忘れられた言葉の交響曲(シンフォニー)
第一章 色褪せたインクの囁き
水無月響(みなづき ひびき)が営む古書店『言の葉堂』は、埃とインク、そして遠い時間の香りに満ちていた。響は、ただの本屋ではない。彼は、書かれた文字にそっと指を触れることで、そこに込められた魂の残響を聴くことができる『言霊使い』の末裔だった。革装丁の冷たさを伝って流れ込むのは、作者の焦燥。和紙の繊維の奥からは、恋文を綴る娘の弾む心臓の音。それが彼の日常だった。
しかし、この数ヶ月、彼の耳に届く音は悲鳴に変わりつつあった。棚に並ぶ特定の書物から、急速に"音"が消えていくのだ。文字は色褪せ、インクは紙の上で意味を失い、まるで雪が陽光に溶けるように儚く輪郭を失っていく。それは『無言化』。語られなくなった存在が、この世界から記憶ごと消滅する現象。
特に顕著だったのは「玻璃(はり)細工」に関する古書だった。昨日まで鮮やかな色彩を記述していたページが、今はただの灰色の染みだ。響はいてもたってもいられず、街の外れで最後の工房を営むという老職人の噂を頼りに、錆びたブリキ屋根の建物を訪れた。
工房の中は、奇妙なほど静かだった。ガラスを溶かす炉の熱気はなく、風鈴の涼やかな音色もない。床に散らばる色ガラスの破片だけが、かつてここに鮮やかな技術があったことを物語っていた。部屋の中央、作業台の上にぽつんと置かれた一本の筆に、響は目を奪われた。黒檀の軸を持つ、穂先のない筆。『虚ろの筆』。彼の家に代々伝わる、消えゆく存在の最後の言葉を書き留めるという遺物だ。
響がそれに近づいた、その瞬間。工房の隅で椅子に座っていた老職人の姿が、陽炎のように揺らぎ始めた。彼の身体が、足元から透き通っていく。無言化だ。間に合わなかった。
「あ……」
声にならない声が響の喉から漏れる。老人は、何かを伝えようと口を開くが、音にはならない。ただ、彼の瞳には確かな光が宿っていた。作業台の上の『虚ろの筆』が、カタリ、と微かに動く。そして、まるで見えざる手に導かれるかのように、ひとりでに紙の上を滑り始めた。
『光を、忘れないで』
インクのないはずの筆先から、墨痕鮮やかな文字が浮かび上がる。老職人の姿が完全に掻き消えたのと、それは同時だった。響は恐る恐るその文字に指を触れる。奔流のように、職人の最後の想いが流れ込んできた。溶けたガラスの熱、光が乱反射する瞬間の歓喜、そして、誰にも技術を継承できず、忘れられていくことへの深い、深い絶望。魂が引き裂かれるような感覚に、響はその場に膝をついた。これは、自然現象などではない。何者かが意図的に、この世界の彩りを奪っている。
第二章 沈黙の足音
玻璃細工だけではなかった。「絡繰(からくり)人形」「古式染織」「幻の金属工芸」。響の調査で、急速に無言化が進む文化は、いずれも世界に多様な美と驚きをもたらしてきたものばかりだと判明した。まるで、誰かが人類の歴史という名の画集から、特定の色彩だけを意図的に抜き取っているかのようだった。
噂は囁かれていた。歴史の影で暗躍する『沈黙の社(ちんもくのやしろ)』という秘密結社の存在を。彼らは特定の文化の担い手を秘密裏に排斥し、関連する書物を全て燃やし、人々の記憶からその存在を抹消しているという。彼らの目的は、世界の"単純化"。多様性は混乱を招き、争いの火種となる。故に、世界を統べるに足る、単一の秩序ある文化以外は不要、というのが彼らの教義らしかった。
「ふざけるな……」
響は、古書店の地下室で唇を噛んだ。一冊の本には、一つの宇宙が宿っている。それを勝手な思想で無に帰すことなど、断じて許せなかった。
その夜、言の葉堂に複数の影が忍び込んだ。沈黙の社の追手だ。彼らは音もなく動き、その手には言葉の力を封じるという「無音の呪符」が握られていた。響は本棚の陰に身を潜める。心臓が早鐘を打つ。
一人が、響が隠れる書架に気づき、ゆっくりと近づいてくる。万事休すか。響は覚悟を決め、傍らにあった一冊の古い詩集を掴んだ。指先に全神経を集中させる。
『――嵐よ、来たれ!』
詩集の一節に触れた瞬間、響の魂を通して言葉が現実を侵食した。店の窓ガラスが激しい音を立てて割れ、突風が室内を吹き荒れる。本が舞い上がり、紙の吹雪が追手たちの目をくらませた。言葉の奔流が脳を焼き、意識が遠のきかけたが、響はその隙に裏口から闇夜へと逃げ出した。
追手から逃れる中で、響は一つの情報を掴んだ。沈黙の社の本拠地は、かつて世界中の知識が集積されたという伝説の『中央書庫』。その、今は封鎖された地下深くにあるという。消された言葉たちの墓標の上で、彼らは次なる沈黙を企んでいる。響は、全ての言葉を、物語を守るため、独りその深淵へ向かう覚悟を決めた。
第三章 時を超えた残響
中央書庫の地下は、巨大な霊廟のようだった。天井まで届く書架には、もはや誰にも読まれることのない書物が静かに眠っている。その静寂は、死の匂いがした。響は息を殺して進む。最深部には、広大な空間が広がっていた。そこでは、不気味な光を放つ巨大な装置が稼働しており、捕らえられた数多の書物から、まるで魂を抜き取るように"言葉の力"を吸い上げていた。
「ここまでだ、言霊使いの末裔」
冷徹な声が響いた。祭壇のような場所に立っていたのは、白い仮面で顔を隠した人物。沈黙の社の首魁、『時雨(しぐれ)』と名乗る者だった。
「貴様らのせいで、どれだけの美しいものが消えたと思っている!」
響の叫びに、時雨は答えなかった。ただ静かに手をかざす。すると、響の足元の床に描かれた紋様が光り、周囲の言葉の力が霧散していく。響の力が封じられる。これが、言葉を「消す」力。
だが、響は諦めなかった。懐から『虚ろの筆』を取り出す。これは、消えゆくものの最後の願い。何者にも消すことはできない。響は、玻璃細工職人の言葉を、絡繰人形師の言葉を、染織職人の言葉を、魂の中で叫んだ。筆が淡い光を放ち、無音の術に亀裂を入れる。
力の応酬の末、響の渾身の一撃が時雨の仮面を弾き飛ばした。
月光が差し込む天窓の下に晒されたその素顔を見て、響は息を呑んだ。
自分と、あまりにも似ている。若いが、その瞳の奥には、計り知れないほどの時間を生きてきたかのような深い絶望が澱んでいた。
「……なぜ」
「ようやく、お会いできましたね。我が始祖、水無月響」
時雨は、静かに告げた。自分は、遥か未来から来た、響の血を引く末裔なのだと。
彼の語る未来は、絶望に満ちていた。響がこの後、自らの命と引き換えに言霊の力を世界に解き放ち、全ての存在が互いの声を聴けるようになった世界。それは、理想郷ではなかった。人々は他人の心の声に苛まれ、嘘と悪意の言葉が具現化して互いを傷つけ、世界は憎悪の言葉で満たされた混沌の時代へと突入した。
「私は、その地獄を止めるために来たのです」時雨は言った。「あなたの"過ち"を正すために。世界が耐えきれなくなるほどの多様性、混沌の種となる文化と思想を、芽吹く前に摘み取る。それが私の……我々の使命です」
時雨が消していたのは、未来で大きな争いの火種となった文化や思想だった。美しすぎたが故に、人々が独占しようと争った芸術。深すぎたが故に、他者を排斥するに至った哲学。彼は、未来を救うために、過去の輝きを消し去っていたのだ。
第四章 最後の言霊
未来の末裔が語る、救済という名の破壊。響は、足元から世界が崩れていくような感覚に襲われた。自分の信じる正義が、未来の地獄を創り出すというのか。ならば、自分は何をすればいい? 時雨の言う通り、このまま沈黙を受け入れるべきなのか?
いや、違う。
響は顔を上げた。たとえその先に待つのが混沌だとしても、誰かが勝手に物語を終わらせていい理由にはならない。美しいものも、醜いものも、全てが語られてこそ世界だ。
「君の悲しみは、わかる」響は時雨に歩み寄りながら言った。「でも、君のやり方は間違っている。消すんじゃない。聴くんだ。全ての声を」
響は、もはや時雨を止めるためではなかった。彼がこれから為すことは、彼自身の、そしてこの世界に存在する全てのもののための選択だった。彼は中央書庫の中心、言葉の力が集束する装置へと向かう。
「やめろ! あなたはまた同じ過ちを繰り返すのか!」
時雨の悲痛な叫びが響く。だが、響の決意は揺らがなかった。
「過ちじゃない。これは、始まりだ」
響は目を閉じ、自らの魂の全てを解放する。それは、これまで彼が読んできた全ての物語、聴いてきた全ての言葉、触れてきた全ての感情の集合体だった。彼の身体が眩い光の粒子となり、聖堂の天井を突き抜け、世界中へと拡散していく。
「聴いて。そして、語り継いで。たとえそれが、どんな未来を創るとしても――」
それが、響の最後の言葉だった。
光の粒子が世界を覆い尽くす。道端の石ころの永い記憶。風が運ぶ雲の旅路。街行く人々の、声にならない喜びや悲しみ。あらゆる存在の"言葉"が、全ての人の心に直接流れ込み始めた。世界は、かつてないほどの情報と感情の奔流に包まれた。それは救いであり、同時に、時雨が予言した新たな試練の幕開けでもあった。
時雨は、光が降り注ぐ中、ただ立ち尽くしていた。始祖が選んだ未来。自分が変えようとした過去。頬を伝うのが涙だと気づくのに、少し時間がかかった。
誰もいなくなった言の葉堂。主を失った机の上で、『虚ろの筆』が静かに最後の言葉を綴っていた。それは、この世界に生まれた全ての存在へ向けた、水無月響の最後の願い。
『――あなたの物語を、聴かせて』