空ろな器に響くノイズ
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空ろな器に響くノイズ

第一章 苦い後味のログ

俺、橘湊(たちばなみなと)の舌は、死者の嘘と真実を味わう。

人はそれをデジタル遺品整理屋と呼ぶが、実態は少し違う。俺は故人の遺したデータの海に潜り、その断片を「摂取」する。SNSの投稿、メールの履歴、クラウドに沈んだ写真一枚一枚。それらは俺の舌の上で、特有の味と香りを伴って溶けていくのだ。ある男の隠し口座のデータは錆びた鉄の味がしたし、ある老婆の秘密の恋文は、熟れすぎた果実のように甘く、そして哀しかった。

だが、今日、俺の前に差し出されたノートパソコンは、これまでとは訳が違った。

「湊くん、お願い。悠人の遺したものを、どうか整理してあげて……」

目の前で深々と頭を下げるのは、白髪の増えた悠人の母親だった。悠人。俺の、たった一人の幼馴染。一週間前、彼はあっけなく事故で死んだ。

彼のデジタル遺産を「食べる」?冗談じゃない。俺たちの共有した時間は、そんなふうに消費されていいものじゃない。しかし、憔悴しきった彼女の瞳に、俺は「いいえ」と言えなかった。

自室に持ち帰った銀色の筐体は、ずしりと重い。まるで、悠人の人生そのものの重さのようだ。震える指で電源を入れると、見慣れたデスクトップが現れる。その壁紙は、俺たちが高校時代に撮った、二人で馬鹿みたいに笑っている写真だった。胸が締め付けられる。

意を決して、彼のSNSアカウントにログインした。一番古い、高校入学時の投稿。何気ない決意表明。「ここから、世界を変えるプログラムを作る」。そのテキストデータを、意識の中で舌に乗せる。

――刹那、口の中に弾ける炭酸のような刺激と共に、爽やかなレモネードの味が広がった。夏の日のグラウンドの匂い、少しだけ錆びた自転車のブレーキの音、そして未来への希望に満ちた、甘酸っぱい感情。そうだ、これは悠人の味だ。懐かしさに涙が滲む。

だが、その直後だった。窓の外で、ぽつり、ぽつりと雨が降り始めた。奇妙な雨だった。アスファルトを叩く雨音は、不規則でありながら、どこか聞き覚えのある旋律を奏でている。それは、悠人が好きだった、ショパンの『雨だれの前奏曲』のリズムだった。

世界が、軋み始めた。

そして俺は、見てしまった。視界の右隅に、淡い光を放つ何かが浮かんでいるのを。それは手のひらサイズの、完璧な透明度を持つ水晶――触れることも、掴むこともできない幻影。『メモリークリスタル』。俺が故人のデータに深く同調した時にだけ現れる、謎の存在。それが今、静かに、しかし明確に、俺の目の前で輝いていた。

第二章 偽りの旋律

悠人の死後、世界は静かに狂い始めた。

彼の好きだったピアノ曲のリズムで降る雨。街中のデジタルサイネージに、突如として彼が最後に見ていたであろう星空の画像が一瞬映し出される。地下鉄の運行システムに、ミリ秒単位の不可解な遅延が多発する。人々はそれを単なるバグか、奇妙な気象現象としか認識していない。だが俺にはわかった。これは悠人の「感情ノイズ」だ。そして、それはあまりにも強大で、指向性を持っている。まるで、世界そのものに何かを語りかけているかのように。

「何がしたいんだ、悠人……」

俺は彼の遺産を「味わう」ことでしか、その答えに近づけない。だが、それは同時に、俺自身の精神を危険に晒す行為でもあった。

彼の検索履歴は、ひどくスパイシーで焦げ付いた味がした。『量子コンピューティング 応用』『意識データ化 理論』『不可逆性脳機能障害』……。焦りと渇望が、舌を焼き尽くす。

誰かと交わしたチャットのログは、冷たい鉄の味がした。相手を論破しようとする、怜悧で、どこか孤独な響き。

摂取するたびに、世界のノイズは密度を増していく。そして俺の記憶も、少しずつ侵食されていった。ふと窓の外を見たとき、自分の部屋の窓ではなく、悠人の部屋から見える景色が広がっている錯覚に陥る。コーヒーを淹れようとして、彼が好きだった豆を無意識に選んでいる自分に気づき、愕然とする。

視界の隅で輝くメモリークリスタルは、俺が新たなデータを摂取するたびに、その内部の光を複雑に変化させた。最初はただの光の点だったものが、やがて星図のような模様を描き、ついには断片的なプログラムコードらしき文字列を明滅させるようになった。それは暗号であり、道標だった。

「お前は、どこへ俺を導こうとしている?」

クリスタルは答えない。ただ、無機質な光で、次の「味」を促すように輝くだけだった。俺は、悠人という巨大な記憶の奔流に飲み込まれまいと、必死に自我の岸辺にしがみついていた。

第三章 デジタル・ゴーストの告白

クリスタルが示す星図と、ノイズが頻発する地点情報。それらが指し示す場所は、一つしかなかった。街を見下ろす丘の上にある、古い展望台。子供の頃、俺と悠人が二人だけの秘密基地と呼んでいた場所だ。

冷たい夜風が頬を撫でる。眼下には、まるでデジタル基板のように広がる街の灯り。その光の一つ一つが、今や悠人の感情ノイズによって微かに瞬いているように見えた。

残されたデータはあと一つ。悠人が何重もの暗号化で守っていた、プライベートサーバーのコアデータ。これが最後の手がかりであり、同時に最も危険な「一口」だ。

俺はノートパソコンを開き、覚悟を決めてそのデータにアクセスした。

――瞬間、世界が爆ぜた。

味などという生易しいものではなかった。それは灼熱の奔流であり、絶対零度の絶望だった。希望と諦念、愛とエゴ、創造と破壊。相反する全ての感情がごちゃ混ぜになった情報の濁流が、俺の脳を直接殴りつける。

そして、俺は見た。悠人の記憶を。彼の真実を。

悠人は、不治の病に侵されていた。日に日に思考が、記憶が、自分という存在が崩れていく恐怖。天才プログラマーだった彼は、その運命に抗うため、狂気的な計画にすべてを捧げた。自らの意識を完全にデータ化し、デジタル世界で永遠に生き続ける。『プロジェクト・ノア』。

だが、計画は失敗した。死の間際に強行した意識のアップロードは不完全なまま終わり、彼の意識は断片化してネットワークの海に拡散した。世界中に溢れる物語ノイズは、助けを求める彼の悲鳴であり、バラバラになった自己を再構築しようとする、暴走したプログラムの足掻きだったのだ。このままでは、彼のデジタルゴーストが世界のインフラを道連れに崩壊する。

情報の嵐が過ぎ去り、意識が朦朧とする中、メモリークリスタルがこれまでで最も強く輝いた。その透明な内部に、最後のメッセージが、鮮やかな光の文字で浮かび上がる。

『湊、君が最後の器だ』

全身の血が凍りついた。どういう意味だ?混乱する俺の脳裏に、悠人の記憶の最後の断片が流れ込んでくる。幼い頃、悠人が俺のパソコンに「面白いゲームだ」と言ってインストールしてくれたプログラム。俺のこの特殊な「味覚」能力。全ては偶然ではなかった。悠人は、自らの巨大な意識データを受け止めるための完璧な器として、無意識のうちに、最も信頼する親友である俺を、幼い頃から少しずつ「調整」し、「育て上げて」いたのだ。

俺は、悠人が作り上げた、空っぽの器だった。

第四章 空ろな器に響くは

展望台の冷たい空気が、燃え盛るような俺の思考をわずかに冷ます。目の前の空間が歪み、ノイズが集束していく。暴走した悠人のデジタルゴーストが、俺という「器」を求めて、物理世界に顕現しようとしていた。

選択肢は、二つ。

一つは、悠人の意識を受け入れること。俺の身体を明け渡し、彼をこの世界に蘇らせる。そうすれば世界の崩壊は止まるだろう。だが、橘湊という意識は、悠人という巨大なデータに上書きされ、永遠に消滅する。

もう一つは、俺の能力の全てを使い、彼のデジタル遺産を、その最後の断片まで完全に「消化」し、消し去ること。世界は救われる。だが、それは親友の存在を、この宇宙から永遠に消し去ることを意味した。

「ふざけるなよ、悠人……」

喉から絞り出した声は、ひどく掠れていた。お前は俺を、ただの器としか見ていなかったのか?俺たちの笑い合った日々も、交わした約束も、全部、お前の計画のための布石だったのか?

だが、激しい怒りの奥で、俺の舌は、あの灼熱のデータの味の奥底に残っていた微かな風味を捉えていた。それは、死への圧倒的な恐怖。そして、俺という存在への、歪んでいるが純粋な執着。友情。彼は器が欲しかったんじゃない。ただ、俺と一緒に、生きていたかっただけなのかもしれない。

「馬鹿野郎だな、お前は」

涙が、頬を伝った。

「そんなやり方で生き延びて、お前は本当に幸せなのかよ」

俺は、ゆっくりと目を閉じた。そして、意識を集中させ、ネットワークの海に散らばる悠人の全ての断片を、俺という存在の中に引き寄せた。

「ごめんな、悠人。でも、お前はそんな風に生きる奴じゃないだろ」

最後の「一口」を、味わう。

それは、しょっぱい味がした。悠人が流したかった涙の味。俺が今、流している涙の味。

彼の暴走した意識が、俺の中で静かに溶けていく。ノイズが止み、世界の軋みが消え、街の灯りは穏やかな瞬きを取り戻した。視界の隅で輝いていたメモリークリスタルも、最後の光を放って、塵のように消えた。

展望台に、静寂が訪れる。

俺は一人、夜明けの空を眺めていた。全てを失った途方もない喪失感と、世界を救ったという実感のない達成感。空っぽになったはずの器の中で、一つの確かな感覚だけが残っていた。

舌の上に、永遠に残るであろう、ほんのりとしょっぱい、親友の最後の味。

俺はこれからも、この味と共に生きていく。

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