多様な表情が彼らの顔に戻ってくる。ある者は恐怖に震え、ある者は、その輪郭の揺らぎの中に、忘れかけていた自由の息吹を感じていた。
完全に消えゆく間際、僕は見た。
物理的な実体化という重圧から解放された世界に、かつて人々が捨て去った無数の概念が、色とりどりのオーロラとなって空に蘇るのを。「名もなき悲しみ」「理由のない喜び」「報われない好奇心」「誰にも理解されない愛」。それらが美しい光の雨となって、ゆっくりと世界に降り注いでいく。
結晶化した唇は動かなかった。だが、僕の魂は、確かに微笑んでいた。
僕は概念の海へと還っていく。世界は、不確かで、不安定で、けれど無限の可能性を秘めた、新しい夜明けを静かに迎えていた。